富樫公一(甲南大学)
シンリンラボ 第18号(2024年9月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.18 (2024, Sep.)
あなたはどのようにして専門家になったのか。
この問いは,簡単だ。
大学受験直前に精神分析っぽい本に出会い,急に進路を変更した。入学すると,想像とはあまりにも違う授業内容に心理学への興味を失った。キャンパス行きのバスの路線番号を忘れるくらいアルバイトの日々をすごし,気がついたら結構な収入になっていた。ある日,税務署から電話がかかってきて,丁寧な態度で呼び出されたので行ってみたら,その場で確定申告させられた1。税金の講義2もされた。心を入れ替えようと大学院に進学したが,同時に始めた病院の仕事に夢中になり,職場に入り浸った。当時,ほとんど知られていなかった臨床心理士資格を取れと言われたので取った。
それが,専門家への入り口だった。
恥ずかしい人生だ。
資格を得て専門家を意識したかというと,そんなことはない。病院ではエラそうに他職種に患者の心理を解説したが,暴れる患者を抑え込んで鎮静させ,根気強く彼らと付き合う看護師の方がずっと専門家だと思っていた。
専門家を意識するようになったのは,米国で精神分析の訓練を受け,国内外で自分の考えを発表するようになってからだ。
その意味では,専門家意識を持ってからの日は浅い。
すると,急に怖くなった。
専門家であることの加害性や脆弱性を認識したのだ。
それまでの所業がフラッシュバックのように頭に浮かび,恥ずかしさと罪の意識でいっぱいになった。エラそうな態度,不用意な言動,非共感的な質問,見透かしたようなコメント,その裏にある無力で脆弱な自分。そのすべてだ。
自分の言動があとになって意味を持って浮かびあがったのだ。
事後的に構成されるのはトラウマだけではない。加害もときにそうなる。
専門家であることの意味と加害性,脆弱性,人としての応答性など,倫理的転回を語りだしたのはそのあたりだ。
脚 注
1. 私のすべての銀行口座の記録は彼の手の内にあった。↩
2. 心理学より面白かった。↩
早く中身を書け
また,余計なことをだらだらと書いている。
「さっさと中身を書け」
そう思った人もいるかもしれない。
焦らずに読み続けて欲しい。多分,ここまで書いたことの半分くらいは重要だ。
こんな話をするのは,連載も折り返し地点に差し掛かったからだ。
第二回で臨床家になる動機を問うた。
第三回から第五回で治療行為を再考し,それにまつわる臨床家の考えを問うた。
ここから数回,臨床家がどのようにして専門的な考えを持つのかを考えてみたい。
倫理的転回の原点だ。私は第一回でこう述べた。
倫理的転回は,専門家以前の人としてのあり方を問う。場合によっては,専門知識のせいで,本来の倫理的姿勢を見失っていないか,と問いかけてくる。臨床心理学や専門的コミュニティに対する私たちの向き合い方も問われる。
富樫公一(2024a,上から2/3辺り)
悪くない。なかなか素敵な文章だ。
倫理的転回が探求するのは,「専門家以前の人としてのあり方」だ。
そうなると,どのように専門家になるのかを問わずには済まされない。
始めから大人だった人はいないように,初めから専門家だった人はいない。
キョウジュだって,最初からキョウジュだったわけではない。
生まれる前から社会があったように,専門家になる前から専門業界や社会があった。
どんなに新しい専門業界でも,その前身となる社会や文化,業界はある。
それが,私たちを呼び止める(interpellation)。「臨床心理業界だ。お前は,誰だ」と。
私たちはそこで,自分を語り出す。「私は同種の人間です」かもしれないし,「私はそこにおりません」かもしれない。
キョウジュも,臨床心理業界に自分を見いだし,そこで主体となっただけだ。
専門家は作られる。
専門家としての私たちは,私たち自身だが,私たちが思うほど自分ではない3。
学会やセミナーでの発言が,どの程度自分の言葉なのか振り返ってみたらいい。専門的な発言ほど,それまでの訓練や研修,人との議論の中で耳にした誰かの言葉だ。
