富樫公一(甲南大学)
シンリンラボ 第19号(2024年10月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.19 (2024, Oct.)
臨床家は,オリエンテーションをどのように決めるのだろうか。
オリエンテーションとは,学派,アプローチ,立場,スクール,などと呼ばれるもので,臨床実践の専門的方向性のことである。広い分類では,精神分析や行動論・認知論,ヒューマニスティック,統合的,身体的,などがイメージしやすい1。
臨床家も,臨床家になろうとする人も,どこかで考えたことがあるだろう。なぜ,自分はこのオリエンテーションなのか,と。決められず悩む人や,どれにも決めたくないという人を含め,臨床実践に携わる者は,これを考えないわけにいかない。
心の捉え方は,いくらでもある。これが正しいというものはない。心は手に取って判断できるようなものでもない。それを扱うとなれば,捉える視座,理解の方法,アプローチの仕方など,立ち位置をある程度決めておきたくなるものだ。
オリエンテーションが決まるというのは不思議なことだ。選択肢はいくらでもある。上に挙げたのはほんの一例だ。それぞれの中にも,さらに細かい立場がある。その中のいくつかを,臨床家はどうやって自分の専門としていくのだろうか。
脚 注
1. 分類名は「公認心理師の基礎と実践」シリーズ第3巻『臨床心理学概論』(遠見書房)を参照した。オリエンテーション名は,下手に書くとオコラレルので,ここから引用した。公認心理師制度の開始に合わせて,学部科目すべての教科書をずらりと取り揃えてみせた出版社だ。文句がある人は,そこに言って欲しい。↩
どうやってオリエンテーションを決めましたか?
実際,この質問は,若手からよく寄せられる。
「先生は,どうやって精神分析に決めたんですか」というやつだ。
この問いは結構困る。
何と答えたらよいかわからないからだ。
まず「決めた」という意識がない。他のオリエンテーションと比較し,自分の性格や興味に照らして合理的に選択したわけではない。出会いみたいなものだ。「なんだろうと魅かれて,勉強したらはまった」というのが,正直なところだ。人生を変える大きな出会いだったが,吟味して選択したとは思えない。
しかし,ランダムに割り当てられたわけでもない。「精神分析」「行動論・認知論」「ヒューマニスティック」「身体的」と,オリエンテーション名を書いた数百枚のカードを裏返し,一枚めくったら精神分析だったからそれをやることになったわけではない。精神分析に魅かれたのは確かで,私の場合はやはり,他のものにははまらなかったと思う。
「では,魅かれた理由は何ですか」と聞かれても,それに答えることがまた難しい。
今,自分が感じる精神分析の魅力を話すことはできる。しかし,最初にそれに出会ったとき,何に魅力を覚えたのかはわからない。そのとき,精神分析がさっぱりわからなかったからだ。わからないものに魅かれたのだ。理由を語れるはずがない。
最初に出会ったのは,高校生の頃だ。フロイトの本を片っ端から読んでいた。「難しそうなの読んでるね」と,何となく気になる子に言われ,ふふん,といい気になっていた。もちろん,「へんなやつ2」と思われていただけだ。
あるとき,「否定」という論文を読んでいた。
現実吟味の最初の,つまり直近の目的は,表象されたものに対応する対象を現実の知覚の中に発見することではなく,それを再発見すること,すなわちそれがまだ存在しているということを確認することなのである。主観的なものと客観的なものとを互いに別々のものとすることができるためには,さらに思考力の中の別の能力が必要となる。表象の中で知覚が再生産される時,いつも元の知覚が正確に反復されるとは限らない。それは省略によって変更されたり,さまざまな要素が融合して改変される可能性がある。
(『フロイト全集19巻』から引用,p.6;傍点は原文)
わからなさに震えた。一行目はもうまったくわからない。日本語であることはわかるが,文字は読めても意味がわからない。
