長沼葉月(東京都立大学)
シンリンラボ 第24号(2025年3月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.24 (2025, Mar.)
〈前編より続く〉
IV.「当事者」の「知」,「専門職」の「知」
私が精神障害等のある親やきょうだいとの向き合い方を学ぶために,最初に一生懸命学んだのは「家族心理教育」です。自分の家族の診断はよくわからなかったので関係しそうなものは大体読みました。一般向けのものだけではなく,専門的な治療ガイドラインも読みました。でも読むにつけ次の疑問がわいていきます。家族のあの態度や振る舞いは症状なのだろうか? それとも,本人の性格なのだろうか? いつまで,どうやって,耐えればいいのだろうか? といった悩みです。私は自分が読んで役立ったと思う本を,本人や他の家族にも紹介していきましたが,紹介すればするほど,私に追加の質問が寄せられました。結局,必要なのは単なる知識ではなく,個々の日常生活状況に理解をすり合わせるための補足的な説明は不可欠でした。
だからこそ,家族同士のグループワークを活用する心理教育プログラムには大いに期待していました。学部生の頃から大学院生の間まで,その現場に実習生やスタッフとして関わり,学ぶことができたのは大変貴重な財産となりました。心理教育グループの中では,疾患に関する情報提供だけでも,苦悩や悩みの吐露だけでもなく,日常の良かったことを振り返ったり,対処に悩む場面を相談する時間があります。自分が相談者ではない時には,相談者のことを一生懸命に考えて,少しでも自身の体験や学んだことから役立つアイディアを伝えようと発言します。こうしたストレングス視点の対話や,他の人の助けになろうとすること,共に支え合うことには,良い効果があります注3) 。とはいえ,病院の心理教育グループに参加していて,いくつか気になったことがありました。
注3)私が論文投稿しないままになってしまった博士論文は「摂食障害の家族心理教育」をテーマにしたものです。ご関心のある方は国会図書館で閲覧できます。
一つは,活動の継続性という課題です。心理教育グループは「プログラム」として提供されていたので終結がありました。そのため,プログラム終盤では自主グループの組織化を促していました。しかしそれはなかなかうまくいきませんでした。当時の私は「エンパワメントできていない」という雑な理解をしていましたが,今振り返るとおかしなことです。参加者は精神疾患に対応するために生きているわけではなく,仕事,家事,その他通常の日常生活を維持するための時間が必要なのに,それに加えて「自助グループをボランタリーに組織し運営する」というのはなかなか大変です。折しも平成不況や賃金抑制の影響で暮らし向きにも余裕を感じづらかった時代でした。そういう背景をしっかり理解せずに「エンパワメント」すれば良いのではと考えていたのは安直に過ぎました。他にも気になった点はありますが,特に「力の不均衡」という観点から,2点挙げます。
一つは,「ベテラン家族」に対して「新米家族」が頼ってしまいがち,という点です。「ベテラン家族」が強く支配的なわけではないのですが,治療期間が長ければ長いほど,いろいろな症状に向き合った体験や制度を利用した経験があるので,その発言にある種の説得力が生じ,「新米家族」は発言を抑制してしまうのです。それは同時に「ベテラン家族」を消費する時間になりかねません。経験に差はありながらも今の苦悩は同じ,という立場をしっかり共有していないと「私みたいな経験の浅い人間には何も発言できることはありません」と自らを卑下した発言をすると,かえって「ベテラン家族」を孤立と苦悩に追いやってしまうかもしれないのです。
実際,ある病歴の長い方の親御さんが「本当にうちの子は統合失調症なんだろうか,あれは間違いなんじゃないだろうかと思うことがある」と仰ったとき,グループ内が静まりかえったことを覚えています。その場にいた私の心の中には「今までみんなにすごく温かいアドバイスしてくれたあなたが,そんな病気を否認するようなことを言うなんて。病気を受け入れるから適応できるんじゃないんですか」という怒りと混乱が混ざった「裏切られた」という強い感情が沸き上がったことも,忘れられません。あの時,同じように声を出せなかった他のご家族はどんな心情だったのでしょうね。静まり返ったその場を見て,親御さんは「いやいや,いまここで,こんなことを言う場ではなかったですね。何十年もたつと色々思うんですよ」というような発言をしてその場をなだめてくださいましたが。今,あの場を振り返ると,誰もその孤独感に寄り添うことができていなかった,と忸怩たる思いにとらわれます。
