富樫公一(甲南大学)
シンリンラボ 第17号(2024年8月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.17 (2024, Aug.)
患者やクライエントの苦悩は,どこにあるのだろうか。
今回の問いかけはこれだ。
「簡単だ。患者の心の中だ」
そう思った方は,ちょっと待ってほしい。
それで終わったら,シンリンラボの仕事にならない。
話をややこしくし,御託を並べて,原稿料をもらってきたのだ。そんなに簡単には終われない。
「心の中」といっても,その心がどこにあるのかわからない。
心に実体はない。
情報処理という意味では,それをつかさどるのは脳だ。近年の脳科学は,心理学や精神分析が仮定してきた心理的プロセスが作動する脳の部位を明らかにしている(Ginot, 2015; Schore, 2019)。
では,脳が心かというとそれも違うだろう。
処理しているのは脳だが,脳は脳だ。
そんなことを言ったら,「あの人が好き」という体験も,好きという感情を処理しているという理由で,脳にあることになってしまう。
それでは,昔感じたあの「きゅん」という胸のときめきは説明できない。
やはり,素敵な想い出にしておきたい。
脳内の活動部位で「きゅん」を説明するのは,いかにも悲しい。
情動や感情を体感するという意味では,心は胸のあたりにある気がする。伝統的な日本語の語感で言えば,腹の中にある気もする。「腹を割って話す」というやつだ。
「苦悩は患者の心の中にある」は,答えになっていない。
なにより,体験に合わない。
日常の苦悩を考えてみればわかる。
カネがない。
「嘘つけ。カネあるだろ」と言われることもあるが,本当にカネはない。
気がつくとカネはなくなっている。苦悩は深い。
少しでも無駄がないように,経費はしっかりと計上することにしている。
しかし,経費で購入した132円のノートの領収書を,帰り道にどこかで落としてきた。なぜか手元にない。
物心ついたときから,落とし物と忘れ物に彩られた人生だ。
経費の領収書だけはなくしてはいけないと,毎日心に誓っている。
132円の領収書は落ちていないかと,這いつくばるようにして今来た道を戻る。
どこにもない。どうしよう。焦る。
「そんなものは苦悩のうちに入らない。世の中にはもっと大変なことがある」と主張する人がいるかもしれない。「お前がセコイだけだ」と。
しかし,それは偏見だ。132円の領収書も積み重なるとそれなりの額になる。カネの悩みは立派な苦悩だ。
三省堂大辞林第三版(2006)にはこうある。
くのう:-なう[0][1]【苦悩】
(名):スル
あれこれと苦しみ,悩むこと。「顔に-の色がにじむ」「近所の者も三四人で-する枕元に/土:節」
今まさに「あれこれと苦しみ,悩」んでいる。鏡を見れば,顔には苦渋の色が浮かんでいる。132円のため,暑い中,汗を流して探す。苦悩だ。
頭がぼんやりとしてくる。
「あなたはもう,毎日毎日,忘れ物と落とし物ばかりして。どうなってるの? 登校する前に確認しなさい」
そう言い続けた母親の顔が走馬灯のようによみがえる。そういえば,あの人は6歳のころから,毎日そんなことを言っていた。数十年経ってもこのありさまだ。涙がにじむ。
辞書にも「くのう:-なう」とある。意味は分からないが,たぶん「苦悩なう」だ。苦悩の真っ最中だ。
税務署は税金を毟り1取っていく。経費はちゃんと計上しておかなければならない。
132円を笑う者は,132円に泣く。
「カネを稼いでいるから,ごっそり税金がかかるんだ。それは苦悩ではない」と思った人はわかっていない。この国では,稼いだらその分より多い税金を取られるのだ。
もっと稼ぐと,予定納税2というやつが来る。
来年の税金を先に払えというのだ。
いくら稼ぐかもわからないのに,先に税金を払わされる。それを払わないと,延滞税という名の利息を取られる。
延滞税??
