川原稔久(谷町こどもセンター相談役・大阪公立大学名誉教授)
シンリンラボ 第19号(2024年10月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.19 (2024, Oct.)
私が紹介する「座右の書」は,中井久夫著『精神科治療の覚書』(日本評論社,1982)である。本書を紹介することとしたのにはいくつかの偶然が重なっている。そのことをはじめに述べて,その後に本書を少しだけ紹介していく。
1.はじめに−いくつかの偶然
私が本書を紹介することとなったのは,先日(2024年の春),たまたま出掛けた『空海展』で,偶然にも久しぶりに出会ったある先生が本誌の編集委員を務めておられていて,私に執筆の機会を紹介してくれたのが機縁であると,あとで知った。その執筆内容が「本棚」からの「座右の書」の紹介と伝えられて,これまたタイムリーだと思った。というのも,この春は,丁度定年を迎え,また数年前に大きな病気をしたこともあって,仕事も本棚も大きく整理したタイミングであって,本との付き合い方を考える良い機会があった。
仕事柄溜まりに溜まった本棚を大きく整理してみると,読むべき本はたくさんあるけれども,本を読んでないなとあらためて思った。また,いろんな意味で私に読み終えることができる本は少ないな,と思い知らされた。なので,これからの読書はより本質へ遡る読みの旅だなと思うとともに,これからは年金暮らしで時間をかけて読み直すことができる,と思った。その時にじっくりと読み直したいと思いついたのが本書であった。
2.本書との出会いと本書の本質
本書との出会いは40年ほど前,私が大学院生であった時代にまで遡ると思う。アルバイトでとある総合病院精神科で心理検査と予診(アナムネーゼAnamnese)を担当していた私は,本書から受け取った臨床感覚に助けられて仕事をしていた。特に,初発の急性精神病状態を呈したいわゆる新鮮例のアナムネーゼを私に任せてくれた医長は,当時神戸大学において開催された精神病理学会でその大会長であった中井先生に私を紹介してくれた。その後教員となった私は本書を大学院で担当した「臨床心理面接特論」講義の課題図書に指定していて毎年議論のために拾い読みを繰り返していたが,今回読み直してやはり,慌てて読み飛ばすのではなくてじっくりと時間をかけて読み直すべき書と思った。
例えば,本書の最初にある「精神病院とダムの話」をじっくり調べながら読み直すとそこに本書の本質である中井久夫の書き方,思考,臨床姿勢,そして臨床感覚が顕れていると感じた。医療環境に出来する現象の多様な相互作用について,全体と細部の双方を往復する思考が書き方にも顕れてきて,一つの話題に複数の視点が矢継ぎ早に書き下される。読み手である私はその思考についていくことができずに,何度かじっくり読み直してようやく全体像が見えてくるといった塩梅かと思う。医療環境での細やかな配慮と精緻な思考,具体的で簡素ながら絶妙の描写とコミュニケーション。その概要の僅かではあるが,以下に簡単に区切りながら紹介してみようと思う。
3.本書の構成とその特徴
本書の構成は精神科における治療の順序立てに添っていると思われる。最初は著者らしく全体像と大局観を示すための話題が多次元的・多角的に繰り返し記載されている。それがダムの話,リズムやテンポの話,眠りと夢の話,回復過程の論理の記載になっていると思われる。そして治療の滑り出しである出会いと呼吸合わせ,治療の合意と服薬の心理,服薬の合意の話になる。
最初の服薬の際の所作とコミュニケーションは本書で繰り返し話題に出るほど重要な瞬間であろう。そして第一夜,二日目,三日目,最初の一週間,治療間隔の話になる。この数日の経過についてフィードバックをするなかでいくつかの過程の相互作用について秤量しながら診断や判断をするのだと思われる。次に来る急性精神病状態の心理と生理についての記載は本書の白眉と思われるが,診断に関わることだと思う。
本書の後半は,入院治療と外来治療と往診に関わることで,患者本人と家族についての関わりや具体的なコミュニケーションの詳細である。ことに急性精神病状態の治療原則を家族と患者についてそれぞれ記載した章は,そのプロセスと具体的なやり取りの詳細を読むことができる。とりわけ,多くの次元のプロセスにズレが生じることからくる心の動きや,回復の方向を揃える呼吸合わせのために必要なフィードバックの連鎖などは,心理的なコミュニケションを考える上で大変示唆的であると思う。
4.臨床姿勢と思考,および記載の特徴
ことほどさように,本書は治療の実際に関わる覚書なので,具体的なコミュニケーションや所作の工夫が満載であって,その一々は本書で直接触れてほしい。秀逸なことが多くて真似しようにも私にはできないことが多いが,例えば,クライアントがお金を払っているのでクライアントに関わる文書は第一にクライアントのものであって,例えば心理検査所見や意見書,紹介状などはクライアントと相談しながらクライアントの目の前で書く,といったようなことは実践してきた。カルテの最初の数ページに家族の状況や家の見取り図,家族の年表など面接のたびに得られた事柄を日付をつけて追記していき,面接直前の30秒ほどでちらりと確かめるなどは,常に全体像を俯瞰して相互作用のプロセスの勾配を秤量する著者の臨床姿勢の具体例であろう。そこには,言葉を絶するような未曾有な危機にあって人がいかに複雑な矛盾と逆説的な悪循環に陥り孤絶し焦り余裕がなくなるのか,どうしたら少しでも回復の道を辿れるのか,その全体像を把握すべく,生理,知覚,意識,心,家族,組織,制度,経済,社会などの次元について,自然のプロセスと人為的プロセスの相互作用を,いくつかの指標やパラメータを選び出して,その変化の勾配を測っていく,という思考が働いていると思う。その複雑さを伝えようとするレトリックは先鋭を極めつつも人と関わる姿勢は心ないことは避けようという慎ましさを感じる。
また,今回読み直して感じたのは記載の特徴で,それは押し付けがましくなく,語りに近い。著者が常に患者や家族と対話や語りを実践してきた証だろうと思った。精神科医の著作ではあるが,心理の私にとって常に支えになっていた本である。
氏名:川原 稔久(かわはら・としひさ)
所属:谷町こどもセンター・相談役
資格:臨床心理士・公認心理師