もう一つは,「専門職」の「知」を求める気持ちはやはり強い,ということです。病院で行われる心理教育グループだったからかもしれませんが,当事者同士の知恵から学び合いましょう,というだけでは足りない思いを持っていらっしゃる方々は少なくありませんでした。グループ内に医師や心理師等として参加しているスタッフに対して,「専門の立場から意見を言ってください」等と求められる時,それにどう応えるのが良いのでしょう。私はおろおろするしかありませんでした。プログラムの趣旨からいえば,グループワークは「参加者同士のお互いの生活の知恵を共有する」時間でした。でもそれをうろたえるスタッフがしどろもどろに説明したところで,参加者の不満感がなくなるわけではありませんでした。このような時の対応で記憶に残っているのは以下の二つの対応です。
一つ目では,グループ内の「医師」がリーダーシップを発揮して「医師は症状や薬のことは学んでいるけれども,暮らしのことは全然経験がない,だから患者さんご自身やご家族の実際の体験から教わることの方が多い。そういうことを教わるために,グループではお互いの知恵を出し合うことをお願いしています」と丁寧に説明したのでした。「専門職の知」と「当事者の知」を明確に分け,「当事者の知」のある種の優位性を謙虚に伝えた,と言えるでしょう。ちなみにこの種の発言を「ベテラン男性医師」以外の専門職が発言すると,納得してもらえないこともありました。心理職,若い女性医師などです。このような専門職の謙虚な発言が「受け入れられる」のは,より上位の立場の人が「降りる」からなのかもしれません。相対的に立場の弱い,例えば若い,経験が浅い,女性,といった属性の発言の場合は,不満を隠そうともしない参加者はいました。
さて,もう一つの対応は「病気の原因はいったい何だろうと考え込んでしまう」というテーマで「対処の仕方ではなく,病気の原因についての考え方を知りたい」という問いかけがなされたときのことです。その時は,またもや医師がリーダーシップを発揮し「今日はこの場にいるスタッフはどういう考え方を学んできたのか,ということについてそれぞれ発言してみましょうか」と提案し,スタッフたちに学んできたことを順に話すように提案しました。加えて参加者にもこれまで見聞きしたことを共有するように促しました。その日は精神医学だけではなく社会心理学や文化人類学的な視点からの話もあり,とても興味深い時間となりました。この日は,集団の中で男性医師だけではなく女性医師や心理職,学生スタッフなどが自由に学んできた「専門的な知」を話し,それをお互いに尊重し合う姿勢を示すと,参加している家族も職位・立場・経験にとらわれずにただ発言の中身を考えるようになり,自身にとっての有用な「知」をだけを拾い上げることができたのでしょう。今考えてみると,ある種のリフレクティング・プロセスのようなものが進行していたのかもしれません。
改めて自分が専門的な知識を学んだ動機も含めて,これらの「知」の位置づけのことを考えてみます。当事者経験による「知」も専門職の「知」もどちらも重要なものですが,特に困難な状況にいる時には「専門家の知」に頼りたくなる気持ちが,確かにありました。専門家の知は体系化されており,特に教科書等の書籍の記述にはある種の歯切れの良さがあります。経験による知は体系化されておらず,エピソード的に語られますから,その語りと自身の生活に重なり合う部分が多くなければ,十分に生かすことはできません。症状やその影響に振り回され,無力感と混乱でいっぱいな時には,そのような「知」を受け止める余裕はないように思います。むしろ日常用語とは異なる専門用語を使った論理で,ある意味断定的・説得的な説明をされると,日常用語とのギャップゆえに一瞬困惑し,そして状況を専門用語を使って改めて俯瞰的に捉えられるようになるため,ある種の見通しが立つことがあります。そのため「教わる」「教えてもらう」「導いてもらう」というような弱者ポジションを積極的に取ろうとしてしまうのだと思います。
「専門職主導」という言葉はしばしば批判されますが,無力感でいっぱいの当事者や家族のこの「助けてほしい」という姿勢が,専門職にとっては「専門的な知識や情報を使って助けなければ」という態度を生む力になっているのかもしれません。同じ姿勢が,当事者相互の間でも経験や性別やその他の要因によって(多くは日本の社会文化の中でより「上位」とされる属性に関連付けられながら)力の非対称性を生んでいるようにも思います。この「弱さ」から意図せず生じている力関係のことを,どう取り扱ったら良いのでしょうか。
