布柴靖枝(文教大学)
シンリンラボ 第20号(2024年11月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.20 (2024, Nov.)
1.はじめに
大きなお題をいただき,半生を振り返ってみた。さまざまな方との出会いが今の自分を作り,多くのクライエントが私をシンリシにさせてくれた,と改めて思う。私は遠回りしてシンリシになった。かつ,シンリシという仕事をこよなく愛しつつ,それは私の一部であって,すべてではないと思っている。こんな私がこの原稿を引き受けていいのかという迷いもあったが,10人いたら10通りのシンリシの在り方もあってもいいかと思い直し,僭越ながら執筆させていただくことにした。
2.子どもの頃
幼い頃から,ドアの取手が多くの人や家人に触れられ,つるりとテカっているのを見ては,「どんな人が,どんな気持ちでこのドアをあけたのだろう」と想像することが好きな子どもであった。想像するだけでワクワクして夢想にひたっていた。そんなある日,小学生の担任の話を聞き,なぜか私はあと1年で死んでしまう,と思い込み,小学校6年生にて期せずして自分自身の死と向き合うことになった。元気そうに無邪気に遊んでいる他の子どもをみるとキラキラ輝いて見えたことを鮮明に覚えている。今から思えば全くもって心気症的な思い込みであったが,当時の私は真剣だった。いのちを与えられたことの素晴らしさを子ども心に深く刻み込む体験となった。まだ死にたくないと思った私は,毎晩,神様にお祈りした,「もっと長生きさせてください。神様のお手伝いをなんでもします」と。そうこうするうちに,いつまでたっても死ぬ気配もなく,いつの間にかその厄介な思い込みは消えていった。しかし,その時の神様との約束は,いつも心の内にある。
この頃から,対人援助職に就きたい思いが強くなり,大学進学を決めた。ところが,戦中を生きてきた父親に「女は短大で十分,4年生大学に行ったら嫁の貰い手がなくなる」と言われ反対された。父の反対を押し切って応援してくれたのが母だった。母は私を21歳の若さで産み,結局,経済的自立の夢が叶わなかった人であった。母の夢も託されて,母の分まで2倍仕事に打ち込み働いてきたように思う。まだまだ男性が働き,女性は家事育児に専念するという性別役割分業意識が色濃く残る社会の中で,専門職に就き,自立(自律)したいと強く思ったのもこの頃である。
3.家族支援の大切さに目覚める
大学に入学してから,すぐに,障害をもつ子どもを支援するボランティアサークルに入った。当時は京都のお寺が学生向けに合宿所を提供してくれており,夜遅くまで寝食を忘れて議論をしたのを懐かしく思い出す。4年生からはラッキーなことに特例で実習生として京都の葵橋ファミリークリニックで,臨床ソーシャル・ワーカーのデッソー先生に師事した松本律子先生から精神分析的アプローチと遊戯療法の逐語録を用いたスーパーヴィジョンを毎週受ける機会を得た。松本先生は禅宗で顕正された先生でもあったことから,心理的なことを超えた精神性にも深く触れるお話を沢山聞かせていただき,以来10年近く,渡米するまでトレーニングを受ける機会を得,今でも私のゆるぎない心の基盤になっている。
大学卒業後は,神戸市で福祉分野の専門職として働くことになった。そこで私が支援することになったのが経済的に困窮し,多問題を抱えている家族だった。経済大国といわれ,巷には物が溢れている片隅で,最低限度の生活を強いられた家族と出会うと,重い過去と厳しい現在,先がみえない未来,そして生と死がそこに混在するような感覚に何度も襲われた。そういう現実を目の当たりにして,何もできない自身の無力感に打ちのめされたことを思い出す。支援者としての限界が,クライエントの可能性を拓くことを阻む要因にならないように,さまざまな視点から支援できる人になりたいと強く願ったのもこの時である。その時に藁をもつかむ気持ちで学んだのが,当時,まだ日本に紹介されたばかりの家族療法であった。手探りで学び,実践すると今までのアプローチでは八方ふさがりだった多問題家族のケースが動き出すのを体験した。家族が救われないと,本当の意味で子どもも救われないと,家族療法をもっと学びたいという気持ちが強くなった。そうこうしているうちに夫の研究に伴って私も一緒に渡米することになった。
4.アメリカで家族療法のトレーニングを受ける
