藤澤美穂(岩手医科大学教養教育センター)
シンリンラボ 第40号(2026年7月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.40 (2026, Jul.)
1.そこにあること
1)災害の爪痕
2011年3月11日14時46分,東北・関東地方において巨大地震が発生,その後太平洋沿岸を大津波が襲った。津波被害の甚大さを鑑み,私の所属では東日本大震災津波と呼称している。多くの人命,住まい,生活,馴染んだ風景が失われたこの大災害は,被災の影響が大きい岩手に住む私にとっては常にそこに“ある”ものでもある。
私自身は内陸部に住まいと職場があり津波の直接被害は受けていない。圧倒的な被害を受け壊滅的となった地域を前に,他県の方に震災のことを聞かれれば「自分のところは,たいした被害ではなかった」「被災の影響はほとんどなかった」と答えていた。それは今も変わらない。一方内陸部での生活でも,災害そのものから受けるショックや心細さ,その後の不便な生活,損なわれた日常,普段とは異なる業務の増加など,震災の影響を少なからず受けたことも事実であり,東日本大震災津波という出来事との向き合い方が,15年経っても自分の中で明確にならない。
そういうものなのかもしれないな,とも思う。
私はあの日,日本集団精神療法学会に参加するため京都にいた。震度2ほどの揺れを感じ,その後報道で大震災津波を知った。当初戻る予定だった花巻空港が閉鎖になり,秋田空港経由で予定よりも遅い日程で戻った。戻るのに苦労したことを家族や同僚はねぎらってくれたが,私自身は,余震の恐怖を体感していないことや不自由な思いをしていないこと,そして肝心なときに岩手にいなかったことなどからくる罪責感や役立たず感をしばらく抱えて過ごすことになる。それらの思いを払拭したい動機もあったと振り返るが,前職から災害支援との接点が比較的多かったこともあり,その後,本務と職能団体や学会活動等で災害支援関連業務への関わりが増え,災害との接点が常に傍らに“ある”15年となった。その関わりの濃度は時期により当然変動するが,自分の暮らす地域を襲った災害の気配を感じながら,またその影響を受けた地域と人への心理的支援に取り組んできた。
2)つながりと居場所
大規模災害後の被災地においては,様々な支援活動が展開される。私自身は所属する岩手県臨床心理士会(以下,県士会)の活動として,2011年4月から避難所支援に,2011年9月から仮設住宅への支援に関わってきた。3~4月には県士会主催での災害支援研修会があり,このリレーエッセイ(12)の前田潤先生も講師として岩手に来てくださった。災害の支援に携わることは必要なことではあるが,本務や家族への説明と理解が必須であること,なおかつ自分の不在の影響を考えることの必要性や,自分自身が元気で健康でいてこその支援であることなど,大事な教えとして心に残っている。
さて仮設住宅への支援は日本赤十字社岩手県支部と連携した日赤ボランティアとしての役割も兼ねたこころのケア活動が始まりであり,県士会単独支援も含め,岩手県A市内の3カ所の仮設住宅でのサロン活動に関わった。うち1カ所はこのリレーエッセイ(1)の青山正紀さんとも一緒のチームだった。2012年頃までは県外からA市仮設住宅に訪れる支援者・学生ボランティアも多く,被災地のみなさんはそのこと自体に励まされている様子だった。次第に遠方からの支援は減少し,2015年以降は地元団体や被災地に拠点を置く団体による支援が中心となり,そして継続された。
そういった他団体によるサロンも多く開催されたが,県士会の私たちもサロン開催を通して,仮設住宅の住民同士の交流を促進しコミュニティの活性化をはかり,そして心身ともに健康な生活を送れるようリラクセーションの実施を通したストレスマネジメントの促進に取り組んだ。サロンに集うみなさんはお茶を飲みながらさまざまな話をし,サロンを開催する私たちもその場で一緒に聴く。2012年頃までは仮設住宅の住環境や立地への戸惑い,新しい生活への慣れなさ,片付けや将来の検討に伴う燃え尽き感や疲労感や罪悪感などが語られた。次第に「私たちも何かがしたい」,「してもらうばかりではなく,お返しがしたい」という話題も増えた。仮設住宅に暮らすということは,津波被害によるトラウマ体験と住まいを失う喪失を経験したということである。「津波の日は何が起こったのかわからず心細く,これからどうなってしまうのだろうと思っていた。今こうして生きて,みんなで笑っていられることがありがたい」などがここで語られた。みんなで集えるこの場が“ある”ことは,辛い体験を思い出しながらも,その体験にまつわる他の方々のエピソードや思いにもふれ,自分自身の思いをさらに口にでき,安心を得ることにつながっているのだと嬉しく感じた。