このわけのわからないものを,頭の良さそうな文学者や哲学者が百年にもわたって,ああでもない,こうでもないと議論しているのだ。彼らには何が見えるのだろう。謎は深まるばかりだ。ただ,23回くらい読んでいると,ぼやーっと意味がわかってくる気がする3。
その後も同じだ。大学に行っても,大学院に行っても,臨床に出ても,魅力について話すどころではない。本を読んでも,エライ精神分析家の話を聞いても,ほとんどわからないままだ。この「ほとんど」というのがポイントで,何となくわかる気がするから,かえって離れられない。
とにかく気になったのは,自分にわからないことが,先輩たちにとっては随分面白いものらしいということだ。研修会の登壇者も,それと議論する人も,やがて出会う分析家やスーパーヴァイザーも,とても楽しそうに話す。学会で,誰かが誰かを批判している場面でもそうだ。双方の主張はほとんど同じなのに,熱っぽく,楽しげに批判し合っている。これほど気になることはない。
脚 注
2. 今なら「キモイ」と言われていたはずだ。↩
3. 25回読むと,最初よりもわからなくなる。↩
訓練分析について
わからない魅力が頂点に達するのが,訓練分析だ。
精神分析家を目指す人に求められる。教育分析と呼ぶ人もいる。
「訓練分析」というくらいだから,ロールプレイみたいなものか,と思う人もいるかもしれない。しかし,これは普通の精神分析だ。要するに,自分が患者やクライエントになることだ。
他の学派でもそうする人はいるが,精神分析や力動的心理療法の場合,歴史的にも,制度的にも,自分の精神分析や心理療法がもっとも重要とされ,訓練生のこなすべき時間数が決められている点ではっきりしている(Falzeder, 2000; Sahlberg, 2018)。
精神分析をオリエンテーションとする先生がいたら,体験を聞いてみたらいい。
最近は減ってきたが,なかにはこれを体験したことがない人もいて,その人に当たると,ひどくばつが悪い顔をする。「私に精神分析のことを聞かないで」というような態度だ。訓練分析は洗礼のようなものなのか。
体験した人に当たると,誇らしげな,しかし何かを隠すような態度で応じてくれる。多くの人は,それが,精神分析にとっていかに大切かを語る。「それなしでは,精神分析を語れないよ」と言わんばかりだ。訓練分析がいかに苦しいものかということを,自慢げに話す人たちもいる4。
「では,そこで何を得たのか」と尋ねると,今一つ要領を得ない。
「いやー,これはね,やってみないとわからないんだよ」とか,「それぞれの体験だからね。答えられるものではないんだよ」と応答する。答えになっていない。
でも,彼らが何かステキなものを得ているのは間違いないようだ。みんな,特別なものを見てきたような表情をする5。まさか,臨死体験ではないだろうが,それが何かはわからない。普通に考えれば随分怪しげな話だが,エライ先生たちに,やってみなければわからないと言われると,覗きたくなるものだ。では,やってみるかという気になる。
私は,そこで始めてしまった。そうなったら,もう抜け出せない。気がつくと精神分析の人たちが集まる場所で,世間に理解されないことを楽しく語るようになっていた。
もう少し健康な人は,ここで始めたりしない。「不気味なもの」に距離を置く。
このエッセイも,精神分析の話ならここから先は読まないよ,という人もいるかもしれない。
しかし,ちょっと待ってほしい。
脚 注
4. そのあとに,「ぼくの病理は実に根深くてね」と語りだす。↩
5. それなのに,訓練分析が楽しくて仕方がなかったと言う人はいない。それを言うとおそらく,「あいつは分析が不十分だ」と陰口をたたかれる。↩
何に魅かれているのかはわからない
これは,精神分析だけの話ではない。
何かを探求するにしても,ある道に入るにしても,魅かれた時点では,その魅力はわからない。魅力を語れるくらいなら,探求する気にならない。よくわからないが,自分が知りたい何かがあると思うから,はまるのだ。
友人に,人が数字に見えるという統計のプロがいる6。彼は,世界の真理がわかると思って哲学科に入ったが,何を聞いても面白くなく,授業で熱く数字を語る統計の先生に出会い,その魅力にすっかりはまったそうだ。彼には,哲学の話は,何を聞いてもすでに知っていることにしか聞こえなかったという。彼は,統計はわかるようでわからないが,探求すれば,自分が求める世界が見えると確信したらしい。統計の先生はその世界を見たに違いないと,惚れ込んだ。