上の引用だって,素敵な文章だと悦に入っているが,いかにも精神分析や臨床心理学の専門家が言いそうなことだ。
歴史を紐解けば,千年以上前から似たことを言っていた人はたくさんいる。
脚 注
3. 何を言っているのかわからない。↩
専門業界が様々な場面で問いかける
心に関心を持ち始めたのは,専門業界に出会うずっと前のはずだ。
他人や自分に心があると知ったときから,それが気になった。関心を持ち続ける自分のところに,専門業界が登場する。
中学の頃かもしれないし,高校の頃かもしれない。社会人になってからかもしれない。きっかけは,カウンセラーとの出会いかもしれないし,書籍との出会いかもしれない。
公認心理師関連の大学に入学すると,呼び止める声は強くなる。
「公認心理師になりたい人は手を挙げて」と,新入生ガイダンスでキョウジュが声を上げる。18歳か19歳がほとんどだ。多くの学生の正直な答えは,「なんとなく気になっているが,まだわからない」といったところだろう。しかし,「今から考えておかないと専門家にはなれないぞ」と,キョウジュは揺るぎない態度で判断を迫る。
『公認心理師の職責』の授業では,キョウジュは法の言葉で迫る。
「国家試験に出るから覚えておくこと。公認心理師とは『保健医療,福祉,教育その他の分野において,心理学に関する専門的知識及び技術をもって』(公認心理師法第二条)仕事をする者のことだ」と。そして,「この仕事をするなら,科学者-実践家モデルで世の中を見なければならない」と追加する。
キョウジュの声がひときわ大きくなるのは,大学院進学のときだ。
臨床心理をやるのはいいが,その中で何をやるのかと問うのだ。
「臨床心理の専門家」ではだめだ。
医師が「医学の専門家」と言わないのと同じだ。
その中の細分化された個別科学を探求するのが,日本の専門家だ(村上,2022)。
大学院の受験面接では,「どんな研究をしたいのか」「どの心理療法のオリエンテーションに興味があるのか」と,キョウジュに詰められる。
「まだ決まっているはずがないですよ。だって,4年前まで高校生だったんですよ。学部で広く心理学を学んだだけで,何をやりたいかなんて,分かる方がおかしいじゃないですか。どんな仕事に就くかで話は大きく変わりますよ」と,本音を言ってはいけない。
なんとなく書くことになった卒論が,どれだけ自分の興味に合ったものなのかを語り,大学院ではそれを拡大して研究したいと,辻褄を合わせて語らなければならない。
心理療法のオリエンテーションも,三大心理療法を中心にいくつか学んだが,細かいことがわかるはずもない。それでも,その中のどれを探求したいのか,これまでの体験と照らして説明しなければならない。
そんなことでよいのかと,受験生はちらっと思う。
大丈夫だ。大学院に入ると,CBTとか,MBTとか,EMDRとか,ACTとか,PCITとか,BETとか,AEDPとか,DNMSとか4,いつの間にか,一つか二つくらいは自分が好むアプローチを挙げられるようになる。
ミニキョウジュのように,「キョウジュの開発する万能心理療法5しか考えられない」と,初めからどっぷり浸かっている人もいる。
グループの言葉を獲得し,人間関係に組み込まれ,考え方の伝達方法を知るからだ。
社会人になり所属する学会やグループが明確になってくると,よりローカルな言葉で,特有の人間関係の中,グループの考え方を伝達されたり,したりするようになる。
立派な専門家の出来上がりだ。
脚 注
4. 公認心理師を目指す人は,たぶん,これを記号のまま覚えなければならない。私はこの中の3つくらいしかわからない。↩
5. キョウジュが開発するのは,世界で532番目の心理療法となる「万能柔軟志向型還元療法(All-purpose Flexibility Oriented Reduction Therapy)」,略してALFORTだ。↩
訓練されるのはなにか
専門性とは,私たちが利用する考え方や技術ではない。
私たちを組み込む,狭い範囲で共有された言葉と人間関係の伝達システムのことだ。
それを組織的に会得させるのが訓練だ。
言葉と人間関係は世界をつくる。それに組み込まれた者は,そのように世界を描く。次の者に対し,その言葉と人間関係を共有させる方法も知る。
