荒川ゆかり(島根大学)
シンリンラボ 第41号(2026年8月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.41 (2026, Aug.)
1月25日(木):派遣が決まるまで
県道までの数十メートルを近所の人と雪かきをした後,スコップを車に乗せて仕事に向かった。私の住むこの谷も空き家が増え,力仕事も女性ばかりになって来たな,と感じる。豪雪地帯ではないこの地でも,今度の雪はかなりの積雪となった。
東北の冬は,雪より刺すような寒さがすごかったなと思い出していると,東方からの電話があった。文部科学省の方からだった。
「能登に行ってほしい,雪道の運転はできますか?」
「今日も雪かきしてから仕事に行ってますから,大丈夫ですよ」と笑って答えた。
私は当時,島根県臨床心理士・公認心理師協会で副会長として,災害支援に奔走していた。
東日本大震災での派遣を機に,県士会の被害者支援担当理事や災害支援コーディネーターとして熊本地震や県内災害の対応を務めてきたこともあり,今回も支援の窓口となっていたからだ。
2024年1月1日の発災以来,県士会では7日には会員向け「災害支援を語る会」を行い,それぞれの体験や思いを共有して,勉強会も少しずつ行っていた。16日には,被災地から帰還した県立こころの医療センターを中心とした島根県DPATとの情報共有会に参加した。
こうした集まりは,コロナ禍を経て定着したオンラインの会議で行われる。東西に長い島根県にとって,距離を超えて顔を合わせられるシステムは強い支えになっていた。
日本臨床心理士会からの派遣候補者を出して欲しいという連絡から,MLで呼びかけもしていた。今回は今までにない発災1カ月以内の派遣でもあり,私の判断で「今回は健康に不安がない経験者が先に行ってほしい」と呼びかけた。急な調整でもあり22日の締切には,私の名前だけを記して提出していた。
25日の夜は以前から予定していた被災地支援の勉強会で,私は仲間に29日からの派遣が決まったと伝えた。オンライン越しでも,私の落ち着かなさを察したのか,派遣経験のある人が問いかけてきた。
「バックアップの人は考えてるの?」
「熊本の時に付いてくれた西部の先生に頼もうと思ってる」
島根県では,派遣者に県内緊急支援の経験があるベテランなどが「バックアップ役」になる体制をとっている。(バックアップ役になってあげようか?というつもりで声かけてくださったのかも。ありがとうございます。)
かつて熊本を支援するとき,ストレスから全身蕁麻疹になってしまった私のバックアップを務めてくれたのが彼女だった。今回もメールをしたらすぐに快諾の返信が届いた。
ここ10数年の県士会の成果として,支えようとしてくれる仲間が沢山いることがうれしかった。
1月26日(金)〜28日(日):調整と準備
スクールカウンセラー派遣活動のいちばんの壁は,日常の仕事の調整だ。
私は二つの県をまたいでSCをしている。どちらとも小規模な学校が多く,私たちは複数の学校を掛け持ちして生計をたてている。毎日どころか午前午後と,違う学校に行くことも珍しくない。
片方の県教委にいる常勤SCから「大変だろうから勤務校には連絡を入れておくよ。派遣が終わってから県教委に連絡してね」というあたたかい言葉をもらった。
対してもう片方の県の担当者からは「配置校全部に連絡を入れてください」と言われた。
「え? 日程にかからない学校もってことですか?」
「はい。迷惑をかけるかもしれないでしょ。」
慌ただしい金曜日の午後,私は次々と各校へ連絡を入れることとなった。
こういう対応の違いは悪意があるものではないと,頭ではわかっている。わかっているけど,でも「迷惑ってなんだろう」と,割り切れない思いが残った。
それでも準備は進む。