3)傷と自分の接点を感じる
2016年4月に熊本・大分で大きな地震が発生した。その時私はすでに現職に就いており,「いてもたってもいられない気持ちになって落ち着かない」,「勉強をするしかない学生の身分の自分が情けない」,「自分は東日本大震災の時に全国の人に助けてもらったから熊本地震では自分にできる何かをしたい」等の学生の声を聴き,災害という出来事はたとえ直接体験していなくとも私たちの心を波立たせると感じたことを覚えている。
熊本地震はサロンに集うA市仮設住宅のみなさんとの間でも話題になった。「大きな余震が続いて,眠れなくて気の毒だ」,「避難所を見ると,津波で避難したことや服が濡れて冷たかったことを思い出す」,「建物が倒れてもそこにはまた,新しい物を建てて住むことができる。津波とは違う」,「今の仮設は津波からは安全な場所だけど,熊本みたいな大きい地震がきたらどうなるかね」などというように。
私たちの関わりはチームによって継続性を確保しおこなった。継続的な関わりは,住民のみなさんにとって“また次の機会がある”支援である。またチームとして活動しているため,メンバーが替わってもチームとしての同一性が保たれる。このことがサロンに集うみなさんに安心感として作用し,傷を含めた自身の思いを自然に語ることを促したのかもしれない。サロンというこの場が変わらず“ある”ことは,様々な思いを言葉にしながら自分の中に程よく収めることにつながるのだと実感した。
2.そこにいること
支援者としての自分自身は,東日本大震災津波での各種活動を契機に大きく変わったように思う。心理専門職として10年ほど経過した時期の災害だったこともあり,中堅心理職としてメンバー役割・マネジメント役割の双方を多数経験した。今振り返ると頑張ったなという思いと,もっとできたのではという思いが入り混じる。東日本大震災津波がそこに“あり”,今もなお関わりが続いているからか,支援者としての自分の関わり方に付けるラベルが見つからない。これも,きっとそういうものなのかもしれない。
とはいえ支援者として一定期間継続してきたことも確実にある。そこに居続けることである。
1)メンバーとして“いる”
東日本大震災津波以降,自分の中での関与の比重が変わったもののひとつに,職能団体や学会などの学術団体との関わりがある。専門職として生きる上で自分たちを守ってくれるものであり,自分たちで作っていくものであり,そしてそれらへの関与と自身の本務とを両立させることには努力と工夫と労力が必要なことに,賛同くださる方も多いのではなかろうか。
私は他県で8年ほど行政心理職を経験してから学生時代を過ごした岩手に転居した。新生活への移行に苦労が多く,岩手に根を下ろす感覚を持てずにいた中,東日本大震災津波の発災があった。この災害への県士会による支援(先述)を通じチームでの活動に参加し,支援の道中や引き継ぎミーティング,慰労会など,心理職仲間とのつきあいが大きく変わった。そういった機会と時間を過ごすうちに,職能団体そのものへの関与度が高まった。そして “岩手に住む心理職としての自分”というアイデンティティが明確になっていった。
チームでの支援活動は,多様な年代・キャリアの同職者との「縦」の関係と,幅広い臨床領域で働く同職者や他領域との「横」の関係での活動となる。自分の時間と労力を自発的・能動的に使う活動に関与することは,専門職としてのキャリア発達にプラスの効果があっただろうと振り返る。
2)進めるために“いる”
先述のサロン活動で私は県士会のコーディネーターとしての立場でもあり,関係機関との連絡とメンバーへのサポートを担うロジスティクス的業務も役割には含まれた。
私たちのサロン活動はチーム内でメンバーを交替しながらおこなったため,メンバー間での情報共有と引き継ぎを通した支援の質の安定化が肝となった。
そこで活動メンバー同士が顔を合わせ引き継ぎするミーティングを定例化した。ミーティングには前活動メンバーと後続活動メンバーとコーディネーター(筆者)が集合し,前活動の報告を受け,仮設コミュニティ内の出来事や変化を共有した。そして後続メンバーの疑問や不都合を明らかにし,安心して活動に従事できるための準備をメンバー全体でおこなった。この三者の都合が合わない場合は,前活動メンバーからコーディネーターが報告を受け,別な日程でコーディネーターから後続メンバーに引き継ぐ形をとった。