病院で臨床のことだけ考えていたとき,専門家意識が薄かったのは当然だ。その方法を知らなかったからだ。
米国で訓練を受けて業界を知り,同僚と意見を交わすようになると,米国と日本それぞれの専門家意識が出る。
言葉と人間関係を伝達するシステムを知ったからだ。
性的な関係は求めるが,親密な情緒関係は発展させたくないと主張する患者が,このまま生きていく方法を探りたいと訴えたとする。患者は,自分を変えたくて心理療法を始めたわけではないと強調する。結婚せず,パートナーを作らず生きていくことを決めたので,そのような自分に納得したいと主張する。
精神分析や臨床心理学,精神医学の訓練を受けた者は,親密性の発達や愛着に何らかの問題があると判断するだろう。
性的な関係を求めるが,親密な関係を求めないのは,専門的に想定される健康や成長から逸脱したものと判断されるからだ。
両親は不仲で,母親が暴力的,父親が抑うつ的だったらお話としては十分だ。
患者は,過去のトラウマや対象関係が理由で,情緒的な問題を抱える人にされる。
重要なのは,この判断が正しいかどうかではない。
判断は常に仮説であり,永遠に確定することはないからだ。
重要なのは,どのようにして私たちがそのような判断をするようになり,そのように判断しないときに何が起こるのかである。
伝達し,伝達される関係
うーん。やっぱり何かおかしい。
「何がおかしい?」
ふと顔を上げると,キョウジュがこちらを凝視していた。
大学院の『心理支援に関する理論と実践』の授業だ。
「なんでしょう?」
「何かおかしいと,言っていたじゃないか。何がおかしい?」
知らないうちに声に出ていたようだ。
「あ。いえ。大した話ではないのですが。このケースですが,確かに,一般的には親密性や愛着の問題があると言えるかもしれません。しかし,そうかもしれないし,そうではないかもしれないと思うんです」
「どういうことだ?」キョウジュの声色が変わった。「説明してもらいたい」
これで十分だ。キョウジュがこの発言を適切ではないと考えていることがわかる。
キョウジュが同意しているときは,「説明してくれ」とは言わない。
「なるほど。私のかかわった例ではね」と,自分の経験を語りだすか,「それは,よいポイントだと思う。親密性とはつまりね」と,中に出てくる概念の説明を始める。
全員の前で説明させられる様子を見て,受講生たちは,まずいことが起こったことを知る。
「それはその。まだ確定するのは早いということを言いたかっただけで……」
冷や汗が出た。
「確定するのが早いなら,他にどんな考えがある?」
これだ。説明させるのだ。
これが一番効果的なことをキョウジュは知っている。「それは違う」と,いきなりこちらの発言を否定しない。
「どう説明したらよいか……。あの,たとえば,いわゆるアセクシュアルという人たちがいます。その方たちは,同性異性問わず,ロマンティックな感情を強く持ちません。あ,この方が,アセクシュアルだという意味ではありませんよ。ありませんが,このような専門的な判断は,彼らの苦しみの構図とよく似たものを創り出すのではないかと思ったんです。というのも,アセクシュアルの人たちは,専門家によってそんなはずはないと自動的に判断されやすいのです……」
「それはおかしい」アシスタントのミニキョウジュが⿐息荒く割り込んだ。「この⼈はアセクシュアルではない。性的な関係を求めているじゃないか」
ミニキョウジュはこの授業の単位を取得済みだ。しかし,キョウジュの授業にはすべてアシスタントとして入る。
「いや,ですから,私はこの方をアセクシュアルと言っているのではなくて……」
「今,アセクシュアルと言ったじゃないか」
「ちゃんと聞いていれば,私の言わんとすることはわかります」
さすがに反論した。相手はただの先輩だ。小さくなってばかりいられない。
「とにかく説明してみてくれるか」
二人のやり取りを見ていたキョウジュは,ミニキョウジュの明らかな間違いを助けるように口を出した。