東日本の派遣で6年間,年4,5回東北に通い,今は隠岐の島の高校へ月1回出張を続けている私は「旅するカウンセラー」。今回は,宿泊施設だからタオルや歯ブラシは要るな,モバイルの状況が悪いならこれも要るな,服装はこれがいいな,と要領よく準備していった。
それでも次々と届くメールへの対応や下調べ,情報共有ツールの準備に追われ,興奮も手伝ってか,27日まではほとんど寝れない日が続いた。
28日,日本スクールカウンセラー協会のオンライン研修を受けた後,すぐに電車に飛び乗ってまずは新大阪に。明日の朝一のサンダーバードで石川県入りする。
まずはここでしっかりと眠りにつくことにした。
1月29日(月)初日:計画と現実
高速の特急サンダーバードは湖西線をすぎると,トンネルの間に見える車窓の景色は,次第に雪の白さが目立つようになった。
金沢駅で,他県から派遣されたSC3人が集合した。ここからは文科省が予約してくれたレンタカー2台に分乗し,まずは羽咋市を目指す。
能登里山海道は,冬の日本海を左手に眺めながら進む,雪のないまっすぐな道だった。同乗したI先生と交代しながらハンドルを握り,慣れない車を走らせること1時間半。宿泊拠点となる『青少年交流の家』に到着した。
そこでは,同じ能登町を担当するT先生が今か今かと待っておられた。1台は別方面へ,私を含めたT先生,I先生の3人で,1台の車に乗り込んで奥能登へと向かった。
羽咋を出発してからは,より地震の影響がある地域に入る。液状化やガレキで時々ガタガタになっている道を確認しながら進む。



奥能登はトイレが使えないという情報があり,「トイレマップ」を頼りに穴水町で一度休憩をとった。
周囲には,災害支援車両であることを示すステッカーを貼った大型トラックが並んでいる。
ようやく役場へ到着したのは,羽咋から実に3時間後だった。金沢を出てからは4時間半かかったことになる。
役場の階段を3階へと上がると,廊下の半分にはマットが敷かれ,DMATやDPAT待機場所になっていた。疲れて横になっている人とは目を合わせないようにして,支援物資の横をすり抜けるようにして室内に入った。
そこでオンラインで文科省の人も交え,教委の方と活動について打ち合わせが始まった。
提示された金曜日までの活動プランを見て私は考え込んでしまった。
それは朝早くから午前と午後で別の学校へ訪問し,昼休憩は1時間というものだった。能登町まで片道3時間かかった上で,1時間の昼休憩で移動と昼食ができるだろうか。
私は用意してきた,自分がプリントアウトした能登町の地図を広げた。
実は,島根県の書店を回ったが,松江市が珠洲市と姉妹都市で職員派遣もあったせいか,探しても書店には冊子の道路地図をわずかに残すのみで,本当は1枚の大きな石川県地図が欲しかった。
A4地図を見る限りだと,能登町は役場を中心にして,学校が周辺に点在している。縮尺がわかりにくいけれど,結構距離があるように見える。地元の方は,優しい笑顔で「ここから(学校へ)15分で行ったことがあるんですよ」と言う。
私にはこの感じは既視感がある。
『田舎の15分は,実際は30分くらいかかるものだ』
信号が少ないからか,風景が変わらないせいか,時間感覚を狂わせる何かがある。なにせ私も島根では言ってしまうことがあるからよくわかる。(これって何という心理学的現象でしょうか)
この計画自体が,まだ現場の状況がつかめないとき,文科省でごく初期に作られたものではないだろうか。
心の中で「新幹線の通る場所にいる人には,この距離感はピンと来ないだろうね」と,田舎者のやっかみ100%でつぶやいた。
状況がよく分からないときに,心理の専門家がするべきことは,まず『アセスメント』だ。支援の枠組みが現実の問題と乖離していれば,どんなにいい支援でも機能しない。
「一度,短時間でもいいから,私たちの目で見て確認したいです」と言ってみた。
