こころと身体と社会をつなぐサイコドラマ:PTEs・ACEsとロールセオリーそしてポリヴェーガル理論(5)サイコドラマの様々な可能性と課題|前田 潤

前田 潤(室蘭工業大学)
シンリンラボ 第38号(2026年5月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.38 (2026, May.)

これまで4回にわたってサイコドラマについてポリヴェーガル理論との関連から連載を行なってきたが,サイコドラマについての説明はあえてしてこなかった。それはサイコドラマはまず体験があって初めて理解が可能になるからである。   

今回は最終回であり,ここに来てやっとサイコドラマに焦点を当て,サイコドラマとは何か,基本的用語や方法,ロールセオリー,サイコドラマの目標や世界観を述べるところまできた。改めてポリヴェーガル理論のサイコドラマにとっての意義,あるいはその逆(ポリヴェーガル理論にとってのサイコドラマの意義)について述べ,潜在的トラウマ体験(PTEs)や逆境的小児期体験(ACEs)のサイコドラマでの取り組み方にも触れることになる。

サイコドラマとは何か?

パースの事例も,トモの事例も,主役が述べることを,できるだけ具体的に見える化することで展開していた。

サイコドラマを創始したヤコブ・レヴィ・モレノ(1889-1974)は子どもの頃ごっこ遊びに興じ,長じてからも演劇好きで,演劇の監督も務めていた。そのためサイコドラマは,ある意味ごっこ遊びや演劇の副産物とさえ言えるのではないかと思うが,ともかく主役のテーマに関わる場面や内面を,具体化するのがサイコドラマである。そのため,確かにサイコドラマで扱っている主役のテーマは主役にとって過去の出来事かもしれないが,今ここ(here and now)でドラマとして具体化されることで現れ出てきた事物を体験することになるのである。

パースの場合,「嬉しいことがあっても遠く感じる」と述べる今こころの中に起きている感覚を,どのくらい遠く感じるのか,具体的に場所を移動して示してもらっていた。同じようにトモが「ドス黒いものがうごめいている」という感覚を,参加者に協力してもらって自分の前で蠢く黒いものとして具体化した。

このように,思ったこと,感じたことを具体化し,体験可能なものにする,それがサイコドラマである。

私は,サイコドラマを始める前に,サイコドラマの紹介として「人生はドラマだ」とまず述べる。そして「誰もが生まれながらに人生のドラマの主役として生きてきた」と指摘して,さらに「そのドラマにはシナリオがなく,全てアドリブで生きてきた」こと,そして「人生のドラマには現実の制約があり,思うようにいかないことが多い」と続け,しかし,「一方で私たちは,思い,願い,夢を見るし,思いや願いや夢がなければそれが実現することはない」と指摘する。そして「サイコドラマでその思いや願いや夢を実現したり,別の役を体験することは貴重な機会となる」と続けてサイコドラマに参加したり,主役になることの意義を強調し励ますようにしている。

今回示したパースやトモの事例は内面の感覚の見える化であった。しかし,もちろん色々な人が登場する場面づくりも,どんなこともサイコドラマではドラマとして体験することができるのである。

サイコドラマの構成要素と流れ

パースやトモはサイコドラマでの主役で,私は監督であった。そして彼らのドラマでさまざまな役をとってくれた参加者やスタッフを補助自我と呼び,主役のドラマを作る上で必要な要素である。ドラマを見ている参加者は観客で,ドラマを展開する場が舞台(ステージ)となる。ということで,順序は若干異なるが,舞台,監督,主役,補助自我,観客がサイコドラマの基本的な構成要素である。

補助自我は,主役が参加者から選ぶが,選ばれたからといって必ずその役を取らなければならないというわけではない。パスできるのである。ただ一方で,ドラマはみんなで作りあげるものなので,できるだけお互い協力することも求められている。

いずれにしても安心して参加できる雰囲気づくりが最初に踏むべき段階である。いきなり主役はできないし,参加者が補助自我として相手役になるにも,気持ちが乗らないと役はこなせないだろう。