V.当事者って結局何なの
こうやっていろいろ振り返ってみると,「当事者」という言葉も,その存在がどのような「力」を付与されているか,あるいは行使しているか,ということについても,結局その「当事者」がどのような社会背景の中で,どのような関係性の中で立ち現れてくるかにかなり依存していそうです。
私は,研修等のテーマによってはしばしば自身の当事者性をオープンにしながら具体例を語ります。「ヤングケアラー」とか「子育て」のテーマの場合,他者の事例を使うよりも,自身の実体験を伝えた方が印象深く伝わるように感じるからです。その場合,私は何をどこまで開示するか,どういう「ストーリー」として提示するかを,ある程度自身で制御しています。ここまでなら話しても構わない,そのことで聞き手が私のことをどう感じてもらっても構わない,と思える範囲にできるからです。
ところが,です。あるシンポジウムで,そのように当事者性を開示した時に,別のシンポジスト(年長の男性医師)から私が想定していた「ストーリー」の文脈から離れて「子どもの立場だったんですね」等とコメントをもらった瞬間,私は非常に不安で居心地の悪い気持ちになりました。シンポジウムの趣旨から少しずれたこのコメントに私はどう応えたらいいのか。「子ども」の立場として一体何を答えたら良いのか,どうふるまったら適切なのか。何か言ってしのいだと思いますが,よほど混乱したのか全く記憶に残っていません。別の機会でも,研修終了後に(やはり年長男性の尊敬している方から)「当事者だったんですね」と言われた時一瞬動揺してしまいました。その時は安心できる場だったのですぐに落ち着きましたが。つまり,自ら当事者性がありますと開示しながら,他者から(それも自分より「上」と思っている人から)「当事者」とラベル付けられることに,ある種の抵抗感があるようです。「弱さ」と関連付けられるような気持になるようです。または「家族は当事者ではない。一番困っているのは本人でしょ」と「当事者」であることを許されなかった苦しい思いがよみがえり,いまさら何を,という混乱が生じるようです。正直自分の心が掴めません。
またクライエントに事例発表の許可を得ると,しばしば「私のことがどんなふうに語られるんですか。私もそこに参加してみたいです」という方がいます。「自分のことをどう語られるかが気になる,可能ならその場に立ち会いたい」という感覚はとても健全だと思うのです。とはいえ,一方でセラピストには守秘義務があり,クライエントを「守る」必要があります。ですから通常の心理臨床系の学会ではクライエントが参加することはできません(精神保健福祉系の学会やイベントでは当事者・家族が参加できます。この辺りは心理臨床と精神保健福祉の大きな違いかもしれません)。私のクライエントに対しては,当日の発表資料をお見せすることで許していただいておりますが,「守秘義務」という理由で「参加できない」と説明すると,それはそれでクライエントを「弱き者」として私が位置付けているような,おさまりの悪さも感じます。
オープンダイアローグでは「水平性」という概念が重視され,他者性を尊重しながらの対等な関係性の中での話し合いが重視されますが,本当にそんなことは可能なのでしょうか。私の場合,自身の多様なアイデンティティのどれかが水平性を保とうとしても,別の部分が上位に立ったり卑下したりして,なかなか良いバランスを維持することは難しいです。支援者が「降りていく」ことを意識することは重要でしょう。ただ,このジェンダー不均衡が強く,社会階層や地域の格差が大きい日本社会の中で様々な文化背景を持って育った人同士が,そもそも自身のマジョリティ特権にすら気づいていないかもしれないのに,そう簡単に「意識的に降りる」ことはできるのでしょうか。
文 献
- 山田成志(2024)オープンダイアローグにおける対話性を実現する因子に関する文献的考察.産業精神保健,32 (3); 292-297. https://doi.org/10.57339/jjomh.32.3_292
長沼葉月(ながぬま・はづき)
東京都立大学人文社会学部人間社会学科
資格:精神保健福祉士,公認心理師
主な著書:「ソーシャルワーカーのミライ」(共著,生活書院,2024)ほか
趣味など:動物園さんぽ,猫にかまってもらうこと