「移動経路は安全か,学校の被害状況は伝え聞いた通りか,私たちの目で見て,予定を組みたいです」ドキドキしながらの提案だったが,あっさりと通った。
道中の長い時間を過ごし,語り合ったことで,派遣カウンセラー3人は,被災地支援の経験もあるベテランが揃っているとわかっていた。
明日,9校を1人3校ずつ手分けして短時間訪問し,役場に戻って話し合って,その後の日程を組むという計画をたてた。
その後,「一番影響を受けた学校を見学しませんか」と言ってくださり,案内していただいて移動した。(やっぱり15分では着けなかった)
避難所と小学校が同居している中学校を訪問させていただいた。
校舎前の道の片側にはすき間なく車が駐車され,広々としていたはずの駐車場には自衛隊の入浴用テントや仮設トイレなどが並んでいた。
生活も勉強も,この場所で行われるのだ。
校舎の中の教室では「学校という日常」が維持されていて,その光景に私は少しだけ安堵を覚えた。
帰路の車中では毎日オンラインで,文科省や日本臨床心理士会などの支援団体が集まるオンライン報告会に参加した。
今回は文科省のコーディネートであることも,3つの市町に分かれて活動するのも初の試みだった。他地域のチームの報告を聴くたびに,被災状況や支援内容の違いに不安を覚えることもあった。
それでも,オンラインを切った後,車中では「私たちが一番,報告がシンプルでカッコよくなかった?」と笑い合えた。
他地域の奮闘も痛いほど伝わってきたけれど,「この3人で良かった」と思った。
拠点の交流の家に戻ると,オンライン越しで話していた他チームの仲間たちが,温かく迎え入れてくれた。
早朝から移動ばかりの日だったが,これからも毎日往復6時間の運転が続く。
ちなみに石川県では3月16日に北陸新幹線の金沢—敦賀間が開通した。
1月30日(火)2日目:立山連峰と祭り

「これは現実の風景ですか?」
教育事務所の先生が連れて行ってくださる学校までの海岸沿いの道は,ところどころ液状化していて波打っていたが,通行に支障はなかった。
能登町から見る立山連峰は,世界でもまれな絶景。海越しに,雪化粧した3000メートル級の山々が視界の端から端まで連なっている。白く光る山々の美しさは別世界のようだった。
ギリギリまで,3人で学校をみたてるためのアセスメント項目を議論していたが,次々と気になることが出てきて,まとめることができなかった。それぞれを信じて自分なりのアセスメントをするしかない,という状況になっていたのだが,「大事なことを聞き忘れちゃったら困るな〜」と思うほど,この美しさが緊張を和らげてくれた。
地元教委の細やかな調整のおかげで,各校の管理職の先生から,学校の状況や生徒の様子を聴くことができた。生徒たちの様子,先生方の心労,そして避難所と共存する学校の日常。
ある学校では玄関が2つに分けられ,教室と避難所のルート分けがきちんとされていたが,別の学校では授業中の廊下を作業着の人が通り過ぎていくのも見かけた。学校という日常を維持する大変さを感じられた。
印象的だったのは,どの学校にも地域のお祭りの飾りや写真があったことだ。

ある学校の昇降口に飾られた子どもたちが描いた武者絵。1年から6年生にかけて,緻密で躍動感あふれるものへと上達していく。この地域では祭りで武者絵が使われるので,絵がうまいことがステイタスで,子どもたちは競って絵がうまくなるのだそうだ。
能登は祭りの町だ。とも旗祭り,あえのこと,キリコ祭り,にわか祭り……
私が地元で担当している日本海沿いの町も,集落ごとに祭りが息づくところだ。風景が似れば,文化も似るものなのだろうかと考えながら見せていただいた。
役場に集合し担当する全部の学校の状況を共有し,明日以降の予定をたて,交流の家への帰路についた。
車中で2月の「あまめはぎ」は中止だという話題になった。怠け者をいさめる鬼の祭り。「ひきこもり支援にいい祭りだね」と笑いあった。なんだか重みのある笑いだったのは,私たちが,「動けずにいる人々」に出会ってきてたからだろう。