「はい。私は,臨床家の姿勢を言っているのです。私たちは,人は親密な関係を求め,ロマンティックな関係を求めるものだと習います。専門的にも,文化的にも,そう理解するように訓練されます。だから,専門家は,アセクシュアルの人たちが来ると,まだそういう感情や気持ちを成熟させていないだけだと,そういった感情が妨害されているに違いないと考えてしまいます。つまり,親密性の発達が未熟だとか,あるいは,病的に抑圧されていると考えるわけです。でも,彼らからすればそういったものではありません。この概念が知られるまで,彼らはひどく苦しみました。彼らにとって当たり前のことが通じないからです。このケースだって,親密な関係を持たないのは本人からすれば普通のことなのかもしれない。傷つかない形でほどほどの性的関係を持ちながら,でも結婚をせず,深い親密な関係を持たずに,人生を送る方法だって,否定されるべきものではないと思うのです。そうした生き方を探すことだって,私たちの大切な仕事かもしれません。もちろん,これが正しいと言っているわけではありません。ただ,自動的に親密性に問題があると考えるのはおかしいのではないかと,そういうことを……私は言いたかっただけです」
言い終えて,キョウジュをちらりと見た。
教室は静まりかえっていた。
キョウジュが口を開いた。「親密な関係を求めない人はいない。それは,心理学的にも脳科学的にも証明されている。親密な関係を持たない人が,不安定な対人関係を展開するということもエビデンスがある」
「ですから,親密性の問題があるかどうかの話ではなくて……」
「まあいい,言いたいことはわかってる」
全然わかっていないと思ったが,黙った。
「意見のある人はいるか?」と,キョウジュは他の受講生に尋ねた。
これだ。この人は,みんなの前でこれをやるのだ。
こうされると,妙な罪悪感と羞恥心が湧く。
まずかったのだ。愛着と親密性は,キョウジュの専門だ。このテーマで余計なことを言うべきではなかった。
学生はみんな下を向いている。
一人の学生がおそるおそる声を出した。「親密性と愛着については,授業でも習いましたし,その成長を促すのは大事な心理療法の方針だと思います」
みんな,小さくうなずいている。
「だから違うんです!」と,思わず大きな声が出た。「そうではないんです。その判断が正しいかどうかではなくて,専門家の考える姿勢について言っているのです」
「まあいい,まだ学生だ。いろんな意見を持ったらいい。ただ,親密性についてもう一度勉強した方がいいな」
ちょうど授業の終わりだった。キョウジュは立ち上がって出て行った。
受講生たちも,ゆるりと一人ずつ教室を後にした。
「どうして伝わらないんだ!」人気のなくなった教室で拳を握りしめた。「自分の言っていることはおかしくないはずだ」
涙が出てきた。
「学生だ」というのも,キョウジュの武器だ。
キョウジュは知識があると想定されている。こちらは知識がないと想定されている。
「専門的な姿勢には,リスクが潜んでいると思ったんだ。素直に相手の言っていることを聞けない専門家に,クライエントは安心して自分のことをまかせられるものか」
気がつくと,隣にキョウジュのゼミ生が座っていた。
入学したときから好意を持っていた同級生だ。まだ告白はしていない。
「そうだよね」アルフォートの小袋を一つ差し出してくれた。「言っていることは間違っていないと思う。でも,ごめん。意見を言える雰囲気じゃなかった」
「いいんだよ。気にしないで」
「ちゃんと言い返せる日が来ると思うよ」
うれしかった。
「うん。早く行った方がいい。次はキョウジュのゼミでしょ? 一緒にいると損するよ。こっちはジュンキョウジュのゼミ生だ」
こんなところを見られたら,何を言われるか分かったものじゃない。
でも,勇気はもらえた。いつか,自分の考えをちゃんとまとめるんだ。
問いを行う自分たちの態度を問いに付さずして,何が専門性だ。そうでなければ,専門性は暴力にさえなる。
悔しい。もっと,自分の言葉で主張できるようになりたい。
修士論文は,言われるままに量的な調査研究をするつもりだったが変えよう。臨床心理学の倫理の文献研究をしてみよう。他の学生の修論は,ほとんど量的な研究だ。文献研究は,センセイたちに一段低いものと見なされやすいことは知っている。ジュンキョウジュも嫌がるだろうが,そんなことはどうでもいい。