この国では,発生してもいない税金を払わないと,延滞税をとられるのだ。
そもそも延滞していない。それどころか,先に払わされている。
何よりも解せないのは,実際にそこまで稼げなかった場合だ。「税金を取りすぎました」と差額が戻ってくるが,そのときに利息はついていない。
会社員の年末調整も同じだ。
税務署は,取るときは利息をつけるが,返すときは利息をつけない。
これが苦悩でなくて,何を苦悩と呼ぶのか。
特別減税とやらのカネが戻ってきても,毎日フル回転のエアコンの電気代であっという間に消える。
家計と教育費に予算がとられると,自由に使えるカネはほとんど残らない。
その苦悩は,自分の心の中にあるのか。
そうではないはずだ。それはもっと別のところある。
そうだ。税務署だ。奴らが毟3り取っていくところに苦悩が生まれる。
稼ぎの少ない心理業界もそうだ。どれだけ働いても,給料はたいして増えない。銀行マンになった大学時代の友人は,えらく羽振りがよい4。やはり心理の道に進んだのは失敗だったと,歴史を振り返って「あれこれと苦しみ,悩む」のだ。苦悩は業界の状況と友人との関係,そして,キャリア選択の歴史にある。
そんなとき,自分のセラピストが,来月から料金を値上げすると言ったらどうなるか。苦悩は治療者との関係に表れる。
苦悩は心の中にあるのではない。それは,人間関係や社会の文脈の中にあるのだ5。
脚 注
1. 私はこの漢字が好きだ。「字義:むし-る。つかんで引き抜く。解字:会意。少+毛。毛を少なくする。むしる意味を表す」(新漢語林,2011)。見るだけで気の毒な気持ちになる漢字も珍しい。↩
2. 頭にきたから調べた。GHQ統治下で,シャウプ勧告とやらに基づいて作られた制度らしい。昭和25年税制改正から導入され,昭和29年から今日まで行われている(高木,2003)。敗戦国の悲劇だ。↩
3. 「解字:会意。少+毛。毛を少なくする」(新漢語林,2011)。そのままの説明がたまらない。↩
4. もう友人とは呼べない。↩
5. 主に税務署だ。↩
一者心理学的視座
これは,臨床家にとって非常に重要な問いだ。
臨床家が苦悩のありかをどこと見なすかによって,患者やクライエントへのアプローチが変わる。
苦悩の実際のありかはどうでもいい。
心も苦悩も実体はないのだから,どこにあってもよい。
心の中だろうが,税務署だろうが,人間関係だろうが,どれでも同じことだ。
重要なのは,臨床家として,患者やクライエントの苦悩がどこにあるつもりで仕事をしているのか,である。
それによって,問題が還元される場所が変わる。
患者の心の中に苦悩があると見なす治療者は,「そういったことに苦しむのは,あなたの心の中の何が原因なのでしょう」と問う。心の中にある苦悩を特定し,そのメカニズムを解き明かそうとするからだ。
そのとき治療者は,愚痴や文句は,患者やクライエントの心の問題だと考えている。
しつこく税務署の話ばかりするのは,おかしいと思っているのだ。
肛門期的な問題と言うかもしれないし,レジリエンスの低さと言うかもしれない。破局的思考でも,受動的攻撃性でもいい。どう考えるかは別として,要するにどこかおかしいと思っている。
こういった見方を「一者心理学的視座」という(Gill, 1994)。
個人の心は他者や社会から切り離し可能で,それ自体で独立して動くシステムだという考えに基づく視座だ。心理的現象は,そのシステムの中で完結すると見なされる。苦悩は,その人の心の中の原因から生まれた心の中の一つの結果だ。
そのように考える治療者は,治療関係に浮かび上がった現象の原因を患者の心の中に探し出し,治そうと考える。
本人が認識していない問題や傾向を気づかせるには悪くない方法かもしれない。
しかし,社会や環境,トラウマの苦悩を扱う場合,それを個人の病理のせいだけにできるだろうか。
予定納税の理不尽さに憤慨する者に,「あなたの心の中の何が原因なのでしょう」と言っても意味がない。
「心の中? 『税務署の中』の間違いではないですか」と,言い返されるだけだ。「税務署の問題でないというのならば,歴史的トラウマの問題だ。GHQ6が導入した制度に我々は苦しめられているのだ。それなのに,私がおかしいとでもいうのか」と。
「とはいっても,あなたはずっとそんな話をしていますよ。その怒りの強さはどこから来るのでしょう」
苦悩が相手の心の中にあると考えるなら,こう応じることになるだろう。
