私の本棚(23)『街とその不確かな壁』(村上春樹著)|髙橋 哲

髙橋 哲(芦屋生活心理学研究所)
シンリンラボ 第23号(2025年2月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.23 (2025, Feb.)

僕はスクールカウンセラーなので心理学が専門なのだが,僕の書棚には心理学の専門書や心理学周辺領域の書物はあまりない。というか,ほかの領域の書物が多すぎるので,心理学関連の書物が相対的に目立たなくなると言った方がいいだろうか。とにかく僕の書棚には,自然科学から社会科学,人文科学,美術,音楽,さらに純文学からエンタメまでのあらゆるジャンルの文学作品,評論,画集,漫画など多領域の書物が雑多に並んでいる。いや正確には,大量の雑多な書物が床から乱雑に積み上げてあり,足の踏み場がないというのが実情だ。その雑多な書物たちの中から,最近の僕の興味に応じていくつかを紹介してみよう。「学生さんに勧めたい本」という観点から,入手しやすい新書や文庫を中心に選んでみる。

まず自然科学領域。最近は物理学の宇宙論と量子力学に興味を持っている。宇宙論では並行宇宙が存在するのかという問題に興味がある。この問題を考えるにあたっては,『大栗先生の超弦理論入門』(大栗博司,講談社)が面白い。これはいわゆる「弦理論」の紹介だ。この理論によると多重宇宙や並行宇宙が理論的に基礎づけられるという。またこの本では,オイラーの公式(自然数を順に無限大まで足すと,その答えは-1/12になるという不思議な定理)が中学数学で説明してあり,数学好きで友だちの少ない中学生男子(いつ学校に来なくなっても不思議ではないような男子)とそんな話をするのはとても面白い。

人類学領域の本で『人類の起源』(篠田謙一,中央公論新社)もおもしろかった。これは,化石人骨のゲノム解析による最近の人類学の成果を紹介した本だ。とても興味深いのは,旧人類(ネアンデルタール人など)と現生人類(いわゆるホモサピエンス)が,かなり積極的に交雑していたことが,遺伝子解析を通じて分かってきたことだ。そして現代に生きる僕たちのゲノムを解析すると,一定の旧人類由来の遺伝子が見つかるのだという。僕は自閉系の「発達障害」とよばれる特性は,この遺伝子に起因するのではないかと思っている。何のエビデンスもないけれども,ネアンデルタール人が残したとされる細密な洞窟壁画を見るとそう思うのだ。

次に文学領域,少年時代から小説はよく読んでいる。純文学からエンタメまであらゆるジャンルの小説を読むが,仕事が忙しいとどうしてもエンタメ系に走ってしまう。推理小説やSFも読むのだが,一番肩がこらず楽しく読めるのはファンタジー作品だ。このジャンルでは多くの女性作家が活躍している。もしかしたら何もないところに一から物語を創りだす,つまり「世界の創造」は女性の方が得意なのかもしれない。紹介したい作品はいくつもあるが,その中で,ある一つのフレーズが物語の通奏低音になっている五代ゆうさんの『〈骨牌使い〉の鏡』(早川書房)という作品がとても好きだ。そのフレーズというのは「物語には最良の結末を」というものたが,これは僕ら心理療法家の基本姿勢を示しているのではないかと思っている。他に乾石智子さんの『〈オーリエラントの魔導士〉シリーズ』(東京創元社)をよく読んでいる。それから,心理屋が読んだ方がよい作品として伊藤計劃さんの二つの作品,『虐殺器官』と『ハーモニー』(早川書房)をあげておきたい。

美術関連では,高階秀爾さんの『名画を見る眼 Ⅰ・Ⅱ』(岩波書店)が面白い。描画療法に興味を持つ人には必読文献になると思う。同じ高階秀爾さんの『近代絵画史 上・下』(中央公論新社)も名著だが,一つひとつの絵画への思い入れが強い分前者の方が読んでいて楽しいのではないかと思う。もう一つ,ちょっと異質な絵を紹介している中野京子さんの『異形のものたち』(NHK出版)をあげておく。夢の分析が好きな人には参考になるだろう。

最後に,ちょっと大きめの文学作品として村上春樹さんの小説『街とその不確かな壁』(新潮社)を紹介したい。昨年10月,マレーシアで災害後の心理支援に関する国際学会を行った際に,僕は基調講を担当しこの作品を紹介した。

ネタバレになるので作品の詳しい内容は書けないが,大体次のような概要である。

物語は,冒頭で他者との関わりの少ない男女二人の若者の恋愛関係を描く。主人公である「私」(男性)とその恋人(女性)は,二人だけの親密な世界を創り上げその中で充足する。ところがある日突然その恋人は失踪する。「私」には何が起こったのか全く分からない。残された「私」は,周りの世界と社会的な関わりを持てないまま自閉的な世界に追い込まれる。自閉的な世界=壁に囲まれた街の中で,「私」は毎日同じ作業を繰り返す。この現実の他者との関わりのない「私」の世界=壁に囲まれた世界は,自閉症の世界ととてもよく似ている。それは変化のない静かで安定した世界であるが,「私」はそこに安住することができない。やがて「私」は,自分の影の助けを借りてその街から脱出する。この脱出のプロセスは,「私」の喪失トラウマからの回復と言えるかもしれない。その後外の世界で穏やかな社会関係を回復した「私」は……と物語りは続いていくのだが,その後については作品を読んでいたたいた方かよいだろう。物語の後半で「私」は,真正の自閉症と思われる少年と出会い交流する。その少年もまた壁に囲まれた世界に行きつくのだが,彼はそこがとても気に入り,そこを安住の地として選択していく。

恋人を失ったけれどもその喪失の経緯が全く分からない,このような喪失を僕は「不確かな喪失」と呼んでいる。不確かな喪失を体験した時,人はあたかも自閉症のような孤立を体験することがある。しかし人はその状態(トラウマ)から回復することができる。トラウマ=心的外傷による自閉状態は,本質的な自閉症とは異なっている。

この作品を読んで,僕はいわゆる「発達障害」と呼ばれる状態への理解を深めることができた。なのでこの作品を多くの若い心理臨床家の人たちに読んでほしいと思う。

なお,この作品をマレーシアで紹介した理由は,マレーシアでは航空機事故で国民的に「不確かな喪失」を体験しているからだということを付け加えておく。

『街とその不確かな壁』(村上春樹著,新潮社)
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髙橋 哲(たかはし・さとし)

所属:芦屋生活心理学研究所 所長,兵庫県スクールカウンセラースーパーバイザー
アジア災害トラウマ学会理事長
資格:臨床心理士

日本臨床心理士会阪神淡路大震災現地活動本部長
東日本大震災,被災地担当スクールカウンセラースーパーバイザー(文部科学省委託)

趣味:釣り,バンド活動(ギター,ベース)

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