公認心理師になりたいと大学に進学した学生も同じだ。心理学の魅力をわかって入った人など,ほとんどいないだろう。普通は,学ぶ内容さえよくわかっていない。
だから,入学していきなり,統計データの処理をやらされてびっくりする。
「理系じゃん,これ。オープンキャンパスではそんな雰囲気じゃなかった」と文句を言っても,もう遅い。それに,オープンキャンパスでは,センセイたちも,強調しすぎない程度にそんな話をしていたはずだ。
「心理学では理系的な知識がいるし,統計とかは出てくるよ。でも,パソコンを使えるなら,そんなに大変じゃないよ。全然大丈夫♡」と。
「笑っていられるのも今のうちだ。最終的には,がっつり多変量解析をやってもらうからな」といった本音は口にしない。
入学した学生は,「なんでこれが心理学なんだ」と驚く。
キョウジュはすかさず,これぞ心理学だと興奮気味に語る。これをやるから,立派な臨床家になれるのだと言い切る。
これをやると,どういった意味で立派なコウニンシンリシになれるんだ。
学生にはわからない。やっていることは,実験結果を並べて統計処理することだけだ。しかし,そんなに自信満々なら,キョウジュは何かを知っているに違いない。暑苦しい熱意が妙に気になる。
あとはもう,だまされているようなものだ。よくわからないが,とにかく気になるので勉強する。
そのうち,「なるほど,こうやって科学的思考が臨床現場に活かされるのか」と,キョウジュに惚れ込んで科学者-実践家モデルに進む人もいれば,「こうした科学的思考が取りこぼしているものは何か」と,キョウジュには見えない世界を語るセンセイに惚れ込んで,別のモデルを探求する人もいる。
どちらが正しいというわけではない。どちらも,心の捉え方や扱い方に関する一つの方向性だ。比較的原初的な形のオリエンテーションである。
脚 注
6. その人によれば,私は元気なときは4219で,疲れているときは3341だそうだ(実話)。縁起が良い感じはしない。↩
謎が消えるとき
しかし,この絞り込み作業,それほど簡単ではない。
オリエンテーションを決める際には,誰かに惚れ込むことが多いからだ。しかし,そこで自分を見失ってもいけない。
惚れ込む相手は,自分が知りたい何かを知っていると想定された主体だ(Lacan, 1964)。手の届く先生のこともあれば,歴史上の人物のこともある。私の場合は,それがコフート(Kohut)やストロロウ(Stolorow),オレンジ(Orange),ベンジャミン(Benjamin)だった。
私たちは,その人が知っていると思われる謎めいたものに魅かれる。その内容は,探求してみるまでわからない。
最終的に,たぶん,その人の見ている世界にはたどり着かない。たどり着いたとしても,本当に同じものかどうかは誰にもわからない。その人が知っているように思われた世界が,実際にあるのかどうかさえわからない。
やがて,「おそらく,これだろう」という程度にわかるときが来るかもしれない。幸いにしてそうなったなら,探求は終わる。惚れ込んだ相手の謎めいた魅力は消える。それがオリエンテーションの探求作業なら,そのときに,自分にとってのオリエンテーションが浮かび上がるのかもしれない。
危ないのは,惚れ込んだ相手が,自身を正しい魅力を知る人間だと思っている場合だ。あるいは,絶対知の立場を引き受けている場合である。
その人は,私たちを正しい答えに導こうとする。「あなたが学ぶべきことはこれであり,これをそのまま身につければ,あなたはこのオリエンテーションをマスターできる」と迫る。それを身につけようとしないのは論外だ,と。
私たちはその人に惚れ込んでいる。しかし,自分が何を知ることになるのかはわかっていない。その状態で,惚れ込んだ相手が絶対的な正解を提示したらどうなるか。
謎はまたたくまに消える。
私たちは,正解を機械的にコピーするだろう。謎の消えた世界で,私たちは,自分を見失い,その人に服従する。