「怒りの強さですか? センセイが料金を値上げするというから増幅されたんですよ。カネがないと以前から言っているのに,それでも料金を上げるのでしょう? 税務署と一緒じゃないですか」
脚 注
6. 連合国軍最高司令官総司令部のこと。初代司令官はダグラス・マッカーサー。デイビッド・ゴールドバーグが開発した質問紙検査ではない(適用範囲は12歳から成人)。↩
二者心理学的視座
その言葉を,治療者が真剣に受け止めるとどうなるだろうか。
話は随分変わる。
患者の持ち込む苦悩は,社会や関係の文脈の中にあることになる。
そう考える治療者は,このように言うだろう。
「なるほど。私も社会の中で生きているので,料金を上げることはあります。でも,それがあなたの苦悩になってしまったのは,私があなたの経済状態をそこまで深刻に考えていないと感じさせたからかもしれませんね。料金を上げても,あなたがセッションを続けようと思うのは,あなたが私との関係を大切に思っているからこそですね。私はその気持も十分に捉えていなかったのかもしれません。だから,お金のことが苦悩になったのでしょう。それには,私も十分関与していましたね」
カネに困る状況は変わらないが,苦悩の質は変わる。
税務署は信用できなくても,治療者との関係は信頼できると確信するかもしれない。
GHQはもうない。日本は独立したのだと,安心するかもしれない7。
苦悩はもう,患者だけの問題ではない。
それは社会問題であり,人間関係問題である。患者の心が,社会や他者の心と出会ったところに生まれる問題だ。
患者はもう,孤立した病者ではない。
社会の中で,苦悩を他者と共有したり,責任を分け合ったりする人間だ。
こうした視座を,二者心理学的視座と呼ぶ(Modell, 1988; Gill, 1994)。
治療状況に生じる現象はすべて,関係の文脈や,歴史的・社会的・文化的文脈の中にあるとする考えに基づいたものだ。そう考える治療者は,問題のルーツを患者の心の中に探し出しだそうとするのではなく,人間関係や社会との関係の中に探し出そうとする。
そうだ。これは,倫理的転回8だ。
治療者が,患者の苦悩に直接関与する当事者であることを自覚して患者にかかわるからだ(富樫,2021)。
フェミニストで精神分析家のジャシカ・ベンジャミンJessica Benjaminは,患者と治療者がともに可傷性(vulnerability)を引き受けてかかわる領域を,「道徳的サード」と呼ぶ(Benjamin, 2017)。「道徳的」と呼ぶのは,治療者が,自分の不可避的な加害性と脆弱性を背負ってそこに身を委ねるからだ。
治療者は,経済活動の中で出会ったというだけで,患者を苦しめるかもしれない。大きな社会の動きに翻弄もされる。自分は自分でトラウマにさらされる。治療者は,それを自覚してかかわる(富樫,2023)。
そうなると私たちの仕事は,患者の病理を発見して治すことではなくなる。
社会に生きる人同士,互いに苦悩を与え合いながら,それを共有して生きる方法を探す仕事になる。
脚 注
7. 影のGHQがあって,まだ牛耳られている気がすることもある。↩
8. 「倫理的転回」を印字したTシャツを作ろうかなと思い始めている。↩
「私」は苦悩が生み出す
こうした視座は,差別や社会的格差,トラウマなど,患者の苦悩が社会問題と関係したものになればなるほど重要になる。
臨床家も,社会に生きる以上,何らかの意味でそれに関与しているからだ。
女性というだけで十分な収入のある仕事に就くことが難しく,同期の男性よりも重要な仕事を任されないと苦悩する患者を前にすれば,男性で社会的に認められやすい仕事に就く治療者は,その当事者にならざるを得ない。
彼女を苦しめている社会をそのまま放置し,男性の優位性を享受する加害者でいることを否認できなくなるからだ。
これを突き詰めるとどうなるか。
私たちが扱う苦悩は,患者が持ち込んだものではなく,私たちが患者に突き付けたものになる。
男性で社会的に認められやすい仕事に就く自分が呼び止めるから,患者は自分を女性として苦悩を語りだすのだ。
クィア理論のジュディス・バトラーは,「医療的呼びかけ」についてこう語る(Butler, 1993)。
乳児は『それit』から,『女の子she』または『男の子he』に変わり,そのように名づける中で,女の子は『女の子化』される。女の子は,ジェンダーの呼び止めinterpellationを通して,言語と共通関係性kinshipの領域に参加させられることになる。