パースは初めてのサイコドラマ参加であった。初めての参加であったが,最初からパースは,何か自分のことをやってみたいと述べていたし,パースのドラマの前にリンのドラマがあったので,パースはそのドラマを観客として見ることができていた。そのためサイコドラマがどんなふうに進められていくのか手順もわかった。そのような段階を踏むことでパースは主役をやる準備条件が整っていたのである。サイコドラマ用語では,パースは十分ウォーミングアップした,と表現する。

このようにサイコドラマでは主役がウォーミングアップしてからドラマに向かうのである。というか十分にウォーミングアップした人が主役になる,と言ってもよい。

他の参加者はパースのドラマで役に選ばれて役を演じたり,ドラマが展開していくことで徐々にウォーミングアップしていく。参加者は補助自我にならなくても観客として主役のドラマを見ることで徐々に主役のドラマとの関連でウォーミングアップしていく。グループがウォームしていくという表現をしたりする。それはポリヴェーガル理論から見ると共同調整(Co-regulation)の条件を促進する,という言い方ができる。

そしてドラマはシェアリングで終える。

パースのドラマでリンは笑顔の神様のような役を演じることになった。その経験から,シェアリングとしてリンは「自分は真面目に考えすぎていたかも」「笑顔って大事かもしれない」と述べた。また寝転んでいた参加者は「自分もゆっくりしていて良いのかなと思えた」と述べている。トモのドラマでも「伸びをしたとき本当に気持ち良かったです」と役を通じての体験や「蛹から蝶が孵化する場面を思い出した」ことが共有された。このようにドラマで補助自我として役割を演じたり,ドラマを見て思い出した自分の経験を共有することがシェアリングである。シェアリングは,分析的解釈やアドバイス,批評ではなく,補助自我として,観客として,監督としての主役のドラマへの感謝と体験共有をする場であり,重要な段階とされている。

ポリヴェーガル理論から見るとさらなる共同調整の促進の場だと言えるだろう。

サイコドラマはこうして,ウォーミングアップ,ドラマ,シェアリングという流れで進めていくのである。

ドラマの組み立てとサイコドラマ技法

ドラマは全て監督が主役にインタビューを行うことから始まる。インタビューすることで,主役にとってどんな場面づくりをしたいのかを明らかにしながら,必要な人や事物を確認していく。そして参加者からその役をとってくれる人を主役が選びながら徐々に具体化していくのである。何をしたいのか,どんな場面をドラマ化したいのかは,主役にしかわからない。一方主役であってもどんなドラマの展開になって,どのような終わり方になるかは分かっているわけではない。

パースのドラマもトモのドラマも監督のインタビューから始めていた。この場面づくりによって,少しずつ主役のドラマがクリアになっていく。それは主役にとっても監督にとってもグループにとっても共同で作り上げる体験世界である。そして主役であっても作り上げられていく場面でどのような体験が待ち受けているかわからない未踏の体験世界なのである。

サイコドラマで用いられる技法にはダブル,ロールリバース,ミラーの3つがある。

これらの技法は,主役のドラマをより立体的にし,主役体験を深め,グループ全体に主役の体験世界を広げていく。

今回示した事例でダブル注1)は使われていなかったが,ロールリバースは多用していた。例えば主役が必要とする役柄のセリフやポーズを補助自我に教えるために,主役がその役柄になってセリフやポーズ,行動をして見せていた。また,主役が補助自我と対話をするときに,主役は補助自我役になったりしていた。そうした主役にとって必要な役に主役がなってみることがロールリバース(役割交換)である。

サイコドラマでは何気なくロールリバースを行っているが,現実には起こり得ない主客の入れ替え体験であり,まさに相手の身になってみているわけで,ときに強烈な体験を引き起こすことがある。

そしてパースが,楽しいと感じ,でも危険なところに行きたくなるが,それを止める自分もいる,という葛藤が起きたときに,その自分を離れて見た。場面をよく見るように促されることで,寝転んだ人を発見している。これがサイコドラマのミラーという技法である。ミラーは客観的に自分や状況を眺めることを促し,自分が置かれた状況に新たな視点や劇的な活路を見出す可能性を開くようである。