職能団体活動は本務ではなくそれへの参加は各自の自由意志によるものである。ミーティングの開催とそこへの参加は本務以外の用事が増えることでもあり,メンバー内の疲弊を助長するのではないかとの心配も大きかった。しかし負担・疲労以上のものも大きかったようである。それは活動で感じたことを言葉にして受け入れられる機会の確保と,活動に関する疑問の共有とそれらの解消に,チームとして共に取り組むことを通した緊張感の緩和とエンパワメントである。コーディネーターの私としても,毎回の報告を聞くことを通して仮設コミュニティの様子の把握につながり,活動を継続する上で解決すべき点が見えやすくなった。加えてチーム全体での情報共有の場として「情報交換会」を毎年開催した。
私自身,ミーティング内で,また地域に出向く車中で,支援メンバーが語る地域アセスメントの視点や集団全体をみる視点,活動中のさりげない関わり方や人とのつながりの紡ぎ方から大いに学ばせてもらった。参加する若手メンバーの関わりの技能が向上し,職業的な成長を実感することもしばしばであった。メンバー間で互いに影響を及ぼし合うことを,安全な関係で取り組むことができたのなら,嬉しく頼もしく思う。
ミーティングは前活動メンバーと後続メンバーをつなぎ,わかちあう場・備える場を確保する機会でもあり,それは支援の質の確保に貢献したことに加え,メンバー同士のピアでの支えにつながったと感じる。そしてそこに居続けたことで,私自身,メンバーとしてもコーディネーター(リーダー)としても,仕事を分け持ち,弱音を聞いてもらい,至らないところをさりげなくフォローしてもらい支えてもらうという体験ができた。その後の私自身の職業観・チーム観への影響も多大で,県士会とメンバーに大きく感謝している。
3)“いる”ことを続けるために
サロン活動の他にも地域から県士会への要請は多く,私はそれらの一部にも関与していたため,確実に負担増の日々でもあった。意識的に心身を休めなければ到底身が持たない。にも関わらず私は,足を止めればもう動けなくなるのではという不安が大きく,過覚醒で過活動の日々が数年続いた。
大震災津波の前から私は自分自身を振り返り,自分の内面や対人行動のありようを確認するため体験グループに参加していた。グループの場で自分を見つめ,グループで起こることを感じ言葉にする作業に取り組む時間は,いつも居心地が良いわけではないし,時に自分の認めたくない部分と直面することもある。それでも私には,一人の個人としても,心理職として生きる職業人としても,体験グループの場に身を置き取り組むことが必須である。
災害後に「災害支援者」としての役割も負う中,支援者サポートグループである「相互支援グループ」への参加が,支援者としての私を支え,被災地に足を運びそこに居続けるために大きな助けとなった。
相互支援グループは集団精神療法の手法による支援者の語りの場である。日本集団精神療法学会では従来から災害とメンタルヘルスに関心を寄せ,災害後の支援者によるグループでの語りの場の重要性を認識してきたという。こういった備えが2011年3月12日からの集団精神療法学会京都大会での緊急ワークショップ「東北地方太平洋沖地震について話し合う会」の開催につながったのだろう。
私は京都でのこの緊急ワークショップに参加して以来,幾度も相互支援グループに参加し,被災県岩手で暮らし災害支援に関わる自分のことを,グループの中で話し聴いてもらった。思い起こせば,疲れ切っている話ばかりをしてきたように振り返る。話すうちに自分の中にある様々な感情に気がつき,重責に感じていたことをグループに分け持ってもらえたように思え,私たちの活動や私自身を見てくれている人がいるのだという確信をもつに至った。また同じく災害後支援に関わる方の話をグループで聴き,支援活動継続への敬意とともにお互いのセルフケアの充実を願うようになった。そして災害支援に関わっていないことで生じる思いを想像できるようにもなった。私がある程度の健康を維持し,15年経過した今も被災地に関わり続けたいと思えるのは,相互支援グループによる支えがあったからだと断言できる。
現在私は,集団精神療法学会の相互支援グループに関する委員会の役割を担っている。2024年・2025年と能登地震の被災地に近い金沢市内での相互支援グループを開催し,2026年開催も予定している。支援者には災害にまつわる思いを語り大事に聴いてもらう場が確保されることが必要である。特に「被災者であり支援者でもある」という多重の役割を負った方々にとってはなおさらである。
