髙橋靖恵(京都大学名誉教授・油山病院臨床心理士)
シンリンラボ 第26号(2025年5月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.26 (2025, May)
1.いまのわたし
唐突なはじまりになったが,私は2025年3月末日をもって,京都大学大学院教育学研究科を定年退職となった。これまで心理臨床実践に携わって43年,大学での研究・教育にかかわって,34年が過ぎた。ご多分に漏れず,長く険しい道のりを歩んできて,ひとつの山を越えたいまは,少しの戸惑いと解放感と何より多くの人びとへの感謝にあふれる気持ちで,しばし立ち止まっている。よって,このご依頼を受けて執筆するのは,最終講義の一部であり,私の心理臨床家人生のサイドストーリーでもあるところとしたい。
私は,2025年3月23日に,最終講義を「心理臨床家としておもう時間と言葉」というタイトルで講じた。通常の「最終講義」であれば,研究者人生の集大成として,成果公表の場となるであろう。ところが私は,これまでの心理臨床家人生を振り返り,今新たな課題に向きあう覚悟で講義を行った。その課題のテーマが心理臨床実践の中に見出される「時間と言葉」である。私が2024年に著した『心理臨床実践において「伝える」こと』(福村出版)の〈おわりに〉に,綴ったことから,最終講義は始まった。
「時間と言葉」は,私が思春期の頃に,好んで聴いていたブリティッシュロック,プログレッシブロックのバンドで1970年代後半から1980年代にかけて一世を風靡した「yes」というグループの楽曲である。「時間」も「言葉」も,あらゆる学術領域に必須の事柄である。私は,退職を数年後に控えたおりに,ふと,この言葉と音楽がこころに蘇ってきたのである。では,ここで,時間を巻き戻してみよう。
2.思春期のころ
中学生から大学生の頃まで,私は体育会系の部活に夢中になる傍ら,音楽を習い,常に音楽を聴き,ライブなどを楽しんでいた。趣味も多く,なりたいものもたくさんあった。しかし不器用さからか,どれも秀でたものはなく過ごしていた。そんな中で,将来になりたいものを決めるきっかけとなったのは,中学時代に通った塾の先生とのやりとりだった。
その先生はもともと書道家であった。いかにも芸術家風で厳しい表情をたたえながらも,併設した学習塾では,生徒たちの特徴をよく捉えて指導をされていた。早く課題を終えてしまった私は,先生のそばに来るように言われた。中学3年生,皆がどの高校に進学しようかと迷っている時に,学校のように時間を定めて枠組みを持った形ではなく,ふいに生徒に声をかけて進路指導が始まるのだった。「将来何になりたい?」と問われて,いろいろ思い悩んでいることを話したようなおぼろげな記憶がある。それより,先生から言われたことがこころに強く残っている。それはこんな内容だった。「これからは,こころの時代になる。あなたは,友達の相談に乗っているようにみえるから,カウンセラーというのになったら良いと思う。もしも,医学部に行くなら,この大学かこの大学で,精神科医になるといいね。もしも医学部に行かずに,文系でカウンセラーになるなら,かならず大学院まであるところを目指すといいよ」というのである。1970年代の後半,臨床心理士という名前はおろか,臨床心理学を学べる大学ならびに大学院も,国立大学を中心にそれほど多くはなく,心理学の中でも応用心理学の一部であった時代である。
私のこころに残っているのは,これらの話に付け加えられた言葉だった。記憶は不確かであるが,先生は,「もしも医師にならなければ,カウンセリングで患者さんとかかわれるけれども,薬を使えないことが悔しいと思うだろうね」というのである。また,「こうしておおよその行きたい大学を決めて,そこに行くことが叶えられそうな高校を選ぶといいね」というのである。中学3年生の高校の進路指導に大学,大学院までの方向性を考えて歩むといいという。一見,アイデンティティの早期完了タイプで,拙速な感じも否めないが,私は,自分の生きる道を自分で考えるということに惹かれ,ぼんやりとしていた将来にひかりが射したように感じた。
それで私は,若い人になりたいものや憧れの職業を尋ねた時に,それがどれほど難しい仕事であっても,逆に平凡なものであっても,決して否定することはしない。そうした気持ちの維持と努力の継続は,夢が叶っても道が変わっても,その人自身が後悔しない歩みを進めたらそれが大切と思うからである。この経験から,現代の若者に対しても,その人を信じて,その人の歩むべき道を提示してくれる大人の存在が必要だと考える。