注1)ダブルとは「もう一人の自分」である。主役にもう一人の自分であるダブルという補助自我をつけて,ダブルと語るなどして内言語を具体化する方法である。

ロールセオリー

パースのドラマもトモのドラマも,本人から出てきた話を聞くことで,いろいろな役柄が出てきた。それらの様々な役割は,サイコドラマでは全て主役のロールだ,と捉える。

具体的には,パースは「ここにいても遠くに感じる」と言ったとき,身体はここにあるが,気持ちは遠くにある,と体験的事実を述べている。それを具体的に表そうとすると,ここに「身体」を置いて「感覚」は遠くに置いて身体と感覚を分けることがパースの体験的事実として相応しくなる。つまりパースは一人だが,「身体ロール」と「感覚ロール」は分かれているのである。なぜか,とは問わず,まずは実感を具体化するのである。

さらに「楽しそう」「そこに居てはいけない」「行っちゃダメ」という葛藤がパースの中で繰り広げられたが,その葛藤を起こしている1つ1つがパースのロールだと捉えるのである。

これら身体と感覚が分かれていたり,ロール間で葛藤が生まれたりするのには,個人的歴史があるはずである。その歴史の探索をすることもできる。今回は時間的制約もあってその方向には向かわなかったが,サイコドラマには様々な進め方がある。

このロールという考え方からは,どのロールが正しい,とか,どのロールは良くてどのロールは悪いという価値的優劣は生まれない。なぜならともかくそのようなロールが主役にあるのであり,それらロールにはそれが生まれてきた歴史がある。そしてそれらのロールによって主役はこれまで生き延びてきたのである。そういう意味で,どのロールも主役の生の証である。そして,それぞれのロールそのものがこころと身体と社会の表れだと言える。

ロールという捉え方は,モレノの偉大な業績の1つである。サイコドラマにおけるロールについてモレノは「個々の瞬間に,個々の相手に対して個人がとる行動,言動,思考などの総体」であると定義した。その後,人間のあらゆる側面をロールとして捉える視点や,発達的・適応的・断片的なロールといった整理が提案されてきた。本稿ではそれらを詳細に論じることはせずに,これまでここで扱った事例から立ち現れてきたロールのあり方に基づいて考えてきた。

サイコドラマの目標

先ほど,サイコドラマには3つの技法があって,2つの事例ではロールリバースを多用していた,と述べた。それは両事例ともに,ロールリバースする対象が自分の中で湧き起こる感覚や考えなどのロールだったので,自分のロール間でロールリバースを行ったことになり,ロールリバースのしやすさがあったと言えるかもしれない。

今回は焦点を当てなかったが,連載1回目に出てきたリンのドラマは,職場の上司との葛藤がテーマであった。つまり他者が対象となるテーマである。他者が対象となる場合,主役がロールリバースを難しく感じる場合がある。例えばだが,職場の上司とロールリバースして監督が「上司のあなたに,リンがこう言ってますがどうですか?」と職場の上司役になった主役であるリンに尋ねると「私,上司じゃないからわかりません」とリンが答える,ということがあり得る。つまりロールリバース出来ないのである。当たり前と言えば当たり前,リンはリンであって上司ではない。つまりこの場合サイコドラマ的にいうと主役であるリンは上司に十分ウォームアップできていない,ということになる。このようにロールリバース出来ずにいる状態において,他者にウォームアップし,ロールリバースができるようになること,それがサイコドラマの1つの目標になる。

より究極的と言えるサイコドラマの目標は,ドラマを通じて新しいロールを創造することである。

パースの場合は,どうにもならない葛藤場面から離れ,寝転んで憩うという行動,新しい行動ロールが生まれ,それが強化された。トモの場合は,ドス黒いものがどんどん大きくなって,新旧交代のように,まさに新しい自分,新しいロールが生まれ出てきた。

両者共に四苦八苦しながらも,新しいロールが創造されており,そこでは主役から内発してくる現在の均衡を打ち破る,サイコドラマでは自発性と呼ぶ生命力の噴出があった。

そのため,新しいロールの創造が究極の目標であるが,その創造のために,主役の自発性が十分に発揮される必要がある。その自発性が現状のロールの停滞状態,硬直状態あるいはロール間の葛藤状態を打破する力となるので,自発性を回復したり,呼び起こすことが,サイコドラマのプロセス上の課題となる。

