こうしてシンリシになった(38)|森岡由起子

森岡由起子(聖学院大学客員教授,大正大学名誉教授,四谷サイコセラピー研究所)
シンリンラボ 第38号(2026年5月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.38 (2026, May.)

1.大学時代のこと

高校までは美術大学に進んで工業デザインの仕事がしたかったが,デッサンの点数が足りず,興味のあった「色彩心理学」を勉強しようとしていた。

入学した茨城大学はまだ学生運動(水俣病の支援,いろいろな派閥など)をしていた先輩達が5年生でかなり残っていて,大学の授業は(特に1年次は)出ても出なくてもよいような感じだったところ,先輩から家庭教師の仕事を紹介され,出向いた先は国立水戸病院の精神科医の家だった。本沢実先生は,千葉大・東京医科歯科大学院を終了された精神薬理学が専門の方であったが,精神科病棟にそれまであった鉄格子を外し,神経科の名称に変えて診療していた。病棟でレクレーションなどのアルバイトをしていた心理の学生と,まだ訳出されていなかったH.S.Sullivanの赤い表紙『Psychiatry』の抄読会を週1回開いていた。以前雑誌に書いたことがあったが,若い時期に尊敬できる精神科医に出会えたかどうかは,その後の心理臨床に大きく影響をしていると感じている。そうこうしている中で,「病棟の思春期の子どもにも勉強を教えてほしい」と言われ,週2日は病棟にいるようになった。

その頃,フランクルの『夜と霧』を訳された霜山徳爾先生や,日本大学の細木照敏先生,後述する山形大学精神科教授となった十束支朗先生などは神経病理学を専門としていたが「空井健三先生にロ・テストを習った」など,関東では何人かの臨床心理学の先達について,精神科医から敬意の念を持って語られていた。

大学もさすがに3年になると実験計画法が始まり,全員の教員が指導に当たられ,発表会まで徹夜してレポートを書いていた記憶がある。後日,大学の先輩だった針塚進先生(元九州大学教授)と,あの丁寧な授業で自分たちはかなり力をつけたと思うと話した。また教育心理学科では心理テストの授業はなかったが,文学部心理学科では「心理診断法」の授業があり,授業は開放されていた。

本沢先生と同期だった十束支朗先生から,新設された山形大学医学部へのお誘いがあり,私と荒川志津代さん(元名古屋女子大学教授),日高三喜夫さん(元久留米大学教授)が面接して,2人は大学院に進むということで辞退され私が行くこととなった。本沢先生は精神医学の知識がない私を心配して村上・満田・大橋『精神医学』の本の半分くらいの章を一緒に読んでくださった。

2.山形大学医学部時代①

当時東北の各医学部精神神経科には心理職助手がいたためか,助手として採用された。1977年から1996年まで所属し,その後新設された看護学科に移り2006年まで在職した。

着任したとき,山形県内には「臨床心理学」を専門とする大学教員は,保健管理センターの末廣晃二先生しかいなかった。専攻科からお世話になった山下恒男先生の紹介で研究生となっていた国立精神衛生研究所(千葉県市川市)の山本和郎先生と,田頭寿子先生のもとでカウンセリング,TATとロ・テストのSVを研修日であった金曜日にお願いした。お金がなかったので,当時運行していた夜行列車に乗って往復していた。その週1回の往復は3年間続き,なんとか臨床心理の仕事を続けてこれたのはそのおかげだと思っている。精研の図書館には知りたい本や雑誌がそろっていて,小学校から図書館好きだったのでSV以外の時間はそこで過ごすことができた至福の時間だった。

統計処理がある程度できたことは役に立った。まだPCなどない時代で,0/1データをパンチカード(若い方は見たこともないだろうが)で作成して,教養部にあった富士通の大型コンピューターを大坊郁夫先生(元北星学園大学学長)に操作していただいて,学会発表や論文作成の手伝いをした。

また,精神神経科時代は大学病院に臨床心理士は私しかいなかったため,小児科や産婦人科教授からのお誘いもあり,小学生の摂食障害や不妊治療中の方のカウンセリング,極低出生体重児の発達アセスメントと支援,産後抑うつのアセスメントと支援は看護学科に移ってから,現職の助産師の大学院生達と研究を進めた。自分が何をやっているのかわからなくなってもいたが,とにかく求められた仕事をこなしていた。あるとき「乳幼児精神保健」の仕事を自分がしているのだと言うことに気がつき,統合された。