「応援してくれる人もいる」
同級生の顔を想い浮かべ,手の中のアルフォートを眺めた。
青いオリジナルだ。アルフォートはこれが一番だ。
専門家の訓練は,考え方と理念を共有させる独特の方法の伝達の中で行われる。
多様性と本質的自己
いや,最近はそんなセンセイばかりじゃない。臨床心理業界も多様性を認めるようになってきている。そういった声が聞かれそうだ。
先生の時代は,あんな教授ばかりだったんですか?6
話は面白いけど,あそこまでではないと思います。
フィクションだと思って読ませてもらっています7。
最近2回分の連載で,そんな意見をもらった。
どうやら今は,そこまでではないらしい。
もしそうなら,悪くない話だ。
今はもっと,多種多様な考え方を認める訓練がなされているのだろう。
SNSやネット上には,たくさんの研修会情報が飛び交い,何気なく登録した団体のメーリングリストからは毎週のようにセミナー情報が流れてくる。
なにしろ,心理療法は500種以上あるのだ(Prochaska & Norcross, 2018; Norcross & Alexander, 2019)。
専門は一つだけという時代ではない。
問題は,どうやって絞り込むのかだ。
好きなものに行くという考え方がある。仕事上必要なものに行くというのでもよい。
そもそも,研修とはそういうものだ。しかし,数が多すぎる。同じ考えの団体が,複数に分裂してそれぞれが相手を批判している。選べない。
可能な限り多くの考え方を学ぶという方法もある。
しかし,複数の考え方を組み合わせるという視座も,それはそれで一つの専門的方向性だ。
先生や先輩が信じる研修会に行く方法もある。
彼らは,いかにその治療法がすばらしいかを教えてくれる。それが唯一無二の治療法のような雰囲気だ。これは結局,今までの専門性と同じだ。
では,人気のところに行くのはどうか。
有名なセンセイのお話に感動した同業者の興奮した声がSNSで拡散される。知り合いがみんな,海外の有名人の話を聞きに行くことを知る。みんなが騒ぐなら,きっと素晴らしいに違いない。逃さずそれに参加する。
それは,マーケットが生み出す不安が作る一見多様な専門性だ。
精神分析家で歴史家のクッシュマン(Cushman, 1996; Cushman & Gilford, 1999)は,歴史的文脈から自己のあり方を読み解く。彼は,現代人の自己は「多重の自己multiple selves」になって,空洞化したと述べる。
多様性と聞くだけで,自動的に良いものだとされる現代の中で,彼は多様性に潜む問題を追及する。
「多様性は良いもの」という意見を否定すると,炎上する。
それ自体すでに自己矛盾だ。多様性は良いという一元的価値観に縛られている(富樫,2024b)。
クッシュマンの多重の自己は,多数の外的アイデンティティを集めた自己である。それは,マーケットと情報産業の発展とともに拡大した。
人々は,「人気のこれを知らないとまずい」と,アイデンティティとなるブランドをいくつか身に着ける。それは,多様性に富むように見えるが,薄い「私」が空虚な自己の周囲に配置されているだけだ。
専門業界はどうだろうか。
心理業界が消費産業化し,人気商売化していくと,とりあえず,いくつか流行りの考え方をおさえておこうという話になる。
多様性は重要だ。しかし,大量にあふれる研修やセミナー情報の洪水の中で,多様な考えに触れれば触れるほど,自分の言葉を失っていないか。
表面的に多様な専門性は,流行りの意見や,限定された語彙のパズルピースを敷き詰めただけの自分を作る。それは,画一化された昔ながらの専門性とは別の意味で,臨床家の主体を奪う。
脚 注
6. それは言えない。↩
7. 全部が本当だと思われても困る。↩
でも,それは避けられない
それは臨床家の努力不足のせいではない。まじめに,真剣にやろうとすればするほど,そうなる。
専門性を否定しているわけでもない。専門性が必要なのは言うまでもない。
専門性は,どんなときでも,主体を構築する一方で,自分を見えなくするのだ。
私たちは,そのようにして専門家になる。