私たちはそうしたリスクを背負いながら,自分が求めるものを知ると思われる人に一度はどっぷり浸かってみなければならない。なかなか難しい作業だ。
もっとも謎なのはなにか
「きみたちには,私の見ている世界はわからないかもしれないが,私には,数々の人をなおしてきた心理療法がある」
大学院の授業では,いつものようにキョウジュが熱弁をふるっていた。
「さすがだ」と,ため息とともにつぶやいたのは,博士課程に進学したミニキョウジュだ。相変わらず,アシスタントをしている。
「でも,もうみんな二年生だからな。臨床センターのケースも増えてきただろう。勉強することだ。私の探求する心理療法をちゃんと学べば,クライエントがわかるようになる」
受講生はみんな,下を向いている。何度も聞かされている話だ。
「本当にそうなのかな」と,隣の席の学生がつぶやいた。入学時から好意を持っていた,あの同級生だ。
思わず出てしまったような,小さな声だ。
「なに? 何か言ったか?」
キョウジュは聞き逃さない。同級生を見る眼光は鋭い。
「いえ,何も……」
「『本当にそうなのかな』と,聞こえたが?」7
同級生はキョウジュのゼミ生だ。キョウジュに睨まれるのはまずい。横目で見ると,うつむいたままだ。震えているようにも見える。
何か言わなければならない。第六回の借りもある。
「私が先に発言してもよろしいでしょうか」
「また,きみか」
「はい。また私です。センターでケースをやるようになって思ったことがあるのです。私は,心理療法の考え方をいくつか学びましたが,センセイのように経験はありません。だから,センセイの見ている世界はまだよくわかりません。わからないからこそ,それに興味を持って勉強しています」
ここで,一息ついた。
この先の発言が問題なのは,自分でわかっている。
「ならば,いいじゃないか。頑張って勉強することだ」
「はい。勉強します。ただ……」
「ただ,なんだ」
「私が一番興味を持っているのは,センセイの頭の中ではありません。クライエントの心の中です」
ざわと,教室の空気がかすかに揺れた。
「私にとって,一番謎で,一番知りたくて,一番惹かれるのは,クライエントの心です。もちろん,センセイが見ているものを学びたいと思っています。でもそれは,センセイの頭の中を知りたいからではなくて,クライエントの心を知りたいからです。センセイの探求する心理療法をちゃんと勉強すれば,クライエントの話がわかるようになる,といったものではないと思うのです」
「なんだと」と,ミニキョウジュが身を乗り出した。
キョウジュが目でそれを制した。「続けたまえ」
「はい。その形だと,センセイの見ている世界からクライエントの心を見るだけになってしまうと思うのです。それは,かえって見えない部分を作るかもしれない。それは,一つの見方にすぎないからです。オリエンテーションを作るから,クライエントの心を知れるわけではありません。クライエントを知りたいと思った先に,オリエンテーションを置くべきだと思うのです」
「そんなのは,ただの言葉遊びだ」と,ミニキョウジュが吐き捨てるように言った。
教室は咳払い一つ聞こえない。
隣の同級生の視線を感じる。でも,どんな顔で自分を見ているのかはわからない。首が回らないのだ。身体がこわばっている。
キョウジュが口を開いた。
「ならば,聞こう。きみは,先人の知恵を知らずして,どのようにクライエントの心を理解しようとするのだ。精神医学的診断や心理的アセスメント,数々の心理学の知見,エビデンス,心理療法の理論を知らずして,心が見えるとでも言うのか」
「いえ,私は,そうしたものを知らなくてよいと言っているのではありません。私が言いたいのは,初めにオリエンテーションがあるわけではないということです。オリエンテーションは,私たちがクライエントの心の謎に魅かれ,それを探求しようとした先に出てくるものではないかということです。この順番が大切です」
「いや,きみの言っていることは,理論を知らなくてよいというのと同じことだ。オリエンテーションは一つであるべきとは言わない。しかし,よく考えてみたまえ。方向性をまったく持たない者が,クライエントの心に向き合ったらどうなる。そこに謎は生まれない。心がどんなものかも見えないし,疑問も魅力も感じない。立ち位置がないからだ。何も持たずに,相手の心をどうやって浮き彫りにするつもりだ」