3.それになる
1)新型コロナウイルス禍という新たな厄災
東日本大震災津波から10年目となる2020年,世界は新型コロナウイルスという新たな脅威に直面した。この危機により,政府主催の東日本大震災犠牲者追悼式は中止となり,各地においても追悼式が中止・縮小となった。それらの判断の報にふれる都度,東日本大震災津波による傷つき・痛みが新たな脅威に追いやられたような思いを抱いた。
県士会によるサロン活動であるが,まずA市においては2018年に仮設住宅が閉所となり,県士会は地元社会福祉協議会と協議の上,仮設住宅を退去した方々の主な転居先となる地域の拠点を会場としたサロンを継続することとなった。仮設住宅で一緒だった方たちとも集える“場”を通じ,これまでに培ったつながりを維持することが,復興期の暮らしに移行する上で重要と考えたためである。地域の拠点では,県士会以外にもサロン開催を継続する団体もあった。それでも私たちのサロンを楽しみに待って下さる方も多く,「ここに来ると普段会えなくなった人と会える」,「仮設の時にみんなで助け合ったことを思い出し,これからも頑張ろうと思った」,「またみんなに会えてうれしい」という言葉をいただいた。県士会チームとしての支援活動頻度は減少したものの,サロンに集う方々からは「2011年から会っているからもう○年の付き合いだね」,「仮設の時からおいしいコーヒーが楽しみだったんだよ」など,これまでの関わりからの継続性に基づく声をかけていただいた。小規模ながらも,仮設住宅からのつながりを大事に,サロン活動を通してみなさんの新たな生活の定着を見守りたいと願っていた。
そのような中,2020年2月,新型コロナウイルス感染に関する警戒が高まった。
さてサロン活動はどうしたものか。集う方々は70代以降の方が中心で,大震災被災地の岩手県沿岸部は医療過疎地で専門職も少ない地域である。安心・安全を得るサロンという場が感染の脅威となるわけにはいかない。災害支援の原則は「Do No Harm」,その基本を大切に,サロン実施は取りやめとなった。
それまでは沿岸被災地に足を運び,直接顔を合わせ,言葉を交わし,茶菓を共に楽しむような時間を共有することを大切に取り組んできた。これまで大事にしてきたことを「不要不急」と位置づけることへの葛藤は大きかった(藤澤ほか,2021)。
サロンの再開は2024年秋であった。これまでと同じ3カ所に出向いた。「仮設の時から来てくれてたもんね」,「こうやってみんなで集まること自体が久しぶりなんだよ」,「前もみんなで集まって体操したね」という声をいただいた。うち1カ所には翌年にもお邪魔し,「また来てくれたんだね」,「私のこと覚えてる?すっかり年取っちゃったよ」,「仮設のときも,いろんなもの作ったりしたよね」などの反応を受けた。
コロナ禍以降,人の往来・集合が大きく変化した。上述の地域はもともと住民間の交流が多く,互いの家への行き来も盛んであったが,コロナ禍の数年間はそれまで数十年来の蓄積があった地域の交流文化も一変させた。
そのような中サロンを再開したことへの歓迎を受け,純粋に嬉しかった。年に1回の訪問となっても覚えていて下さって,この場に足を運んでくださることがありがたかった。このサロンやチームが,ささやかながらも,集うみなさんにとっての“何か”として存在できているのであれば,続けてきて良かったなと思った。
2)名づけ難い“それ”
はたしてその“何か”とはなんだろうか。それを表現する言葉を見つけようとしても,大げさすぎるような気もするし,おこがましい気もするし,とはいえ自分たちが続けてきたことには小さいながら自負もあるし,なかなかぴったり・しっくりする表現が見つからず“それ”としか言いようがない。そういうものかもしれない。
被災した方々にサロンがどのように体験されたか,おそらく時期・復興の進度・今の暮らしの様相に応じ,それぞれ異なるものとして映っただろう。震災直後は「あなたたちのおかげだ」と声をかけていただいたこともあったし,活動への使命感の中でその言葉に胸を張ったこともあるが,今ではそれは,互いのある種の高揚感により交わされた言葉だったと理解している。
とはいえ,被災した皆さんの中に私たちが肯定的な“何か”として存在しているのであれば,どういった関わりが“それ”に至ったのであろうか。