でも,ときどきでよい。ちょっとだけ,目の前の傷ついた人の顔を見た瞬間の自分の声に耳を貸してみるのはどうだろう。訓練された言葉ではない声が聞こえるかもしない。
その声は失われていないはずだ。
その声は専門性に利用されていないだろうか。その声は,専門性を通して命を持った言葉になるだろうか。
連載は今,折り返し地点を回ろうとしている。
文 献
- Cushman, P.(1996)Constructing the self, constructing America: A cultural history of psychotherapy. Addison-Wesley/Addison Wesley Longman.
- Cushman, P., & Gilford, P.(1999)From emptiness to multiplicity: The self at the year 2000. The Psychohistory Review, 27(2); 15-31.
- 村上陽一郎(2022)専門家とは何か.In:村上陽一郎(編):「専門家」とは誰か.晶文社,pp.10-25.
- Prochaska, J. O., & Norcross, J. C.(2018)Systems of psychotherapy: A transtheoretical analysis. Oxford University Press.
- 富樫公一(2024a)臨床家への問いかけ(1) はじめに:精神分析の倫理的転回と問いかけ.シンリンラボ,13. https://shinrinlab.com/toikake01/
- 富樫公一(2024b)心理臨床の倫理における多元主義:倫理的転回の立場から.臨床心理学,24(3); 305-310.
富樫公一(とがし・こういち)
資格:公認心理師・臨床心理士・NY州精神分析家ライセンス・NAAP認定精神分析家
所属:甲南大学・TRISP自己心理学研究所(NY)・栄橋心理相談室・JFPSP心理相談室
著書:『精神分析が⽣まれるところ─間主観性理論が導く出会いの原点』『当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望』『社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか』(以上,岩崎学術出版社),『Kohut's Twinship Across Cultures: The Psychology of Being Human』『The Psychoanalytic Zero』(以上,Routledge)など
自らの大学学部時代、大学院生時代を思い起こしながら読ませて頂いた回です。とある場でキョウジュから「エビデンスはあるの?」(ないなら科学ではないね、が続きます)と言われ、黙らせられ絶句したまま何も言えずに引き下がらずにはいられなかったことがあります。その場に居合わせた恩師が後で研究室に呼んで下さり、一緒にタバコを燻らせて励まして下さったことも思い出しました。私の場合その後、「よし!エビデンスをもっと集めて、いつかはあのキュウジュ(と、その一派)を論破するぞ!」といきり立つことはなく、むしろ、さらに見聞を広めたいと考え、子どもの臨床に携わらせて頂くようになったり、当時は珍しかったスクールカウンセリングの場に飛び込んで行ったり、病院での仕事まで含めると週に5日はどこかの臨床現場にいるという博士後期課程時代へと向かっていきました。(いつ、研究していたのでしょうか?)博士後期のどこかで、エビデンス・ベイストの研究をあっさりと捨てたのはこのオハナシの主人公と同じ、です。いったい専門家って、何なんでしょうね。研修を受けたからそうなのか?訓練を受けたからそうなのか?資格があるからそうなのか?そのような問いを立て続けながら、この業界で過ごしてきたように振り返ったところです。「どのようにして専門家になるのか」と、富樫先生からも問いを立てられました。次回までに、私もまた物思いをしてみたいと感じております。第6回、ありがとうございました。