むむ。一瞬ひるんだ。
「もういいだろう。キョウジュに勝とうと思っても無駄だ」と,ミニキョウジュが割り込んだ。「そろそろ時間ですよ,キョウジュ」
「今日は終わりだ」と,キョウジュは教室のドアに向かって歩き出した。
「いや,待ってください。まだ終わっていません」
立ち上がり,振り返ってキョウジュの背中に声をかけた。
まだ,言うべきことはある。
「ひとつ言わせてください。オリエンテーションはなくても,私たちには自分の心がある。そこに一つの文化があるのです。クライエントの心にはまた違う文化がある。その違いは,十分謎を生み出すのではないでしょうか。例えば,どうして,この人はこんなことでこんなに悲しむのだろう,自分はそうではないのに,と」
ドアに手をかけようとしていたキョウジュは,そこでぴたっと止まり,振り向いた。
視線が完全に合った。
「わからんでもない。しかし,きみは自分の考えの危険性に気がついていない。治療者がクライエントの心の謎を引き受けることは構わない。しかし,治療者はクライエントの謎に魅了されすぎてはいけない。どちらも生き残れなくなる。よく考えた方がいい」
一瞬,目の前に閃光が走った。
どういうことだ?
気づくと,キョウジュはもう教室を出ていた。ミニキョウジュは,キョウジュの書き散らしたホワイトボードを素早く消し,そそくさとキョウジュの後を追う。
「毎回これだな。昼飯いこーぜ」と,受講生が連れ立って出ていく。
キョウジュが何か大切なことを言った気がする。ただの目立ちたがり屋ではなかったのか。キョウジュは何を知っているんだろう。自分は何かを見逃しているのか。
「ありがとう」
気になる同級生に声をかけられて,我に返った。座ることも忘れていたようだ。
「あ,うん」腰を下ろした。
「助けてくれたんだよね。自分も,同じことを考えていたんだ。でも,言えなかった。堂々と言えるなんてすごいよ」
「そうかな。ありがとう」少し照れた。
「じゃ,行くね。本当にありがとう」と,同級生は立ち上がり,軽い足取りでドアに向かった。
「あのっ」立ち上がって,声をかけた。「よかったら,今度食事に行かないか。この話をもっと突っ込んで考えたいんだ。キョウジュの言ったことも考えたい」
同級生は,ドアの前で立ち止まり,くるりとこちらを向いた。
自分の心臓の鼓動が聞こえる。
「いいよ。来月キョウジュは国際学会でいないんだ。ゼミの人たちもいないから,そのときに行こう。二人で話してみたいのは一緒だよ。大切な話だと思う」
よしっ。二人きりで議論ができる。声をかけてよかった。
「なにしてる。今からゼミだぞ」と,ミニキョウジュが憮然とした表情でドアから首を出した。
「すいません。今,行きます」
同級生はちょこっと舌を出してから,踵を返して出て行った。
それにしても,クライエントの心に魅了されすぎてはいけないとは,どういうことだ。魅了されずにこの仕事ができるものだろうか。
脚 注
7. 編集者註:毎回このパターンなので,工夫してくださいと伝えたが,アイディアはなかったようだ。↩
問い続けられるか
臨床心理学という体系も,一つのオリエンテーションだ。
心にアプローチする方法はたくさんある。一般心理学も,哲学も,精神医学も,社会学もそうだ。生物学や数学だって,ある意味でそうだろう。臨床心理学はその中の一つだ。
オリエンテーションは,それ自体一つの主体である。そこに一つの価値観,理念,世の中に対するアプローチの仕方を含む。それ自体が,自分を一つの正解として私たちに迫る。私たちは,それに組み込まれずにいることはできない。
私たちは,そのなかで,オリエンテーション自体を問い続けなければならない。
そうでなければ,私たちはその正解を実行するだけになるからだ。
なぜ,自分のオリエンテーションが一番正しいという態度が生まれるのか? オリエンテーションは,私をどのような臨床家にしているのか? ミニキョウジュは,どうしても生まれてしまうものなのか? 心を扱う専門家たちの間に,どのように抑圧や排除,羨望が生まれるのか?