3.山形大学医学部時代②

42歳の時,小児科病棟から引き受けた急性神経炎の痛みで泣き叫ぶ10歳の少女の相手を保護室でしていて,全く感情がわいてこなくなり,目の前の児に対して何も考えられなくなった。自分が治療を受けることを決意した。週1回1コマ目の看護学科での授業の後,東京に向かい1時間30分の滞在後とんぼ返りして夕方には大学に帰っていた。土居健郎先生に会うための山形新幹線往復時間は貴重な体験だった。クライエントさんがカウンセリングに向かう途上と帰路での反芻が追体験できたような気がした。それまでどこかで,自分が行っているカウンセリングを,少しうさんくさいものに感じていたが,この自分が受けた3年間の治療は,その後の仕事を続けてゆく糧となった。

4.大正大学・聖学院大学で

医学部看護学科での仕事に限界を感じ3月でやめようと思っていた夏,村瀬嘉代子先生から電話があり大正大学に誘われた。後任にということであったが,村瀬先生は「余人を持って代えがたし」と2年延長となって,貴重な時間を体験させていただいた。就任した春の挨拶の際,「これからは先輩達から教わったことを伝えてゆきたい」と言ったが,その次に立った村瀬先生は「臨床の技は一代限りで,伝承はできません」と,ぴしゃりとおっしゃって度肝を抜かれた。

医学部時代は学位を取得していたし,精神神経科で講師,看護学科では教授となっていたので,臨床心理士の資格は必要なく取得していなかった。それを承知で村瀬先生は大正大学に誘ってくださったのだが,学生を教えるには資格が必要と思い受験した。面接で,「医学部にいたあなたからみて,臨床心理学はどのように見えていたのですか?」という質問を受けた。少し驚いて「私のやってきたことが臨床心理学の仕事だと思っています」と答えたが,不快感を持たれたように感じた。「どうして今更,受験したのですか?」と言われ,「村瀬先生に大学に誘われたので」と答えたら,面接者の態度が変わった。

村瀬先生が心理職の国家資格化に尽力されたのは周知のことであるが,初めの頃は特に,国家資格化について周囲からの反対は強く,「ダーツの的のよう……」と嘆いていらした。以前土居先生が「あの人は逃げない人だ」と言っていたが,追悼号で語られるいろいろなエピソードを読んで,「覚悟の人」だったと改めて思った。このまま国家資格ができなければ,医療の中で心理職は仕事場を失ってしまうと私は感じていたし,スタート時の構想より不本意な資格となっているかもしれないが,現在「大学院卒」であることが望ましい(それだけでは足りないが)という共通認識はあると思っている。臨床心理士の資格化が始まった際,山本和郎先生は「資格はユーザーにとっての担保」とおっしゃっていたが,今学生には資格についてそのように伝えている。

5.現在のこと,これからのこと

東京に移ってからも山形での嘱託の仕事(精神保健福祉センター,総合病院小児科,NPO発達支援研究センター,男女共同参画室)は2週に一度続けていて20年(山形時代を合計すると40年)になるが,そろそろ後仕舞いする時期になっているかと思っている。

毎月第3金曜日に「田頭ロールシャッハ勉強会」という精神衛生研究所から始まったロ・テストの事例検討会が沼初枝さん,佐藤至子さん,大貫敬一さん,太田智佐子さんなどを中心に40年以上継続して開催されている。参加者の多くが現役を退いているにもかかわらず毎月集まっているのは,ロ・テストの魅力もあるがあの時代,国立精研で研究生として過ごした時間の豊かさと充実感があったからなのではと思っている。

この原稿を書いて,改めて多くの師と先輩たちと友人にお世話になって今日があることに思い至った。

これからは,村瀬先生に「臨床の技は伝承できない」と否定されたが,まだまだ拙いながらも後進へ伝達できることを話してゆくことができたらと思っている。

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森岡由起子(もりおか・ゆきこ)
聖学院大学客員教授,大正大学名誉教授,四谷サイコセラピー研究所
資格:公認心理師
主な著書:『サイコセラピューティックな看護』(編者,金剛出版,2007)
     『こころの医学入門』(分担執筆,中央法規,2017)
趣味:友人と美味しい食事とお酒を楽しむこと,料理,旅行(アイコンはリスボンの酒屋にて)

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