小林 智(新潟青陵大学)
シンリンラボ 第37号(2026年4月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.37 (2026, Apr.)
1.はじめに
私が宮城県仙台市にある大学院で博士前期課程を修了したのが2011年3月のことである。4月からいくつかの非常勤の仕事を掛け持ちすることになっていたが,職場はいずれも仙台市内であった。従って必ずしも転居を要するわけではないが,風呂場に手回し式のバランス釜が鎮座する家賃2万円のアパートを手狭で便が悪いと感じていたところでもあり,思い切って地下鉄駅から徒歩20分圏内の家賃5万円のアパートに引っ越すことにした。当時としては思い切った選択だったが,心理職という憧れの世界に飛び込むこともあって背中を押されるように決断した。こうして,未来への期待とわずかな日用品を箱詰めし,引っ越し作業に没頭していたその刹那,日常の崩壊を予感する一瞬の出来事に直面する。東日本大震災である。
2.二つの国難の異なる様相
当時声高に叫ばれていたキーワードが「絆」であり,「国難」と評されるほどの難局を人と人との繋がりによって克服せんとする空気の中で私たちは暮らしていた。私自身が被災地域の復興に果たした貢献は殆どないが,あの時の出会いや経験は,臨床心理学徒としての私を形作る上で欠かせないものであったのは間違いない。
報道によれば,一部避難所において「こころのケアお断り」という言葉が掲げられるなどのハレーションが生じたようである。当時を東北地方で過ごした者として,そうした思いを抱いてもおかしくない状況にあったことを十分理解し,支援的関与であっても無謬ではいられないその限界は自覚している。だからと言って復興における他者との物心両面の繋がりが果たした貢献を根底から否定することもまた,実態に反する極論であろう。
こうした東日本大震災での試行錯誤から10年余りの時を経て,我々は「新たな国難」と評される難局に再び直面する。いわゆるコロナ禍だ。両者は互いに国難と評される事態でありながらその様相は全く異なっていた。絆の重要性が強調された東日本大震災に対し,コロナ禍ではディスタンス(距離)を取ることの重要性が強調されたのである。
3.危機とNormalのホメオスタティックな共犯関係
私がこれらの国難に直面する中で特に強烈な違和感を抱いたのが,コロナ禍において複数の類語と共に広まったニューノーマル(The new normal)という言葉である。日常生活という人生の重要な領域に関して,そのあるべき姿を具体的に指示する言葉であるにもかかわらず,なぜあれほどまで様々な人にカジュアルに使われ,普遍性を帯びているかのような装いでいられたのだろうかということに,今なお強い危機感を抱かざるを得ない。当時のWHOトップによる「私たちは古い日常に戻ることはないだろう(But we will not be going back to the ‘old normal’.)」という発言も文字通りの意図があるとすれば衝撃的な内容である。ここで記することに当時直面していた国難を矮小化する意図はないが,たとえその国難が感染症の拡大であれ,大規模自然災害であれ,あるいは仮に戦争と読み替えてみたところで,社会的に要請される“Normal”な存在ではいられない人々の支援に従事する者として,こうした物言いへ危機感を抱く感受性を失わずにいたいものである。対人接触が感染リスクを高めるのは自明のことであるが,事実(Is)から規範的言明(Ought)は論理的に導かれないとするヒュームHume, D.の警句に対人支援者は改めて耳を傾けるべきではないか。
4.啓蒙的リベラリズムとロマン主義的アイロニー
「健康であること」「規範的生活を送ること」—これらの言葉には,それ自体を問い直すことを許さない自明性が備わる。なぜ健康でなければならないのか,ノーマルとは誰の目から見てなのか,と問う前に,これらは公共的目標として機能してしまう。ローティはこうした「これ以上なぜを問うことができない状況」で機能している言葉の体系を「終極の語彙」と呼び,その偶然性(文化的・歴史的に形成されたものに過ぎないこと)を直視し,改訂に開かれた状態を作ることを要求する。
ニューノーマルという言葉があれほど自明のものとして流通したのは,「こうあるべき日常の姿」を問い直す余地を閉じたまま人々の生の在り方を暗黙裡に規定する終極の語彙として作動したことを意味しているのだろう。こうした具体的文脈において終極の語彙を理解すると,ここに観察されるのはフーコーFoucault, M.が批判する生権力の発露そのものである。フーコーは精神医学が生権力の装置として機能することを示し,反精神医学運動を展開した。こうした姿勢は自明だと思われている所与の前提を疑うアイロニストとしての在り方ではあるものの「目の前の苦しみにどんな言葉で向き合うか」という問いへ答えを持ちにくい。徹底的アイロニーがもたらした一つの悲劇としてビンスワンガーBinswanger, L.によるエレン・ウェストの症例を挙げることができるだろう。彼はこの症例において患者の自殺可能性を予期しながら治療の中断を決意し,既遂に至った事例を現存在分析的な実存回復過程の代表的な在り方として自己擁護した。
5.リベラル・アイロニストという可能性
ここまで見てきたように,公共的で普遍的な善を理性によって追求する啓蒙的リベラリストとしての在り方と,普遍的な善に対する疑いを持ち続け私的な実存を追求するロマン主義的アイロニストとしての在り方の間には簡単に対立構造を見出すことができる。しかし,ここで虚無主義へと向かわないところに本書の核心がある。ローティが提唱する「リベラル・アイロニスト」とは,自らが信じる公共的な語彙がある面から見れば終極の語彙に過ぎないことを自覚しながら,残酷さを憎み他者の苦痛に想像力を向けることをやめない人間像である。連帯の根拠はそこで信じられている善の普遍性にあるのではなく,他者の苦しみを「自分ごと」として想像する実践の積み重ねにある。その意味で本書は私的な実存と共約可能な共通善について答えを与えてくれる書物ではない。ただ,その問いを手放さずにいるための大事な一冊として,今も私の手元に置かれている。
小林 智(こばやし・たく)
新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科准教授
資格:臨床心理士・公認心理師
専攻:家族療法・短期療法(ブリーフセラピー)