問うべきことはいくらでもある。
問題は,どうしたらそれができるかだ。
謝 辞
本稿の概念の整理にあたり,友人・同僚の丸山明氏からご意見をいただいた。氏の卓越した知性と感性に感服しつつ,ここに謝意を表したい。ただし,筆がすべった部分については一切助言を受けていない。
文 献
- Falzeder, E.(2000)Profession-psychoanalyst: A historical view. Psychoanalysis and History, 2(1); 37-60.
- Freud, S.(1925)Negation. The standard edition of the complete psychological works of Sigmund Freud, vol.19, pp.233-240.((石田雄一(訳)(2010)否定.In:フロイト全集 19巻.岩波書店,p.1-7.)
- Lacan, J.(1973)Séminaire XI, Les quatre Concepts fondamentaux de la psychanalyse. Le Seuil, Paris.(ジャック=アラン・ミレール(編),小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭(訳)(2000)精神分析の四基本概念.岩波書店.)
- 森茂起(2018)フェレンツィの時代─精神分析を駆け抜けた生涯.人文書院.
- 野島一彦(監修),岡村達也(編)(2023)臨床心理学概論 第2版 公認心理師の基礎と実践③.遠見書房.
- Sahlberg, B.(2018)Training analysis and training models. The Scandinavian Psychoanalytic Review, 41(2); 119-125.
富樫公一(とがし・こういち)
資格:公認心理師・臨床心理士・NY州精神分析家ライセンス・NAAP認定精神分析家
所属:甲南大学・TRISP自己心理学研究所(NY)・栄橋心理相談室・JFPSP心理相談室
著書:『精神分析が⽣まれるところ─間主観性理論が導く出会いの原点』『当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望』『社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか』(以上,岩崎学術出版社),『Kohut's Twinship Across Cultures: The Psychology of Being Human』『The Psychoanalytic Zero』(以上,Routledge)など
昨日稲刈りを無事に終えました。刈り取った後の圃場を見渡すと、キュンとします。その余韻に包まれた中で、今回は読ませていただきました。オリエンテーションのハナシですね。(と、タイトルからは見えましたけど、クライアントとセラピストとの間のことについても思考が拡がっていきましたので、キョウジュとのやり取りになにがあったのだろうと、問いを立て始めたところです。早く続きが読みたいなあと毎回思わせられるところ、ですね~。どうやらそれは、初めの方で引用されたフロイトの文章とも関係していそう。こう考え始めたところで、ワタクシの頭に浮かんできたのは、またもやライブでの体験。)オリエンテーションのハナシを離れて、例えばバンドのギタリストとピアニストが、相手のソロに呼応して奏でていくというソロバトルのことが思い浮かんでまいりました。ちゃんと相手のプレイを聴いて、そして今度は自分が何事かをプレイするわけですが、相手にのまれてはいけないのだというようなことを、ステキなバトルをなさるお二人から伺ったことがあります。「掛け合い」とかって雑な言葉で括ってはいけないような、二度と再現できないようなクリエイティブな時間を下さるお二人です。てえことを書いた辺りで、キョウジュの言った言葉がなにやら気になってきました。今夜あたり、あのギタリストを誘って、博多ラーメンを肴に飲みかわしつつ語り合ってみようかと思い始めています。第8回が楽しみです。