こころをつなぐ災害支援(2)学校緊急支援から災害支援へ,そして日々の臨床へ|蝦名美穂

蝦名美穂(星槎道都大学)
シンリンラボ 第23号(2025年2月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.23 (2025, Feb.)

                                                    

読者の皆さんは災害支援について書かれたものを期待されているかもしれません。ですが,今回は,災害支援は学校で発生する緊急事態への支援の延長線上にあり,そして日々の臨床から続いているのではないかという視点で考えてみます。

私と緊急支援のはじまり

私は臨床心理士の資格を取得後まもなくスクールカウンセラー(以下SCとします)となりました。SC2年目に,地域で緊急支援要請があり,当該の学校へ派遣されることになりました。当時も今と変わらず緊急支援に携わる人は特定の心理士で,若手であった私が派遣されることはある意味でチャレンジだったのではないでしょうか。その時のことで印象に残っていることがいくつかあります。一つ目はあの張り詰めた空気感,いつもの学校とは異なりました。そして,次々と求められる判断に戸惑い一日が終わるとクタクタになりました。タフさが求められます。二つ目に,通常は一人職場であるSCが複数名で支援に入ることです。複数名で入るメリットは様々あるでしょうが,それはお互いを尊重しつつ,自分の立ち位置を意識しなければ得られないものです。そこで,私は自分自身の五感をフル回転させながら,学校の中で子どもや教職員と関わり,見聞きしたことや感じたことを一緒に支援に入ったSCと共有しました。この初めての経験が,私の緊急支援活動での立ち居振る舞いの原型を作ったと言えるでしょう。

支援活動を終え,地域にも少しずつ落ち着きが戻ってきた時に,私は恩恵を受けることになりました。この頃はまだ教職員からのSCに対する風あたりも強く,ここでの支援活動に失敗できないという気持ちがありました。今となっては,何が失敗なのかは一概には言えないと思いますが,そのような気持ちでいました。自分のような新米SCの存在が周りからみるとSCの代表のように見られてしまうのではないか,それに対しても不安がありました。ですが,この支援を終え,またこれ以降も続いた他の支援を終える度に,この地域でのSCを知ってくれる人が増えニーズが増すように感じられました。実際に,教職員組合の研修などに呼ばれたこともあり,私たちの活動を遠くから,近くから見てくれている人がいたのだとわかりました。

また,若い心理職をサポートしてくれた先輩心理士もいました。一日の勤務を終え,報告書を提出するとそれに目を通しては助言をしてくれ,支援活動中は電話を携帯しながら私たちからの連絡に待機してくれていました。これは何より心強いものでした。この最初の緊急支援を皮切りに多くの活動に携わりましたが,私が災害支援に携わることになるのは,長い年月を経てのことでした。

被災地へ行けないことの罪悪感

一番初めの学校緊急支援活動の数年後からSCの緊急支援のコーデイネーター役割を担うこととなりました。学校に出向き支援活動を行う,もしくは後方支援に携わりました。この頃から朝と夕方のTVは地元の情報が多い番組を見る,新聞の朝刊を読むということが習慣となりました。至って普通のことですが,自分が住んでいる地域以外の情報収集に努めました。自分が初めてサポートしてもらった時と同じように,同じまでとはいかなくても,何かあれば相談に乗れることを伝えるために,緊急支援が必要であることを教育委員会に伝えるために情報確認を日々行っていました。そうやって後方支援をしていくうちに,次第に緊急支援に関わっている人達との繋がりができました。それぞれの地域で頑張っている人がいる,それを知りました。

日本では,これまでも多くの災害が発生しています。私が心理士として働き始めてからの災害は東日本大震災が初めてでした。発災後私は,家族の理解を得ることができず被災地へ行って活動することは叶いませんでした。周りからは「あなたは行くと思っていたのに……」と言われました。私自身が一番そう思っていました。そう思えば思うほど,当時は支援活動に関わる研修会には参加しづらくなったことを覚えています。「行けなかった,できなかった」という罪悪感が心に沸き上がりました。しかし,少しずつ今自分がいる場所できることをしようと思えるようにもなりました。そのきっかけは,担当している校区内に保護者が被災地に支援に行ったという話を耳にしたことでした。被災地に行った人,その帰りを待っている人に対しても何かできることはないだろうかと考え始めました。実際,何かできた訳ではありませんが子ども達の今おかれている状況を想像すること,そしていつもと同じように日々の臨床を続けることも私にできることだと思えるようになりました。そうしていると私が住んでいる地域へ被災地から避難してこられる家族がいらっしゃいました。長期休みに被災地の子ども達を招くという企画に,訪れる子ども達へのサポートという形で関わりました。これらの関わりを通して,心に沸き上がった罪悪感を消すところまでは行かないけれど,小さくしてくれたように思います。