図1は,サイコドラマのプロセスと構成要素が相互に関係しながら展開していくことを示している。

図1:サイコドラマのプロセス

サイコドラマの世界観—テレとサープラスリアリティ

さらにパースの場合,寝転んでいた参加者の存在が手伝っていた。あらかじめ予定することも情報共有もない中で,双方の存在の意味深い繋がりが露わとなった。それをサイコドラマでは「テレ」という。テレとは,ギリシア語の「遠くに」を意味する語に由来し,二者の間に距離を越えて生じる相互的な感応関係を指す。モレノはこれを,過去の関係の投影である転移と区別し,「今ここ」で成立する現実的な出会いとして位置づけた。サイコドラマでは,このテレが主役と他者,あるいはグループ全体の間に生起することで,生きた体験が展開していくのである。

つまりドラマは他者との感応関係であるテレによって支えられている。サイコドラマでは,テレはサイコドラマの中に留まるものではなく現実世界もまたテレによって支えられていると考えている。

本稿の最初に,私は,現実には制約があるが,私たちの思い,願い,夢が現実を作るということを述べた。実際,思い,願い,夢みることは現実を作る上で不可欠な次元である。

この思いや願い,夢みること,現実には起こらなかった出来事やまだ現実には存在していない可能性の世界をサイコドラマでは,サープラスリアリティ(余剰現実)と概念化する。

私は,数学において実数世界を記述するために虚数世界が不可欠であることを思い出す。現実の体験世界もまた,虚数を導入することで実数世界の構造がよりよく記述されるように,サープラスリアリティという異なる次元を導入することで,はじめて十分に捉えられるのである。

サイコドラマはこの可能性の世界としてのサープラスリアリティを扱う。思いや願い,夢,起こらなかった出来事,なりえなかった自分,語られなかった関係性を表現する余地を最大限に与える。ドラマとしての具体化は,単なる想像にとどまらず,現実の身体と他者との関係性の中にサープラスリアリティでの体験が現実の主役の中に,そしてテレを通じて参加者やグループの中にも刻まれていくのである。

小さな目標に見えたロールリバース能力を高めること,そして未だ目に見えない,他者との間のテレに目を向けることが,互いへの共感に根ざした豊かな世界の創造を可能にするのである。

世界は現実そのものであると同時に,テレを通じてあらゆる可能性の世界,サープラスリアリティによって支えられ,作り上げられている。それがサイコドラマが捉える人間と世界のあり方なのである(図2)。

図2:サイコドラマの世界

ポリヴェーガル理論とサイコドラマ再び

ここで改めてポリヴェーガル理論とサイコドラマについて考えを巡らせたい。

これまで見てきたように,サイコドラマでは,あらゆるロールを大切なロールなのだと捉える。なぜならこれまでそれらロールによって生き延びてきたからである。これはまさにポリヴェーガル理論の帰結としてあらゆる自律神経系の活動は,生き延びるために必要な感謝すべき働きなのだ,という考え方と通じている。津田氏は自律神経系の3段階(VVC,SNS,DVC)は全てリソースなのであって,問題はどれかに固着することなのだ,と指摘している。

そのため相手役やロール間を自由に行き来してロールリバースできるようになることと,新しいロールを創造する,というサイコドラマの目標は,津田氏がセラピーの目標として掲げた3つの目標である,世界と柔軟な関わり,安心して他者と居られ,自由に可動化できる,ということとまさに対応する。

これらの実現には,津田氏によれば安全の拡充と,腹側迷走神経系複合体(VVC)を基盤としながら,交感神経系(SNS)や背側迷走神経系複合体(DVC)との柔軟な可動性を回復することがポイントであると理解した。サイコドラマにおいても,安全感なくしては可能性の世界を十分に展開することができない。また現在の自分のロールから様々なロールにロールリバースをしたり,ミラーを通じて客観視することで,現在のロールを可動化させている,と言ってよいだろう。

それではサイコドラマではどのように,ロールを可動化したり,新しいロールの創造を促進させるのか。

トラウマ体験や逆境的体験によって何らかの症状化していることがある。時には精神症状も手伝って対人関係が難しくなっていることもある。このような場合でもサイコドラマでは,どのロールも排除されるべきものではなく,主役が生き延びてきた歴史を担う不可欠なロールとして捉える。

