板東充彦(跡見学園女子大学)
シンリンラボ 第19号(2024年10月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.19(2024, Oct.)
1.法学からインドを経由して臨床心理学へ
私は高校生の頃,現実感に欠ける観念的な若者だった。日常生活を送ることさえ苦労していたにも関わらず,「環境庁(現:環境省)に入り,ミルクコーヒーのように濁った東京湾をきれいにして,将来は内閣総理大臣になって世界の国境をなくし,平和な世界を築きたい」などと考えていた。そして,国家公務員になるためには法学部で学ぶのが良さそうだという情報を得て,法学部に進学した。
実際,法律に興味はなかったので,法学を修得することはできなかった。でも,ゼミで学んだ政治学は面白かった。対人関係の悩みを抱えていたので,当時よく読まれていた『24人のビリーミリガン』(堀内静子訳,早川書房,1992年)や『シーラという子』(入江真佐子訳,早川書房,1996年)など心理学関連の一般書を好んで読んだ。2年間,自閉症者の通所施設でボランティアも経験した。
この頃の私は,自分のことで精一杯だったように思う。「自分の人生は,もう少し何とかならないだろうか」と思案する中で,バックパッカーとしてアジア諸国を放浪する機会を得た。インドとネパールへ6週間の一人旅。チベット人の先生からヒンディー語を学んだ後で,現地の人たちと関わることを目指した北インドへの3カ月の滞在。これらが強烈な異文化体験であり,貴重な財産になったことを知るのは,後にシンリシになってからのことである。
私は当時,「ノリの良い人が仲間として認めてもらえる」ような日本の若者文化が嫌だった。インドの人たちは我が強かったが,反面素朴で,私は彼らとつき合うのが気楽で楽しかった。いっそのことインドへ移住したいと思ったが,計画がずさんだったために手ひどい挫折をして,帰国することになった。ある友人が「板東君はカウンセラーになったらいいんじゃない?」と言ってくれたのはその頃,私が24歳のときだった。
2.北の町から南の町へ──トレーニングの開始
人の心にはずっと関心を抱いていた。悩みを抱える友人たちと話す中で,自分もいくらか人の役に立てる場面があった。大学の同級生たちはもう社会の荒波を経験し始めている頃だったが,私はようやく,自分が社会の役に立てる場所を一つ見つけたような感触を得ることができた。
(当時は意識していなかったが)恐らく子どもの頃から,そして現在に至るまで一貫して私にあるのは,「人の役に立ちたい」「社会の役に立ちたい」という強い気持ちである。それは私の気質によるものだろう。若いときの貴重な時間とエネルギーを費やして随分と遠回りをし,初めて実感をもって「自分にできること」にぶつかった気がした。
当時,臨床心理学の地域差は「西高東低」と言われ,私が住んでいた北(=東)の町では学ぶことができなかった。そのため,単身南の町へ飛び,聴講生になることから臨床心理学の学びを開始した。幸い3回目の受験で大学院の入学試験に合格し,養成課程をスタートすることができた。
初学者としてのトレーニングを九州大学で受けられたのは幸運だった。九州の臨床心理学は,実践を重んじる風土が特徴である。「どうすれば対象者のお役に立てるか」を愚直に考え,そのために可能な方法を懸命に探す。養成課程ではさまざまなオリエンテーションの先生方から指導を受けることができた。また,携わる現場に応じて,力動的精神療法,来談者中心療法,認知行動療法,スクール・カウンセリング,グループ・アプローチ,産業心理学等,OJTを含めると10人以上のスーパーバイザーから個人指導を受けた。
修士論文ではひきこもりのセルフヘルプ・グループへの所属過程を調査し,博士課程1年生のときに自らサポートグループを立ち上げた。対人関係が苦手な人たちへの関心は私のシンリシとしての出発点だったけれども,将来仕事をしたい分野について確固とした目標はもっていなかった。しかし迷いはなく,ともかく貪欲に,人のお役に立てるようになるための有効な技術と知識を身につけることに努めた。
3.シンリシとしての価値観と方向性
1)心理アセスメントのコンプレックス
シンリシとしての悩みの一つは,心理アセスメントが苦手だったことである。もう少し具体的に言うと,「専門用語を使ってきれいな心理的解釈をすること」ができなかった。後輩たちが流麗な言葉遣いで心理学的な説明をするのを聞くと,私はコンプレックスを感じた。そのため,さまざまな文献を読んで専門用語の吸収に努めたのだが,やがて(前向きに?)諦めることになった。