災害が起こる前の準備を

いったい何から準備をすれば万全なのでしょうか。多くの本を読み漁り,これまでの緊急支援を振り返り,反省をもとに,また緊急支援に行くことを繰り返していきました。全国で行われる災害支援に関わる研修にも参加をし,支援者との繋がりも広がりました。

研修等の準備だけではなく,私は緊急支援の要請があった場合には,そちらに行く可能性があることを勤務先の学校の職員に伝え続けました。すると何かの事件・事故が発生した際には「行かなくていいの?」と言われたり,支援に行った後に「お疲れさま」という声をかけてもらえるようになりました。

そして,職能団体の災害支援の仕事に携わることとなりました。複数名が委員として名を連ね,私はチームとして活動するよう心掛けました。丁度私自身の出産・子育ての時期とも重なっていたことと,災害が発生した際には多くの人の力が必要となると考え,研修会等へは委員それぞれが参加できるように進めました。このことは,次に発生した災害時に生かされました。

その後,災害時の体制づくりにあたり,あくまでも支援活動をする際の指針であり,活動が円滑に進められるようにするためのもので,それが決して足かせとならないようにと考えながら進めました。私が居住している地域は広く,地域全体が同時に被害に遭うことは想定しづらく,外からの支援も想定しづらいです。一番現実的なのは,被災した近隣の地域からの支援だと考えました。これは他県での,被災県の隣県から支援に行くイメージと同様です。このくらいの距離感であることがこの地域の特徴でした。そこで,地域をいくつかに分けて支援活動を展開することを想定しました。この時に役立ったのは,以前の緊急支援で培ったつながりです。しかし,それも実際の災害が発生した場合には,必ずしも想定通りにいかないことが多いことも痛感しました。

忘れたころにやってくる

災害は忘れたころにやってきます。学校緊急支援も忘れたころにやってきます。私の近しい人達のジンクスで「最近緊急支援がないね」とは言わないことにしています。なぜなら,この言葉を言うと,決まって緊急支援の要請がくるからなのです。でも,日々の生活では何かしらの事件・事故は起こっていて,そこに心理職の関わりがないから,出くわしてないだけなのかもしれないとも考えることができます。

そして,あの時の地震もそうです。まさか,あの日地震が起こるとは誰も思いませんでした。しかも,公認心理師の初めての試験を3日後に控えた日でした。私は,試験勉強のために夜中の3時まで起きていました。布団に横になった瞬間に揺れが始まりました。震源地から約300km離れた場所にいた私のところまで揺れが伝わったのです。その後半年の支援活動や日々の生活について,あまり覚えていない部分があります。一瞬一瞬はとても冴えわたって考えていますが,具体的にどうだったか思い出そうとしてもわからないこともあります。そうならないために記録を取るようにもしていましたが,もしかすると思い出したくないという想いがあるのかもしれません。

当時,どのように活動をしていけば良いのか考えていると,室蘭にいる前田潤先生が「被災地と心理士を繋ぐハブになれ」と言ってくださいました。その言葉に力をもらい,私は現地に赴くことはできませんでしたが,これまでの経験を生かし,心理士の仲間を被災地へ送り出す活動を始めました。

この時,私の中で忘れないようにしたことは,以前に抱いた想いでした。被災地へ支援活動に行くことができる人を募るだけでなく,現地に行かなくてもできることを考え,それを実現しようとしました。その一つが,子どものおもちゃの寄付です。現地には行くことができないけれど,使わなくなったおもちゃを持ち寄ってもらい,現地での活動の際に利用することを考えました。すると,たくさんのおもちゃが集まりました。

また,情報収集は単に情報を集めるのではなく,情報提供者と共に考えることを大事に行いました。これが,被災地でのその後の支援活動に繋がっていきます。この情報収集は昼夜問われました。今後はICTを活用して新たな方法が支援者によって導入されるのだと思います。このほかにも,支援活動をする際の目印となる看板の絵を描いてくれる人もいました。現地で行われる支援活動の一つ一つは,誰かがその活動ができるように準備をしています。その上で,それぞれの想いを現地に入る心理士が一緒に携えていってくれたのではないかと思っています。これが私の災害支援活動です。