まるきり別の地域で仕事をしてきたけれど,私たちは同じ心理の仕事に向き合ってきた同志なんだなと思えた。
1月31日(水)3日目:支援者として
以前経験した熊本地震の派遣で心残りだったことがある。それは地元SCにほとんど会うことができなかったことだった。
今回はそのことを胸において,私が現地SCの先生方と会ってみようと計画をたてた。
午前にお会いした地元SCの先生は「もう年だから」と語られた。準ずる方(臨床心理士公認心理師は持っていない)ではあったが民間の資格を沢山取られ,長年この地域の学校を受け持っておられた。

先生の自宅は片付けがままならず,オンラインの研修を受ける環境すらないという。高齢のご家族を避難所に預ける30分間だけ学校にきて,勤務校の電話相談に応じておられた。
「明日からは他の学校にも少しは行けると思う」と話す先生は,どこか力なくみえた。
先生の体験した辛さを聴くということもできるかもしれないけれど,この目の前にいる先生には何かが違う気がした。
「私が先生に会えるこの30分を,どうせなら先生に災害支援についてレクチャーしたい。早口でやろうと思うけどいいですか?」とあえて私は勢いよく告げた。
心理教育やPFA,私が事前にオンライン研修で聞いたことなどを早口でまくしたてた。話しているうちに,先生の受け答えがはっきりしてくるのを感じ,私も必死になった。
別れ際,「先生に逢えてよかった」という言葉をいただいた。
照れくさかったし,その時の私はただ精いっぱいなだけだった。
先生はやっと作った30分で支援者であろうとした。これはもう仕事ではなく在り方なんじゃないだろうか。そしてきっと私も,同じようになったらそう思うだろうな,と思うのだ。
たとえ被災者だとしても,支援者としていたいと。
午後に訪問した学校は,再編を間近に控えた学校だった。
故郷の学校がなくなるという,大きな喪失を控えたこの学校の子たちには,入れ代わり立ち代わり支援者が来るより,ゆっくりと穏やかに学校生活を送って欲しいと思った。先生方のニーズもあり,私の滞在最終日の金曜日に心理教育の授業を行うことに決めた。
その学校の現地SCの先生にもお会いすることができた。被災を免れた地域にお住まいだが,指導主事同伴で学校へ来られていた。
私の授業の話を聴きつけ,授業を見たい,都合がつかないが録画が欲しい,と熱心に言われた。
優しさの裏にある,子どもたちのために知識を吸収したいという押しの強さに,SCとしてはいい特徴だよなと思った。苦笑いしながら了承した。

この日はチームの一人であるT先生の最終日だった。とても信頼して活動できた。
交流の家と能登町の往復6時間は,オンライン報告会のために学校の情報共有もしていたが,実は話題の多くを占めたのは「自然」のことだった。
イノシシやシカの獣害がありそうだ。立山連峰の美しさや,伝統的な漁法。廃線跡(のと鉄道能登線(2005年廃線))の沿線を走りながら沢山のことを話した。
「Earthquake」はEarth(地球)とQuake(揺れる)という言葉からきている。自然の豊かさと残酷さ,それに翻弄される人間を感じる言葉だ。
車中は3人の臨床心理士による『エンカウンターグループ』となっていたのだと思う。私たちもまた,この残酷で美しい自然の中の一部なのだと,どこかで自分に納得させようと話し続けていたのかもしれないと,今では思う。
2月1日(木)4日目:地元からのメール
派遣メンバーに新たなY先生が加わり,この日もひき続き各学校に赴いた。
地元SCの最後の1人に会うことができた。
オンライン研修をしっかり受けておられたが,実際にどうすればいいのかは研修だけではわからない。「文科省のSCは,他県から経験のある人が来ると思うので,先生と協働ができると思う」と伝えた。
