串崎真志(関西大学文学部)
シンリンラボ 第21号(2024年12月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.21(2024, Dec.)
私は,平日は大学で心理学を教えたり研究を指導しているが,2018年からNPO法人を設立し,日曜日はカウンセラーとして相談活動を続けている。ありがたいことに好評で,多くの人に利用していただき,自分の性に合っていると感じる。私は資格をもたないので,シンリシと言ってよいかわからないが,編集部の許しを得たので,人生をふりかえってみたい。
1.幼少期
私は1970年に山口県下関市で生まれ,福岡県古賀町で過ごした。幼少期は極度に内向的で,人に関心がないわけではないが,どう話していいのかわからず,友達はいなかった。心配性な性格は母親(主婦)譲り,凝り性なところは父親(建築士)を受け継いだと思う。おのずと一人遊びが多く,折り紙やブロックで世界を表現するのが好きだった。新しい場面になかなか適応できず,頑固な子どもだった。今なら繊細さん(HSP)と呼ばれるだろう。カトリック系の幼稚園に通っていて,その教会のステンドグラスの美しさと,近所にあった砂浜,そして松林の風景を気に入っていた。
2.小学校
小学校に上がると岡山市に引っ越した。運動は音痴だったが,音楽が好きだったので音楽教室に通い,熱心に練習した。しかし,大きなホールで発表会があることを知ると,「それには出ない」と言い張り,親や教師を困らせたらしい。今となっては「何のための練習なのか」と思うのだが,発表会当日も予告通り欠席した。数年前,この音楽教室の同級生と縁あって大阪で再会し,意気投合した。私が発表会に来なかったことについては,彼も子ども心に不思議に思ったようだ。私は不思議な子どもであった。
なにより怖がりだった。周りは田んぼという田舎で暮らしていたので,夜は真っ暗。薄いガラスの向こうに闇夜を覗くと,何者かが覗き返しているような気配を感じた。母親は見えない何かを見える能力があったらしく,散歩している犬を見て,「もうすぐ弱っていくかもしれない」と言ったりした。私は毎日,布団を頭から被って寝た。学校の授業は,とにかく人と同じことを人と同じペースでするのがいやだったが,自由研究は大好きで,何時間も取り組んだ。じつはこのころ「潔癖症」がひどくなり,他人が自分の持ち物などを触ると,なんとも言えない不安に陥った。このときプレイセラピーを受けていれば,人生は違ったかもしれない。しかし,1970年代の田舎ということもあって,両親も教師もカウンセリングを知らなかった。
3.中学校
中学1年生になった私は,「潔癖症」を自分で治すことにした。「汚い」と思っても,じたばたせずに,あえてそれに浸るようにした。「大丈夫だ,問題ない」と心の中で唱えた。そうすると居心地は悪いが,少しずつ落ち着いてくる。それを1週間ほど徹底して実行すると,イライラする必要がなくなり,文字通り気持ちが楽になった。治ったのである。しかしその反動で(かどうかはわからないが),勉強が頭に入らなくなってしまった。脳が勉強を受け付けなくなったらしい。偏差値70ほどあった成績は急落した。それでも,私は気にしなかった。世界が楽しくなったことのほうが,大切だったのである。ジャズ音楽を聴き始めたのもこのころで,生涯の友となる同級生たちにも出会った。
4.高校
高校生活は楽しかったが,ときどき,なんとも言えない孤独感にとつぜん襲われた。今なら,心の中の真っ暗な闇を,自分で覗き込んでいるような感覚だと言うだろう。この寂しい気持ちには,解決策があった。「この人は安心」という誰かと一緒にいると,不思議と解消できたのだ。当時,「倫理」の科目を教えてくれた森口章先生には,心から感謝したい。彼の授業は,私にとって心の糧だった。彼は教育相談の担当でもあったが,私はその扉を叩く勇気がなかった。その代わり,ときどき教育相談室の周りをウロウロした。それだけで気分が穏やかになるのだから,人間の心というのは興味深い。その「倫理」の授業のなかで,心理学という言葉を知り,大学では哲学か心理学を勉強しようと考えた。ちなみに,このとき「漢文」を教えてくれた池本しおり先生は,25年後に臨床心理士になったという。不思議なつながりを感じる。
5.大学