大震災津波という自身の足元や安全を揺るがされる出来事を通し,私自身は「居場所」や「足場」の重要性を痛感した。それは被災者への支援の上でも,また支援に携わる自分自身としても,である。居場所や足場は,新たに創り出されることもあろうが,そこに“ある”ものが活かされることも多分にある。そこに居続けることで,そこにあるものが見えてきて,そこの文化や風土を知ることにも波及する。集う方々やこの場の文脈を大切に,集う方々同士とこの場をつなぐ役割と機能を担うことを,私たちは大事にしてきた。当たり前すぎることだとも思うが,それでもここに記しておきたい。
3)“それ”の継承
「この」災害と同じ災害は二つとなく,「この」被災地に必要とされることに取り組む必要がある。それまでの災害支援の教訓を活かしながらも,既存の理論やプログラムをそのまま当てはめるに留めず,柔軟に適用することが求められる。そこには臨床的な知識・経験に基づいた判断と実践が求められるということでもある。これまでの災害実践に敬意をもちながら,いまここで必要とされることを見極め実行することが肝要である。
加えて私自身は集団精神療法的アプローチを重視する立場であり,個人と環境の相互作用を考えることや,社会的文化的な影響を考慮することなどを,実践上大切にしている。
近年は支援−受援の課題も指摘される。外部からの支援者は,受援側に過度の負担をかけず,自分にできることを,やり過ぎないようにおこなうことが大事なのではないか,とも考える。外部からの支援者としてのアイディアは,いまここで,受援側が求めているものだろうかと一度立ち止まる慎重さを備えたい。受援側はこのアイディアを受け入れる余裕があるだろうか? この提案自体が受援側の自信を喪失させ気力を削いでしまわないだろうか?アイディアに対する疑問が受援側にあったとして,支援−受援関係の非対称性によりその意見が出しにくいのではないか?このアイディアの採用と実現に伴う経済的・時間的・精神的コストはどのくらいだろうか?なによりこの関わりは受援側のエンパワメントになるのだろうか?──つまりはこの状況の見立てが必須となる。心理的支援における基本中の基本である「対象者のニーズ」と「関係性」を大事にするという姿勢を,忘れずにいたい。
こういった名づけ難い“それ”は「実践知」とも言えるのかもしれない。杉原(2025)は体験的で身体化されたアーティスティックな知が実践知に相当し,モデル観察や体験からの学びにより得られるものとした。学術的で一般化・抽象化され講義や書籍から学べる専門知に比べ,実践知を構成するものを言語化することは容易ではない。
災害支援はこの実践知の集積である。“それ”に含まれるものは,生きた体験として共有される中で継承される。活動を共にする中で,そして思いを聴いたり体験談を読んだりすることを通して。災害は分断をうみやすいと指摘されるように,これまでも災害支援に関与している人–していない人の間に見えない隔たりを感じることが多々あった。支援に直接関与することのみが実践知継承のチャンスではない。この連載そのものも,災害や支援について考える時間となり,大事な継承の場として機能するだろうと思っている。
このような場に関わる機会に恵まれたことに感謝申し上げます。
*本文中に出てくるエピソードは個人が特定されない表記とし,文意を変えない範囲で改変を加えている。
*岩手県臨床心理士会では2011年3月から岩手県内沿岸部を中心に,加えて内陸部でも,被災地や被災者の方々に向けた心理的支援をおこなってきた。各種支援活動については,岩手県臨床心理士会発行の「東日本大震災に関する支援活動報告書」2012〜2017年および2020年発行の各報告書に詳細に記載されているため,そちらを参照されたい。
文 献
- 藤澤美穂・小岩健祐・後藤沙苗・中谷敬明・山田幸恵(2021)震災から10年が経過した岩手より 岩手県臨床心理士会の活動報告.日本臨床心理士会雑誌,30 (1); 14-16.
- 杉原保史(2025)心理職の訓練における専門知と実践知 支援の効果を高める訓練とは?.日本臨床心理士会雑誌,33 (2); 6-13.
藤澤美穂(ふじさわ・みほ)
所属:岩手医科大学教養教育センター
資格:日本公認心理師協会認定専門公認心理師,臨床心理士,日本集団精神療法学会認定グループサイコセラピスト
専門:臨床心理学,災害メンタルヘルス,健康・医療心理学
2011年より岩手県臨床心理士会の災害支援活動に参加
現在に至る