昼休みには,入り口がちょっと陥没してしまっているランチルームを見学し,石川県教委派遣のSCとも会えた。ほんの数分の立ち話だったけれど,派遣形態が複雑になっていたことでお互い嫌にならないといいなと思っていたので,逢えてホッとした気持ちになった。
人がすることに完璧なものはない。ただ,最初に派遣された者の役割は「益にならなくても,害にならないこと」そして,「次に繋ぐこと」だと思う。
白山に集団避難に行っている中学生がいることで,空いた席のある教室が寂しそうに見えた。誰もが今できることを一生懸命,模索していた。

小学校の校庭の端っこに土俵を見つけた。能登は相撲が盛ん。そういえば私が担当する隠岐の島でも各地域に土俵があり,『隠岐古典相撲』では地域ごとに競い合う。
地域文化の共通点を見つけてうれしく感じていたころ,地元からのメールが届いた。
所属先からのSC宛の一斉メールは「本年度の配置時間は,年度内にすべて消化してください」という内容だった。
けれど気を張っていた私の耳には,「たった一日の休みすら許されない」ように響いてしまった。
私たち非常勤のSCにとっては,有休は「絵に描いた餅」に近い。制度があると分かっていても,支援に穴をあけたくなくて,これまで取ったことはなかった。しかし今回は,年度末の急な派遣である。どうしても振替がつかない一日分だけ,やむを得ず有休を充てることにしていた。それすらも「間違いだ」と言われているような気がしたのだ。
今振り返れば,事務的なリマインドに過ぎなかったのかもしれない。いつもの私なら,事務処理として受け流せたはずだった。
SCとしての評価はどうなるんだろう。どうしよう,自分のわがままで,迷惑をかけているんじゃないか。
自責と不安が,ぐるぐると頭を離れなくなった。
幸い,地元の仲間や県士会会長が動いてくれたおかげで誤解はとけたが,解決してもなお,自分でも驚くほどショックを受けていたことに気づいた。
「こころ」というものは,外側からくる力には耐えられても,味方と思っている「内側」からくる言葉には,ひどく脆いものなのかもしれない。
2月2日(金)最終日:能登とのつながり
同じ道を通っていたけれど,2日前にあった立山連峰は見えなくなっていた。立山がよく見える後は天気が崩れるのだそうだ。
最終日,学校のランチルームで,全校生徒を対象にした授業を行った。会場には生徒たちだけでなく,それを見守る先生方など,大人たちの姿も多くあった。
「島根県に能登半島の土地があるって知ってますか?」と問いかける。

持参した島根県地図(大判1枚)を見せながら「島根県出雲地方に伝わる『くにびき神話』には,神様が能登半島から引いてきた土地があって,それが私の担当校がある美保関なんですよ」と語りかけた。
「実は私は,能登半島だった土地のスクールカウンセラーです」
「大変なことがあったときは,こころがこんな風になるんだよ」と,画用紙に書いたワードを示しながら話した。「みんなでリラクセーションをやってみましょう」許可を得て,体に触れて,ぬくもりを感じるような,ペアのリラクセーションをやってもらった。
ようやく生徒たちの間に,明るい笑顔をみることができた。
後で「あんな笑顔を見たのは久しぶりでした。被災してから,頑張れと言いすぎていたかもしれない」と感想をもらった。先生の目が少し,うるんでいるように見えた。
送迎のため同行していた,この学校出身の先生は「初めてSCの授業を見た」と興奮気味だったが,しばらくしてぽつりと「能登の子どもたちは,大丈夫でしょうか」と問いかけられた。
私は遠くを見ながら,
「これだけ美しい場所で育つ経験が,子どもたちになんのいい影響を与えないはずはないと思う」と応えた。
こころの専門家に聞かれたにしては,ちょっとピント外れだったかなと思ったけれど,先生はそのあと何も聞かなかった。