(Butler, 1993, p.7)
毎度のことだが,頭の良い人の言葉はかっこいい。
「ジェンダーの呼び止めを通して,言語と共通関係性の領域に参加させられる」なんてことは,そうそう言えない。
「税務署からの呼び出しを食らって,中間申告と予定納税の世界に引きずりこまれる」ならよく知っている。
他者や社会は,「私」が胎内にいるときから,脚本を用意して待ち構えている9。
そして,「女の子だよね」あるいは「男の子だよね」と呼び止める。「レズビアンだよね」とは呼び止めない10。「この子は異性愛者で,大人になったら異性と結婚する」という脚本があるからだ。
その規範を前にして,「私」は「私」を語り始める。
「私はあなたが準備したような異性愛者ではない」
「私は異性愛者だが,あなたが準備したままの異性愛者ではない」
規範に照らして,「私」が浮かび上がるのだ。
規範との間に生まれる苦悩のために,「私」を語らざるを得なくなると言ってもよい。
社会や他者が用意した規範に,自分が完全に合うことはない。それでも,他者や社会はそのようにしか自分を呼び止めない。自分はそこで,自分はそうではないと自分を語り続けるしかない。
そうなるともう,患者の苦悩は患者の心の中にはない。
苦悩は,患者が自分を感じる前からあるものだ。
患者の心の輪郭を作るのが,社会や他者が持ち込む苦悩なのだ。苦悩が患者に声を出させ,「私」を描かせる。
言い換えれば,患者の苦悩は治療者が持ち込む。
治療者が「あなたは普通が何かを知っていますよね」と呼び止めるから,患者は「自分はそんなに普通ではない」と,自分をおかしな人間として提示するのである。
脚 注
9. 税務署は,「私」がネット検索で遊んでいるときから,あらゆる金融機関のファイルを用意して待ち構えている。↩
10. そして「ちゃんと申告していないよね」と呼び止める。「税金返してあげますよ」とは呼び止めない。↩
治療者の顔に苦悩が浮かぶ
患者の苦悩が浮かびあがる場所に,もう一つ重要なところがある。
治療者の顔だ。
なるほど。確かに顔はいつも苦悶しているかもしれない。
確定申告の時期はいつも眉間にしわが寄っている。領収書が見つからないまま迎えた夜は,苦悶の表情のまま寝言で呪詛の言葉を連ねる。
「先生は,全部顔に出ますね」と言われたことはあるが,「先生は何を考えているのかわからない」と言われたことはない。
「私の話,つまらないんでしょう。顔に出てますよ」と言われたら,ほとんどの場合,患者が正しい。
顔の形には自信はないが,顔に全部出てしまうことには自信がある。
辞書にも「あれこれと苦しみ,悩むこと。『顔に-の色がにじむ』」と書いてある。苦悩は顔に出るのだ。
しかしそれは,自分の苦悩の話だ。
患者の苦悩が顔に浮かぶというのはどういうことか。
ヘイナル-レイモンドとジョンソン,マグヌソン(Haynal-Reymond, Jonsson & Magnusson, 2005)は,自殺企図患者の自殺リスクは,精神科医の顔に表れると主張した。
彼らは,自殺未遂後にジュネーブ大学病院に入院した患者59名を対象に,精神科医との面接をビデオ撮影した。面接後,精神科医は患者の自殺リスクを4段階で評価するよう求められた。24カ月後に追跡調査を行い,再自殺企図の有無をみてみると,精神科医の自殺予測は22.7%の患者しか正しく分類していなかった。しかし,精神科医の眼球周囲の表情変化は81.8~90.9%の患者を正しく見分けていた。
乳児研究者で分析家のBeebe(2004)もまた,患者の心理状態が治療者の顔に表れる様子を明らかにした。
彼女は,ひきこもりで抑うつ状態の患者との心理療法の最中に,自分の顔を撮影した。すると,自分が意識してコントロールできる範囲を超え,自分の顔が,患者の状態の変化に応じて瞬間瞬間に変化していることを発見した。
患者の苦悩は,治療者自身も気がつかないところで治療者の顔に表れるのである。
重要なのは,どちらの場合も,患者自身が自分の苦悩を明確に体験していないことだ。
患者自身も体験していない苦悩が,自覚しない治療者の顔に出るのである。
トラウマとはそういうものだ。
トラウマのサバイバーが,事実を無表情で淡々と語ることがある。彼らはまだ,自分の「体験」が何かわかっていない。
彼らは,出来事の詳細を知っていることもあるし,知らないこともある。