例えば,トラウマ体験がある人に,何を望むかを問うとトラウマ以前の状態に戻りたいと述べることがある。本人も現実を変えられないことはわかっている。しかし,繰り返しトラウマ体験以前の当たり前の日常が脳裏に浮かんで彼・彼女を捉えてやまない。サイコドラマでは,その捉えてやまない脳裏に浮かぶ日常を作ってみましょう,と言って批判せずに具体化する。それがどうなるかは,わからないままに,ともかくドラマを一緒に進めていくのである。

また被害妄想があって家族との対人関係が難しくなっている人には,どんな被害が起きているのかを具体化し,ロールリバースしながら現実には実現できなくて困っている本人が望む対人関係を一緒に探る。

これらの作業は,ポリヴェーガル理論では自律神経系の活動として,交感神経系(SNS)や背側迷走神経系複合体(DVC)に腹側迷走神経系複合体(VVC)を入れ込んでいく,というセラピーの目標と言われる,そこに至るための具体的なサイコドラマ的手続きだと私は考えている。

誤解を恐れずに言うと,サイコドラマではたとえ診断がついている状態にあるとしても,病理化して区分けするのではなく,現在の主役のロールシステムの状態と捉える。課題は,それらのロールが主役にどのような体験世界をもたらしているのか,を明らかにし,その上で,主役の望みや選択,勇気を尊重することである。

サイコドラマは,現実の世界では体験できないサープラスリアリティを,「今ここで」体験可能なものとして立ち上げる実践であり,ロールリバースできる自由と新たなロールの誕生へと共に歩みを進めるのである。

おわりにあたって

今回扱った事例は限られたものであり,サイコドラマを十分網羅するものではない。特にサイコドラマにおけるグループづくりの工夫や対人場面のサイコドラマ,そして潜在的あるいは顕在的トラウマ体験や逆境的小児期体験を直接的に扱ったサイコドラマなどの提示ができていない。しかし,それでもサイコドラマとポリヴェーガル理論を相互に考える事例として,サイコドラマらしいプロセスの一端を取り上げることにはなった。

私はサイコドラマはごっこ遊びだと思っている。しかしそれは単なる遊びではない。人はごっこ遊びでしか,新しいロールを試すことができない。現実ではできなかったこと,なれなかった自分,選べなかった関係をごっこ遊びの中では何でも試すことができる。空想や夢を見るとは本質的にそういうものであるはずだ。しかし,私たちは,空想したり夢を見ることでさえ,制約したり禁じてしまい,自由に広げることができずにいる。ごっこ遊びも練習が必要なのである。

サイコドラマは安全感を感じる中で,監督や参加者の協力と応援を受けながら,自由に遊べる練習の場である。その過程は,ポリヴェーガル理論の視点から見れば,安全の中での共同調整を基盤とした神経状態の変化を導くものであると理解することができる。そして神経状態の変化は,理論や頭の中で考えて導かれるものではなく,「今ここで」の体験の中から立ち現れてくるのである。

もう少しつけくわえると,サイコドラマは臨床介入が与える影響を目に見える形でドラマ化することを可能にしてくれるので,臨床家にも,本人も,参加者にも何が起きているのか手に取るようにわかるようになる。

サイコドラマの監督は解決しようとせず,解決方法を提案することなく,できるだけ空っぽになってその場に従って寄り添う。

「安心な場で奇跡が起こる」と言われるが,安全というばかりでは創造的過程は進まない。時に無謀だったり冒険が必要である。ひとり遊びではなく,それでもそこに他者の存在があること,そこにこそ,共同調整という奇跡が生まれるのである。

+ 記事

前田 潤(まえだ・じゅん)
室蘭工業大学大学院教授
資格:サイコドラマTEP,臨床心理士,公認心理師。
主な著書: “Cultural Diversity, Groups & Social Challenges”(共著,IAGP,2025),『心理劇入門―理論と実践から学ぶ』(共著,慶應義塾大学出版会,2020),『総合病院の心理臨床―赤十字の実践』(共著,勁草書房,2013)
趣味:サイコドラマ,オペラ鑑賞

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