3.大学生から大学院へ
紆余曲折はありながらも,希望の大学に進学した私は,さまざまな理由から,医学部に進学しなかったことを後悔したくないという気持ちがどこかに残っていたようだ。そうして出会ったのが,ロールシャッハ法というアセスメントツール(心理検査)である。臨床心理士に求められる専門性は,心理査定(心理アセスメント),心理療法,地域支援,心理臨床実践に関する研究・調査といった4領域のスキルである。ロールシャッハ法は,ひとの無意識を理解しようとする投映法の代表的な心理検査であり,その習得には,基礎学習からはじまって,心理臨床実践現場で活用できるようになるまで,絶え間ない訓練が必要である。私は,大学4年生の実習に始まって,大学院生から病院で活動をする中で,こうしたこころの深い部分を理解して,治療や心理療法に活かせるようになれたら,先の医師の特権とは別に胸を張って専門性を活かせる心理臨床家になることができると考えた。
そうして,心理臨床実践と実践的研究を併走させながら,その後はその教育にも携わっていくことになったのである。
4.専門性を活かすということの難しさ
初期の心理アセスメントは,こころの治療や支援の始まる時に,初回面接(受理面接,導入面接などともいわれる)での様子と共に,必要に応じて心理検査も導入しながら,クライエントの問題理解を多角的に行う作業である。ひとのこころは,簡単にはわからない。たとえ,心理検査を駆使しても,そこに現れるのは問題の氷山の一角かもしれない。それでも,その後の支援や治療に活かすためには,どうすべきか,私自身も日々苦闘していた。クライエントは,自分の問題を解決したいという気持ちとこのままでいたい気持ち,また,他者に理解されたい希望と同時に,自分のこころについて,他人が理解できるはずがないという絶望の入り交じった気持ちをいだいている。それゆえ,治療や支援の導入期に,そこで理解したことをどの視点からどのように伝えていくのかは,とても重要になる。このフィードバック次第では,かえって,クライエントを傷つけてしまい,治療や支援を拒否することがあり得る。従って,この作業は丁寧かつ繊細な技術をもってすすめることが求められ,もちろんそのための訓練も必要である。心理療法を進めていくためのスキルと同様に,専門性を磨き続けなければならない。
さて,私は,このアセスメントの専門性と技術を磨くということと同時に,家族の力動的理解の必要性も感じていた。家族理解は,一方向的に「誰かを悪者にしない」ことが大切と思った私は,次第に精神力動的理解,上記の投映法の理解から,精神分析に惹かれていったのである。
5.再びいまのわたし
こうして心理臨床家としての苦悩を重ねながら,心理療法や心理アセスメントで発見したことを,若手の先生方に伝えること,もちろんクライエントやその家族に伝えることが大切と考えてきた。そうして,指導者として大学院の教員職に就いてから,再び精神分析的精神療法家としての訓練を受けていったのである。伝える言葉が生まれるように自分のこころをみつめ,クライエントとのかかわりを見直していくためであった。
先述したように,ひとのこころはわからない,不思議なものである。だから,そのこころの動きに悩んでいるクライエントとかかわり,共に考える仕事は続く。その専門家としての人生が続く限り,修練は続く。しかし,だからこそ,やりがいがある仕事であると今も思っている。
皆さんも,自分の道を模索し考え続けること,そうした歩みを止めない自分自身に誇りを持ち続けられるように,常にこころの中で励まし続けていって欲しい。
髙橋靖恵(たかはし・やすえ)
名古屋大学博士(教育心理学)
京都大学名誉教授,油山病院臨床心理士,個人開業
資格:臨床心理士,日本精神分析協会 精神分析的精神療法家,家族心理士,公認心理師
著書等:『コンセンサス ロールシャッハ法―青年期の心理臨床実践にいかす家族関係理解―』(金子書房,2012),『京大心理臨床シリース12 いのちを巡る臨床 生と死のあわいに生きる臨床の叡智』(共編著,創元社,2018),『家族心理学ハンドブック』(共編著,金子書房,2019),『ライフステージを臨床的に理解する心理アセスメント』(編著,金子書房,2021),『心理臨床実践において「伝える」こと―セラピストのこころの涵養』(福村出版,2024),『心理臨床に生きるスーパーヴィジョン その発展と実践』(共編著,日本評論社,2024),『新版 ロールシャッハ法解説』(共編著,福村出版,2025),『心理臨床における「見立て」』(監修著,福村出版,2025)ほか