いずれの場合でも,それがどんな「体験」なのかを知らない。
言い換えれば,体験が構成されていないのである(Stern, 2003)。
それはただの刺激や記憶であって,まだ体験ではない。
ひどい虐待被害を受けた。いじめを受けた。戦争や災害,犯罪の被害を受けた。
自分にそれが起きたことは知っていても,それがどれだけ苦しいもので,どれだけ自分の人生を破壊して,どれだけ今の自分に組み込まれていて,どれだけ人間関係に影響し,どんな感情を伴っているのかはわからない。
淡々と語る患者は,それを聞く治療者の顔に苦悶を発見する。
そこに始めて,自分の体験が構成される。
「そんな顔をするような体験なのか」と。
そこで初めて,自分の体験が,何ものであったのかを患者は知る。
それほどに,苦しく,悲しく,みっともなく,寂しく,痛々しく,傷つくような,忌むべき,苛立ちを覚える哀れな体験であったのか,と。
患者のトラウマは治療者の顔に宿るのである。
そこでようやく,患者は「私は苦しんでいたのだ」あるいは「私は苦しんでもよいのかもしない」,「私は苦しんでいると語ることを許されるのかもしれない」と感じる。
治療者は,その意味で自分の顔に責任を持たないといけない(富樫,2013)。患者がそこに,自分の体験を見いだすからだ。
トラウマ体験は,その人だけでは構成されない。トラウマに関心を向け,その語りに耳を傾け,その語りに正直な顔を見せる人を必要とする。スターン(Stern, 2003)はそれを,立会人(witness)と呼んだ。そこに初めて,トラウマが構成されるスペースが生まれる。
トラウマは事後的に生じる。
しかしそれは,フロイト(Freud, 1895)が言うように,あとから年齢と知識が追いつくからではない。
一緒にその体験を構成してくれる人が現れるからだ。立会人のいない苦悩は,体験されないまま漂う。
そのとき治療者が,患者の心の中にトラウマの原因があると見なしたらどうなるだろうか。それは,まだ体験されていないのだ。外からそのような意識で立ち会う人がいたら,患者は簡単に「自分に問題がある」という体験を構成するだろう。
性虐待やジェンダーに基づく暴力のサバイバーは,「本人にも問題があったのだ」という態度で接近されると,簡単に「自分が罪深い」という体験を構成してしまう。再トラウマ体験だ。
そうして構成された体験と,実際の体験の感触との違いに,彼らは引き裂かれる。
苦悩を関係の中に引き受ける
今回,キョウジュは出てこないのか。
さみしくなった人もいるかもしれない。
残念ながら,今回彼は現れなかった。
たぶん,キョウジュは苦悩とは程遠いところにいるのだ。彼はいつも,エネルギッシュにシンリガクの道を歩いている。今は,新刊をいろいろな人に配り歩いている。
患者の苦悩が治療者の顔に表れるといった,わかるような,わからないような話に絡む暇はないのだ。
しかしこれは,精神分析に関心がある人には大きな問題だ。
カウチをどうするか,という大問題になるからだ。
「なんだ,そんなことか」と思った人は,おそらく健康な普通の臨床家だ。
多くの臨床家には,どうでもよい話だからだ。
しかし,精神分析をやる人にとって,カウチはとても大切だ。
患者はカウチに横になり,治療者は患者の頭の後ろで話を聞くという例の形を理想とする人がいるからだ。
治療者の顔に表れた患者のトラウマを扱う必要があるなら,カウチは使えないじゃないかという話になる。患者から治療者の顔が見えないからだ。
そうなのだ。
だから精神分析でも,関係論とか自己心理学とか,患者の体験に全身をさらして仕事をしようと考える臨床家たちは,カウチの使用にこだわらない。
私は,患者と自分の椅子との間にテーブルを置くことすら好まない。
あなたの体験は,私の顔だけでなく,全身のどこにでも表れるはずだから,好きなだけ見て欲しい。
苦悩だけではない。
体験として構成されていないあなたの喜びやうれしさ,興奮,苛立ち,寂しさ,悲しさ,そのすべてが私の全身に再演される形で関係の中に表れる。
何が表現されているのかは,私にもわからない。でも,見てもよいと思うときはそのすべてを見たらいい。
苦悩も喜びも含めて,あなたの体験がそこにある。
文 献
- Beebe, B.(2004)Faces in relation: A case study. Psychoanalytic Dialogues, 14(1); 1-51.
