赤津玲子(龍谷大学)
シンリンラボ 第39号(2026年6月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.39 (2026, Jun.)
わたしは,とっても「悩みながら」シンリシになった。あまりにも紆余曲折があったので,とても話しにくい。隠しているわけではなく,どう説明したらいいのか困るのである。だから,今回は他の書物にはまだ書いていない,その体験の一部を少し書いてみようと思う。ただし,これは私の個人的な体験であって,多くの心理職はもっと援助職につながる道筋のような広くて深い体験を持っていることを,お忘れなきようお願いしたい。
若い頃の私は,好奇心が旺盛で,周りから見るとフットワークが軽く,思い立ったらすぐに実行するような人だったと思う。人が好きで,知らない人と出会ったり話したりすることも好きだった。怖いもの知らずとは,若い頃のわたしにぴったりな表現であるが,それは肯定的な表現に過ぎず,単に火傷をしないとわからないタチだっただけである。今でも,好奇心が旺盛というところは変わっておらず,とにかく「理解できない」が好きである。「理解できない」,「わからない」,「難しい」との出会いがとても楽しくて,それを理解しようと試みる過程に何よりも面白さや,ワクワクを感じるのだ。
そんな能天気な私は,20代当初に大きな挫折に出会った。もともと語学に興味があり,中国語を勉強していたわたしは,紆余曲折を経て,第一志望の中国専門の旅行会社に入社することができた。語学を生かして観光の仕事に携わりたいという思いを強く持っていたのだが,添乗員として中国に行くたびに,私のやる気とは裏腹に「わからない」が深まるばかりになっていった。
少しわき道に逸れるが,想像していただきたい。今のようなネット社会ではなく,スマートフォンどころか携帯電話もない社会状況で,20歳のうら若き女性(?)が,一人で20人ぐらいの観光客を連れて,中国の田舎を2週間ほど巡る絵を,である。仕事とはいえ,よく一人で行ったものだと思う。日中国交正常化から間もなく(当時はビザが必要だった),コンビニはなく,国際電話は高価で中国語しか通じない土地を回るのである。反日感情という批判的な視線や言葉を向けられることもあった。そのような批判的な態度は,中国語がたいして話せない自分にもなぜか理解できた。
何度か訪中する中で,たくさんのガイドさん達と出会い,仕事の話題以外にもあれこれ話す機会があった。そのような付き合いの中で彼らに対して,考え方が違う,認知が違う,思考の筋道が違う,と思うことが多々あり過ぎ,どうしてそんなふうに考えるんだろうと,わたしの中で「わからない」体験が積み重なっていったのである。特に,年代が近いガイドさんと同行するときに,それは顕著だった。その「わからない」は,わたしにとってとても手強かった。
また,当時の日本からの観光客には,発展した国(富裕層)が日本よりも開発の遅れた国(当時の言葉で表現すると発展途上国)を訪れるというイメージがあって,わたしの個人的な心情として,物売りや物乞いをする現地の子どもたちとの格差が身に染みて感じられて苦しかった。アンビバレントであるが,自分の同行するツアーのお客さんたちが買いたい商品の値切り交渉を引き受けることにも,そこはかとなく嫌な感情を抱えていた。もちろん,お客さんたちが悪いのではなく,むしろいい人ばかりだったし,たくさん勉強させていただいた。しかし,現地の人たちよりも,観光客も自分もステイタスが上みたいな印象が拭えないばかりか,そんな気持ちを抱く自分自身にも追い打ちをかけるように嫌気がさしていった。大好きでやりがいを感じていた仕事に対してそのような複雑な気持ちを抱え,さすがの好奇心も潰え,果ては諦観となり,やがて職業への疑問を感じるという地の果てまで行きついた。夢半ばの大きな挫折である。
※ 紙幅の文字数制約の都合で,何年間かの中略となります。
30代,私は改めて学ぶチャンスに巡り合った。地元の大学が心理学部を立ち上げ,社会人学生を募集していることを知ったのである。家族のサポートを得られ,心理学を学ぶことで保留にしていた挫折体験を復活させようと考えたのだ。