学校緊急支援から日々の臨床を考える

緊急支援を始めてから,私自身が得たことは何であったのか,考えてみます。緊急支援で行うことは,日々の臨床と何が異なるのでしょうか。それは,あらゆるもののスピード感ではないかと思います。情報が飛び交うスピード,一つ一つの判断の求められ方,支援に与えられている時間など,どれをとっても日常の臨床とは異なっています。しかし,その場に身を置きながら,五感をフルに活用して感じ取ることが,日常の臨床に戻った時にも役立っていると感じます。そして,何か振られた話題に対する反応の瞬発力も良くなったように思います。

それに対して,変わらないところもあります。学校にいる子どもたちはほとんどが健康であり,一時的に反応を示しているだけにすぎません。それについて,心理教育によって正しく学ぶことにより,安定していくこと。その人の持つ力を見つけ,できることを奪わないようにサポートすることを,私は緊急支援の活動の中から学んできたと思います。

また,瞬時にその場に溶け込む技も身に付けられたと思っています。これまでも何度か,初めて訪れる学校で「いつもここにいるみたい」と言われたことがあります。どうやら,その佇まいが安心感を与えるようです。これは日常の臨床を積み重ねた結果でもありますが,緊急の場でそれが生かされ,また臨床の場で育まれるというように,循環しているのだと感じます。こう考えると,緊急支援と日々の臨床は別物ではなく,延長線上であり,円のように循環しているのではないでしょうか。

忘れないこと

先日,以前から欠かさず見ていたテレビドラマのスペシャル放送がありました。そのドラマの主人公は,震災時に母親が行方不明となり,やがて法医学者になる女性です。父親は警察官であり,妻を探し続けながら,父娘で事件に挑むという内容です。決して軽い内容ではなく,亡くなった人の声を聞く法医学者もまた日常を生きているという,この対比が私の心を引きつけていたように思います。私にも似たような体験がありました。ちょうど,我が子を妊娠して胎動を感じられるようになった頃のことです。その時も私は変わらず緊急支援の要請を受けて現場にいました。目の前で一人の人の死を悼み,悲しんでいる人の語りを聴いている時に,私のお腹の中で命が育っているというこの状況を,私はこれからも忘れないでしょう。どんなに悲しいことが起こっても,人は生きていきます。主人公が結婚し,母となり,家族を作る。そして,父親が老いていく。当たり前の日常の中に災害が起こり,また日常が過ぎ去っていく。私はこのドラマを見ずにはいられませんでした。このドラマには「災害を忘れない,そして生きていく」というメッセージが込められていると感じました。

大変だけれど,関わり続ける

緊急支援に関わり続けて,悲しみの中でさえも人は生きていくということを教えられました。その苦しさ,悲しさ,憤り,さまざまな感情の中で,温かさや生きることの力強さを感じます。だからこそ,大変なはずなのに緊急支援の活動を私は辞めることができないのです。

学校では先生自身も辛いはずなのに,子どもたちのために何かできないだろうかと考えています。その姿に,私はいつも力をもらっています。先生たちの関わりで生徒たちが安心した表情を見るとうれしくなります。私はいつも,誰かが誰かを想い,行動し,それによって変化が生まれる様子を見守ることも心理士としての仕事なのではないかとも思っています。

だから,中学校での卒業式に出席すると自然と心がほっこりします。担任の先生の先導で生徒が体育館に入場してきました。見たことのある生徒の顔がちらほら見えます。式が終わり,退場の時に担任をはじめ,生徒の顔に涙とそしてはにかむような笑顔を見ると,またもう1年頑張れそうだと思います。

ただ,時折思い出します。3月の時期になると,あの歌と子どもたちを。あの時の子どもたちは大きくなっているのだろうか。そして,元気でいるだろうかと。私に何ができたのだろうか,そして何ができなかったのだろうか。その検証も十分にできないままでいることが気がかりです。

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蝦名美穂(えびな・みほ)
北海道教育大学大学院修了
スクールカウンセラーとして活動継続中(20年)
平成20年にNPO法人こどもサポートセンター設立
令和5年4月より星槎道都大学専任講師
現在に至る

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