受験の成績は低迷したまま,浪人はできなかったので,愛媛大学法文学部に進学した。寂しさに包まれる体験は,大学時代も続いていた。そんなとき私は,教養部にいた中村雅彦先生(社会心理学)や,教育学部の福井康之先生(臨床心理学)の研究室を予約なしで訪れ,書棚にある本を拝見するという名目で,しばらく居させてもらった。先生がたは本当に迷惑だったことだろう。しかし彼らは黙って,ときにはコーヒーを淹れてくれて,根掘り葉掘り質問するわけでもなく,ただ一緒に過ごしてくれた。これがどれほど,ありがたかったことか。私はこの体験をカウンセリングの奥義と考え,のちに30歳で大学教員になると,自分も同じように研究室を学生たちの居場所として開放した。
6.心理学から臨床心理学へ
法文学部の心理学は動物のオペラント条件づけを実験していて,当時の私は興味をもてなかった。教養部を終えて専門課程に移行するぎりぎりまで,哲学か社会学か心理学かを迷ったが,上記の体験もあり,心理学専攻にした。このころから,私はむしろ教育学部に出入りするようになり,授業にこっそり出るようになっていた。福井康之先生は,あるときこう言った。「串崎君はセンスがいいから,大学院で臨床心理学を勉強したらどうか」。先生にとっては,毎回,暗い面持ちで訪れる私を,慰めたかっただけかもしれない。しかし私には,それを真に受けるだけの素直さがあった。この言葉をきっかけに,私は大学院を目指した。
7.大学院
1993年当時,臨床心理士の資格はできていたが,臨床心理学を学べる大学院はごく限られていた。私はあちこち受験し,合格した大学院もあったが,親戚のほとんどが関西在住ということもあり,一浪して大阪大学の人間科学研究科を目指すことにした。猛勉強して翌年,入学できたが,ここで私の極端な性格が発揮される。大好きだったジャズを聴くのを辞めてしまったのだ。「音楽を封印しないと,勉強に打ち込めない」と勝手に思い込み,貴重なCDもすべて捨ててしまった。今から思えば,ふつうに両立できるはずなのだが……。ところで,当時の大阪大学は倉光修先生と,しばらくして老松克博先生が着任され,ユング心理学をベースにしていた。私は「やっと臨床心理学を勉強できる」という喜びもあって,多くのことを学び,臨床のアルバイトもたくさんした。しかし,必死になりすぎて燃え尽きたのだろう。あるとき急に,臨床心理学をいやになってしまった。博士後期課程2年のときである。
8.臨床心理学から民俗学へ
大阪大学文学部には,小松和彦先生という民俗学・文化人類学の先生がいた。私はたまたま彼の著書を読んで,「異界」というワードに惹かれた。ここで再び,私の極端な性格が発揮されることになる。小松先生に手紙を書いて,転専攻できないかと相談した。文学部の校舎で会ったとき,彼は「京都の国際日本文化研究センターに,河合隼雄所長に招かれて異動することになった」と言う。私は意気消沈したが,大学院生を国立研究機関で交換するという内地留学(特別共同利用研究員)の制度があることを見つけた。ただし,応募するには指導教官の押印が必要だ。倉光先生はとつぜんの申し出に仰天しつつ,今から思えば,そのような自己中心的な学生は破門されて当然だろうが,最終的には「河合先生にも言っておくから頑張っておいで」と励ましてくれた。倉光先生の寛大な心に,私は救われた。
9.日文研からシンリシへ
国際日本文化研究センター(日文研)では,「妖怪」の図像学的研究(「怪異・妖怪伝承データベース」の製作)にかかわった。のめり込みすぎて,大阪大学を修了したのち,日文研(総合研究大学院大学)の入学試験を受けて,大学院生として入り直したぐらいであった。指導教官には小松先生の他に,(指導はなかったが)河合隼雄所長と井上章一先生(建築史・風俗研究)も名を連ねてくれた。最初は,民俗学者になろうと本気で考えていた。しかし,すぐにそのセンスがないことに気づいた。経済的には臨床のアルバイトを続ける必要があり,臨床心理士の資格を得たこともあって,臨床の時間はむしろ増えていった。私は考えたすえに日文研を退学し,たまたま応募した同志社女子大学で児童心理学の専任講師として採用された。30歳のときだった。
ふりかえると,「こうしてシンリシになった」というより,私は「こんなクライエントだった」というべき迷路である。おそらく,自分の感性を素直に発揮できることが私の臨床には大切で,そのための回り道だったのだろう。この後の紆余曲折については,別の機会に譲りたい。
串崎 真志(くしざき・まさし)
所属:関西大学文学部教授、心理学研究科長
資格:なし
主な著書:『感じるココロの不思議』(木立の文庫,2024)など
趣味:文鳥の飼育