アメリカ・ボストンでは,今は亡き中釜洋子先生(元東大教授)と出会うことになった。当時,私たちは30代になったばかりで,ハーバード大学精神科の研修機関となっていたケンブリッジ病院のカップル・ファミリーセンターで一緒に家族療法のトレーニングを受けることになった。中釜先生は,当時からジェンダーや,社会の不公正にも感受性を高くもっておられた。一緒に自らのジェノグラムを分析したり,日本人留学生のカウンセリングをしたり,まさに異文化の中でのかけがえのない同志といえる存在であった。中釜先生は,残念なことに早世されてしまわれたが,中釜先生が当時,関心をもっておられたジェンダーの問題を今,私自身がライフワークとして取り組んでいるのも不思議な必然性を感じている。ボストンでは,日本の家族研究をされていたスー・ボーゲル先生にも大変お世話になった。そうこうしつつ,アメリカで修士号をとり,この時点で本格的に心理職として活動することになった。
5.帰国して──
夫の仕事に伴い,仙台に帰国することになった。仙台は誰も知り合いがおらず,困っていたところ,スー・ボーゲル先生が仙台にいる出村和子先生を紹介してくださった。出村先生は,仙台いのちの電話をはじめ,東北6県にいのちの電話を設立された先生で,とてもソーシャルアクションに長けた先生であった。その先生との出会いの中でDICT統合カウンセリング研究所注1)をはじめることになり,そこで私設心理(開業)に20年以上携わることになり,家族療法の普及や,国内外から著名な先生をお招きして講座を開講し,多職種専門家の方々との交流や連携を取りながら,シンリシとしての力を磨きつつ,また組織の運営,経営などの学びをさせていただいた。
注1)DICT統合カウンセリング研究所は,個人・家族へのカウンセリング,心理・福祉・教育・医療などの分野で対人援助に関わる方向けの公開講座などを提供してきた。現在は一般社団法人DICTネットワーキング研究会と名称変更をして,家族支援にあたる専門家向けの講座やSVを実施している。
6.もう一度,チャレンジ
家族療法に一心に取り組んで20数年たち,今までの自身の心理臨床を振り返りたい気持ちと共にもう一度,個人療法とスーパーヴィジョンを深めたい気持ちが強くなり,京都大学大学院博士後期課程(実践指導学講座)に進学することになった。働きながら,毎週,仙台と京都を往復する日々が3年間続いたが,皆藤章先生,高橋靖恵先生方の指導を受ける機会を得,異なるパラダイムである家族療法と個人療法の自分なりの統合を試み,若い研究者に交じって博士号を取得することができた。
7.国連で人権問題に取り組む
家族の問題を取り扱い,カップルセラピーや家族療法をしていると,家族(関係)は,社会の縮図であることを感じることが多々ある。家族の苦しみは社会のひずみを受けていると感じることも多く,社会に目を向けていく機会も増えていった。私自身が最初の職場で出会った貧困の再生産の中で苦しむ家族のように,社会の中で周縁化され,社会的脆弱性を抱えてきた人々への思いはいつも胸の内にある。今は,DVやセクハラ(ハラスメント全般)等のジェンダーを基に生じる暴力の支援に取り組み,国連に諮問的地位のあるNGO/NPOの活動も並行して行っている。2016-17年に民間女性代表として,かつて緒方貞子さん(元国連難民高等弁務官)も務められた国連総会の日本政府代表顧問に選ばれ,NYの国連総会の世界の人権状況を討議する第三委員会に出席し,児童の権利,女性の地位向上,社会開発(貧困問題など)のステートメントを出す貴重な機会を得た。世界の人権状況を目の当たりにして,衝撃を受けると同時に,各国のステートメントや利害が対立する国々の答弁権行使などの状況をみて,国連の会議の進め方が家族療法とよく似ていると大変興味深く思った。ちなみに日本のジェンダーギャップ(男女格差)指数は世界経済フォーラム(2024)によると146か国中118位である。母子家庭の相対的貧困率も約40-50%。男女の賃金格差も約20%あり,先進諸国の中でもほぼ最下位という惨憺たる数字である。海外の会議に参加すると世界第4位の経済大国と言われている日本が,いまだにそのような状況であることに驚かれる。私は,大学で教鞭をとりつつ,カウンセリングに加え,社会的弱者のアドボカシ―活動も国内外で続けている。シンリシという枠にはいりきらない仕事もしつつ,今もなお,子どもの頃,約束したことを胸に,取り組むべき課題は山積と思って過ごしている。
布柴靖枝(ぬのしば・やすえ)
京都大学博士(教育学)
文教大学人間科学部臨床心理学科教授,日本家族心理学会理事,認定NPO法人日本BPW連合会副理事,国連NGO国内女性委員会副委員長,内閣府男女共同参画推進連携会議議員,埼玉県男女共同参画審議会会長,一般社団法人DICTネットワーキング研究会共同代表理事(2024年10月1日現在)
資格:臨床心理士,公認心理師,家族心理士,社会福祉士,上級教育カウンセラー