学校がなくなるということは,その地域の衰退という不安を背負うことでもあると思う。
あの海の向こうには,今は見えないけれど立山連峰がある。
先生に言わなかったことがある。
霊峰・大山に見守られて建つ私の母校もまた,あと数年で再編され閉校することが決まっている。私も不安を抱える一人なのだ。
この日は派遣最終日。残った仲間に見送られながら,I先生と羽咋駅から帰路の列車に乗り込んだ。

2月派遣後:支援は一人ではできない
金沢で一泊し,昔は確か大学があったような……と金沢城へ。倒壊した石垣のある金沢城や兼六園を歩いた。リフレッシュして帰るつもりなのに,頭にはもっと上手くできたかもしれないと反省が渦巻いていた。
帰りの列車で授業案や生徒への授業後のお便りを書いて,メールに託した。
後日,現地の情報に触れる機会があった。そこには,あの日の授業の様子が紹介されており,実際に授業をした私の名前はなく,「少しでも心配や不安なことがあったら,(現地SCの)先生に相談しましょう」とあった。私の活動が,現地の先生への応援になったみたいで,うれしかった。
派遣者同士の引継ぎをもっとできたらよかったのにと思っていたが,残っていてくれているY先生が,派遣者の活動をエクセルにまとめてくださった。更新されていくエクセルシートには,後日,派遣者が地元SCと共同で「全員面接」を行ったという記録を見つけた。
無機質に並ぶエクセル上の文字だったけれど,しみじみと嬉しかった。私が実際の支援をしたわけではなくても,わずかでも土台にはなれたのかなと思った。
島根に戻ると県士会の仲間たちは会う人みな「ごくろうさま」と言って,報告会を設けてくれた。仕事先の先生方も,「お疲れさま」と声をかけてくれて,笑って「有休使いましょう」と整えてくれた。
でも,どこかスッキリとはしなかった。
「自分のわがままで,迷惑をかけているのではないか」という思いが私には残っていた。
この活動に興味のない人もいるだろうし,迷惑だと思う人もいるだろう。そんなこと,わかっていたはずなのに。
あるとき地元にもどってから会った先生から「能登はどうでしたか?」と聞かれたとき,「いや〜,ご迷惑をかけたかもしれませんが……」というと,その先生に怒られた。
「何を言ってるんですか! ニュースを見ながら『何かしたい』とじれったい思いをしていたんです。現地に行って支援をしてくれる人の力になれるのは,迷惑ではなくて,うれしいんですよ!」
その言葉に,胸を突かれた。わかっていたはずなのに。
この支援活動は,決して一人でしていたのでは,なかったのだと。
神様が能登半島から引っ張ってきたという,美保関。その地続きにある中海のほとりを,いつものスクールカウンセラー仕事を終え,今日も車を走らせる。
車窓から湖面を眺めて,かつて北前船はここを通ったのだろうかと想像する。日本海の荒波をこえるために,ここで風待ちをしたのだろうか。
夕闇が迫る空は薄紫に染まり,鏡のように凪いだ湖面がその色を映して,静謐で美しかった。
——————————————————————————–
本稿は,現地でお世話になった方々への感謝と敬意を込めた,私なりの支援の記録です。
プライバシー保護のため,個人名は伏せていますが,連絡を取るのが難しい方々もあり,複数の方に内容を確認してもらい,どなたの思いも傷つけることがないよう注意を払いました。
共に時間を過ごしてくださった能登の皆様,そして派遣を支えてくれた仲間に,心より感謝申し上げます。
(あらかわ・ゆかり)
島根大学教育学部附属支援センター特任准教授。
公認心理師、臨床心理士。スクールカウンセラーを中心としながら、産業・被害者支援・福祉など多様な領域で心理支援に従事。
しまね臨床心理研究所、ヤングケアラーサロンネットワークにも所属し、活動を行っている。R8.4月より現職。
趣味:日本画、安来節