- Benjamin, J.(2017)Beyond doer and done-to: Recognition theory, intersubjectivity and the third. Routledge.
- Freud, S.(1895)Project for a scientific psychology. The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud, 1; 281-391.
- Gill, M. M.(1994)Psychoanalysis in transition: A personal view. Routledge.
- Ginot, E.(2015)The neuropsychology of the unconscious: Integrating brain and mind in psychotherapy. WW Norton & Company.
- Haynal-Reymond, V., Jonsson, G. K. & Magnusson, M. S.(2005)Nonverbal communication in doctor-suicidal patient interview. In: L. Anolli, S. Duncan Jr, M. S. Magnusson & G. Riva (Eds.): The hidden structure of interaction: From neurons to culture patterns. IOS Press, pp.142-148.
- 鎌田正・米山寅太郎(2011)新漢語林 第二版.大修館書店.
- 松村明(2006)大辞林 第三版.三省堂.
- Modell, A. H.(1988)The centrality of the psychoanalytic setting and the changing aims of treatment: A perspective from a theory of object relations. The Psychoanalytic Quarterly, 57(4); 577-596.
- Schore, A. N.(2019)The development of the unconscious mind. W. W. Norton & Company.
- 高木克己(2003)申告納税制度の史的発展.駒大経営研究,35(1・2); 41-87.
- 富樫公一(2013)Developmental trauma and the analyst’s face. In:王麗斐(編):精神分析講台自體心理學等(之十).學富文化,pp.141-151.
- 富樫公一(2021)当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望.岩崎学術出版社.
- 富樫公一(2023)社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか.岩崎学術出版社.
富樫公一(とがし・こういち)
資格:公認心理師・臨床心理士・NY州精神分析家ライセンス・NAAP認定精神分析家
所属:甲南大学・TRISP自己心理学研究所(NY)・栄橋心理相談室・JFPSP心理相談室
著書:『精神分析が⽣まれるところ─間主観性理論が導く出会いの原点』『当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望』『社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか』(以上,岩崎学術出版社),『Kohut's Twinship Across Cultures: The Psychology of Being Human』『The Psychoanalytic Zero』(以上,Routledge)など
まず。「倫理的転回」のTシャツ作ったら、送って下さいね。ライブで着ます!後半の目撃者として全身を曝すハナシ(言葉が合っているかどうかは?ですが)は、大変臨床的な示唆を伴うことのように思いました。先週のサタデーナイトのライブでは、私こと新曲の歌詞が覚えられずにカンペを持って歌ってしまいました。「雨の御殿」というクールファイブ(若い人は検索してください。猛暑に流行りそうなアイスではありません。)調のもので、雨、風、太陽という大地の下でも前を向きながら営農していくのだよという気概を歌ったものです。リーダーからは「カンペはダメよ」と散々言われているにも関わらず、印字した文字を追いつつのステージ。赤いチャンチャンコヲを着て、という飛び道具もあったせいか結構盛り上がりましたが、振り返ってみると自分的には今一つ。加害者として言葉を投げかける私が、お客さんをしっかりと目撃出来てはいなかったのです。歌にものめりこめず「AhAh御殿は振り返る~♪」と歌い上げるハズのところが、振り返り切れていないわが身を曝すこととなりました。お客様自身の「雨、風、太陽」といったものもとらえそこなっていたのかもしれません。ライブにおける倫理的転回が不確かなものとなってしまいました。なので、ゼヒTシャツ送って下さいね。と。今回もオモシロく読ませて頂きました。ありがとうございました。