私は今でも,ぼてぼてとした不器用な心理学的説明しかできない。しかし,それでも良いと思えるようになったのは,「とは言え,お役に立てる」ことが実践の積み重ねを通してだんだん分かってきたからである。指導教員から教わった体験過程療法(フォーカシング)には言語化を焦らないことの重要性が含まれているが,それが自分の実感として腑に落ちるまでのプロセスだったのかもしれない。自分の実感あるいは体感を重視することは,シンリシとしての私の価値観であり,研究者よりも実践家としてのアイデンティティが強い部分だろうと思っている。
2)グレーゾーンの過ごし方
また,ひきこもりのサポートグループを立ち上げ,セルフヘルプ・グループ代表者たちと地域で関わる中で,公と私のグレーゾーンで対象者と関わる機会が増えた。私が「境界」に関心があることに気づいたのは,このプロセスの途中である。面接室の内部と外部,シンリシとしての自分と生活者としての自分,セラピストとクライエント,病気と健康,臨床心理学と近隣の学問領域,科学と非科学等の境界である。「境界なんて,所詮人間が作っただけのものにすぎない」という認識が現在の私にはある。「そんなものに振り回されてどうする?」と思うこともある(あまり言うと誰かに怒られそうなので,大きな声では言わないが……)。
もちろん,事象を切り分けて境界を設定することで文明は発展するのだし,それが必要なことを疑いはしない。面接室でセラピストの役割が明確化されているから有効な支援ができることも十分に知っている。しかし,これらは全て人工物である。それが人や社会に対して役に立つから,私たちは人工物を生産し,利用してきたはずである。逆に言うと,もしそれ以上に人と社会に役に立つ方法があるのならば,これらの人工的な境界線は改変されて良いものであろう。
私のシンリシとしての土台は,「当たり前を疑う」境界線上に築かれている。この認識に至ったのも,心理臨床実践の積み重ねによるものである。すなわち,白黒の二分法では解決に至れない困難事例は,グレーゾーンに据え置かれることが多いのである。そのグレーゾーンの過ごし方に,シンリシの個性は現れるのではないだろうか。
4.人と社会の役に立つ
私は大学院生の頃にふと,「留まる心理療法」という言い方を思いついたことがある。その後,認知行動療法のスーパーバイザーからマインドフルネス法を学び,今では私の生活における基本的な構えおよび生活の指針となっている。体験過程療法もマインドフルネス法も,グレーゾーンあるいは境界域に留まることを助けてくれる。解答を焦らずに留まっていると,時間の進行とともに周囲は変化していき,そこで起きている事象が見えてくる。つまり,アセスメントが進む。
私は,コントロール志向のシンリシではないのだろう。自分のことに精一杯で必死に生きてきたのだが,何をやってもうまくいかなかったから,コントロールすることを諦めたのだろうか。「諦めた方が良いかもしれない」と学んだのは一体いつだったのだろう。夢を抱いてインドへ行き,インド半島最南端の町で高熱を出し,安宿のベッドで虚ろに横たわっていたときだろうか。良かれと思って懸命に関わったにも関わらず,その対象者を深く傷つけてしまったときだろうか。マインドフルネスの意味が全く分からず,教わって2年経ってからようやく「観察する」ことの意味を実感できたときだろうか。
臨床心理士の資格を取得してから20年が経った。多くのことが変わったが,落ち着いて来し方を振り返ると,変わらないものがあることも分かる。どうやら,「人と社会の役に立ちたい」という気持ちには変化がないようだ。
若いときの紆余曲折の後,臨床心理学の学びにたどり着けたのは幸せなことだった。臨床心理学が万能とは言わないが,人と社会に対して貢献できる学問として私は大いに信頼している。ただし,臨床心理学も貴重な道具の一つにすぎない。人や社会が元気になるために有効なのは,他にも医学・教育学・福祉学・社会学・文化人類学等さまざまな学問があるし,何より私たち一人ひとりの存在がかけがえのない道具である。
私はシンリシとしての道を歩む過程でこのような価値観を得ることになったのだが,私のシンリシとしての境界は年々ぼやけてきている感じもする。私は,それでも構わない。現在,臨床心理学の社会貢献を目指してさらに学びたいと思っているのは「政治心理学」という分野である。……ああ,そうか。そう言えば「国境」もまた人工的に作られたものにすぎないな,という気づきを得て,本稿を閉じたいと思う。
板東充彦(ばんどう・みちひこ)
跡見学園女子大学心理学部教授
資格:公認心理師,臨床心理士。
1997年,北海道大学法学部卒業,2006年,九州大学大学院人間環境学府人間共生システム専攻心理臨床学コース博士課程単位取得満期退学,2009年,博士号(心理学)取得。
研究テーマは,ひきこもりのグループ・アプローチ。コミュニティ心理臨床。
主な著書:『ひきこもりと関わる』(遠見書房,2022)