社会構成主義は,そこで出会った社会心理学を専門とする辻本昌弘先生(現在は東北大学)から学んだ。辻本先生は,南米に住む日本人移民のフィールドワークに取り組んでいて,その時の体験をあれこれ教えてくれた。それが,自分の20代の挫折体験にひとまずの終止符を打つきっかけになった。「わからない」という理解は,ひたすら自分の狭い視点によるものだと気づいたのである。その後,様々な異文化フィールドワークの著作を読んだり,実際のフィールドワーカーの体験に触れる機会が増えたりする中で,「それに類するような臨床」ができるのであれば心理職として取り組んでみたいという気持ちがムクムクと持ち上がった。悲しいかな,対人援助職として何か自分にできることに取り組みたいという,高い志ではなかった。臨床心理学に興味を抱けなかったわたしにとって,それは雲をつかむような暗中模索の始まりだった。
しかし,この暗中模索に本気を出さねばならない大事件がわたしを待っていた。当時のわたしのパートナーの金銭的な苦境が発生し,自分が代わりに働かなくてはならない状況になったのである(ちなみに庇うわけではないが,わたしのパートナーは人生で出会った一番面白い人物である)。その状況を聞いたわたしは,それなら自分が稼がなければならないと瞬時に悟り,「どこかで働くのは嫌だからパン屋を開業する!」と言い切った。それを聞いた家族は,わたしを必死で制止した。「せっかくここまで勉強したのだから,大学院に進学して,臨床心理士の資格を取得して稼いだ方が大黒柱になれる」というのだ。もう一度語学を学びたいとか,フィールドワークをやってみたいとか,そんなわたしの夢物語はいったんお預けとなり,学ばせてもらった恩返しと,家族の大きな期待を背負って,わたしは大学院に進学した。
案の定,大学院でも私の暗中模索は続き,むしろそれはさらに切実な思いとなってわたしを苦しめた。どうしても納得できない臨床心理学を学ぶこと,それを生業にすることへの抵抗である。「それに類するような臨床」,それはわたしにとって書籍の中の洗練された,絵に描いた餅ではなく,もっと泥臭い現実と格闘することだった。そしてようやく,アンダーソンの著書『会話・言語・そして可能性』に出会った。これについては,シンリンラボ第1号 「私の本棚」に書いているので省略させていただきたい。その出会いが大きな転機となり,「それに類するような臨床」がこの世にあるのかもしれないという一縷の望みにつながった。そして家族療法,システムズアプローチ,ブリーフセラピーに出会った。だからわたしはシンリシになった。カッコよく対人援助職を目指したのではなく,わたしがやりたいアプローチがあると知ったから,シンリシになれたのである。
せっかく資格を取得してシンリシになったと言っても,駆け出しには何もできなかった。もちろん,「それに類するような臨床」なんて何一つ出来ず,一人でバタバタしていただけであった。当時,心理職の公募はほとんどなく,まして常勤職が少なく,中途半端な年齢と経験のないわたしを雇ってくれるところなどあるはずもなかった。しかし,そのおかげで十分な稼ぎはなくてもあちこちの現場で経験を積ませていただいた。特に,心療内科と学校現場で一緒に働いていたスタッフや教職員の方々との関係は今でも続いており,多くのことを教えいただき,こんな自分をシンリシとして育ててくれたと思っている。
それらの経験を重ね,昨年,恐れ多くも相談室を立ち上げて1年と少しが経過した。今さら何故かと問われたら,泥臭く現実と格闘する「それに類するような臨床」をしたい,その一言に尽きる。支援は一人ではできないということを,これまで出会った多くのクライエントや家族,そして同僚に教えていただいた。本当に小さな相談室であるが,地域のネットワークの1つとして位置づけられるような,開かれた相談室にしたいと思うのだ。
滅多に書けない,話せない,「悩みながら」シンリシになったわたしの体験の一部を書いてみた。シンリシ自身の個人的な経験は臨床の邪魔になることも多いと思うが,この体験の全てが,どこかで今のわたしのシンリシの仕事にも影響していると思う。「どこかで働くのは嫌だからパン屋を開業する!」と言った私を止めてくれた家族に感謝している。周りに恵まれながら,今シンリシで頑張れているわたしを,天国で暖かく見守って欲しい。
(あかつ・れいこ)
所属:龍谷大学心理学部
資格:公認心理師・臨床心理士
趣味:家でダラダラと本やマンガを読んだり、アマプラすることが何よりも好き(笑)。
上橋菜穂子さんと宮崎駿さんの大ファン。
最近の目標は、誘われたらゴルフもスノボも飲み会も、アウトドアを断らないことです。









