青山正紀(あゆみカウンセリングルーム)
シンリンラボ 第22号(2025年1月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.22 (2025, Jan.)
連載にあたって
岩手県臨床心理士会では,東日本大震災の支援活動を続けて来ました。沿岸部のサロン活動はコロナ禍で中断していましたが,今年度に再開しました。現地のニーズを見極めながら,終結の時期を判断することになりそうです。これまで全国から応援をいただいてきたので,私たちの経験を伝えることでご恩返しができればと考えています。
ひるがえって県士会の会員に目を向けると,支援に出るメンバーが固定化してきました。これには,被災地ゆえの要因も考えられます。とくに沿岸部に住んでいる人は,また津波の衝撃と喪失に向き合うことになります。また大きな被害がなかった人は,被災した人に申し訳ないように感じたかもしれません。でもそれだけではない,目に見えないハードルも感じます。
発災して間もない緊急支援では,とても特殊なことをするというイメージがあります。医師や保健師など他職種の人たちに帯同して,「心のケア」をする。おそろいのベストを着用して「隊」のようないでたちは,緊迫感に満ちています。ふだんから訓練を受けている人でないと,太刀打ちできそうもありません。また私たちは中長期的な支援として,地域づくりやグリーフケアを展開してきました。そのいずれもがグループワークです。ふだんの臨床とのギャップを感じて,「自分には無理」と思う人もいるかもしれません。
災害が起きると,「心のケア」の必要性が訴えられます。トラウマ反応や喪失,コミュニティの崩壊などが起きるので,それは当然のことです。そうしたニーズに心理職が応えられなければ,私たちは「肝心なときに何もしない人たち」になりかねません。でも大規模災害で活躍する自衛隊と大きく異なるのは,ボランティアでふだんと異なることをするという点です。自衛隊は「兵站」と呼ばれる,後方支援の業務を被災地で展開することができます。
日本臨床心理士会は,2019年に「災害支援心理士の活動のためのガイドライン」を定めました。一定の条件を満たした人が研修を受けて「災害支援心理士(CPAT)」として登録し,ガイドラインに沿った活動をするように定められています。それは臨床心理士の災害支援への期待が高まる一方で,被災地で臨床心理士を名乗って迷惑をかけた人もいたからでしょう。
そうした経緯は理解しますが,CPATには疑問を感じます。「いつ起きるか分からない災害に備え,研修を受けて日ごろから研鑽を積むように」と言われて,その気になる人がどれだけいるでしょうか。そして研修を受ければ,被災地に向うことができるのでしょうか。研修を受けていない人にとっては,災害が起きたときのハードルになりかねません。大規模災害では,圧倒的にマンパワーが不足します。
私は現地の人々に迷惑をかけず,安全に行って帰ってくるだけでも支援になると考えます。観察をしているうちに,何をどのようにしていけば良いのか,見えて来るのが臨床というものでしょう。そんなことを考えて,室蘭工業大学の前田潤さんと話をしました。彼も「同じことは二度と起きないのにマニュアルを作ってみても,付け焼刃の研修をしても,役に立たない」と言ってくれました。全くその通りです。そして,私たちはどうしたら良いのでしょうか。それは研修を受けていない人でも,「どうなるか分からないけど,まず行ってみよう」と思えるような環境を作っていくことです。
前田さんは「支援で私たちが何を得ているのかを言葉にするのも,臨床と災害支援をつなぐことになるのではないか」と言ってくれました。たしかにこれまで,災害支援の報告はありました。補助金事業としての報告集や,職能団体での報告会,あるいは研究論文など,フォーマルなものでは個人的な感想は述べられません。でも災害支援の経験から臨床の幅を広げたり,深めたりしている人も多いはずです。
前田さんから仲間が広がり,東北大学の若島孔文さんからこのシリーズ連載を提案されました。さまざまな立場の方々から,臨床と災害支援について語っていただけることと思います。タイトルの「こころをつなぐ災害支援」は,市民と支援者の間だけではなく,市民どうし,支援者どうしの間もつなぐ意味をこめました。

支援活動のきっかけ
東日本大震災があったのは,高校でカウンセリングに来る生徒を待っていたときでした。激しい縦揺れがいつまでも続き,女子高生の悲鳴がとなりの校舎から聴こえて来ました。私が住んでいる花巻市は内陸で津波による被害はありませんでしたが,停電が1週間ほど続きました。遠方にいた家族の安否を気遣い,余震におびえながら不安な日々を過ごしていました。
4月からガソリンが手に入るようになり,沿岸の避難所に支援に出向くようになりました。それは動作法の仲間である,支援学校の先生方とのチームでした。家の近くにできた避難所にはひとりで出かけて,動作法による支援をしていました。
仮設住宅ができてからは,岩手県臨床心理士会でのサロン活動に参加しました。近くで避難生活をしていた知人の家には,手土産をもってお茶を飲みに行きました。たまたま訪れた仮設住宅で「人の家をたずねるのにも,目印がなくて困る」という話を聞いて,高校の美術部の顧問につなぎました。生徒たちがずらりと並ぶ仮設住宅の外壁に,1号棟には1月の花,2号棟には2月の花……と,季節感あふれる目印を描いてくれました。
思い返せばずいぶんと,支援に熱中していました。その伏線は2004年に起きた,中越地震でした。私は新潟県の上越市に生まれ,1997年までは実家に住んでいました。中越地震の被災地まで,車で2時間ほどの距離です。かつての仲間が被災して支援活動もしているのに,実際に出向くことができませんでした。悔やんでみても,後の祭りです。「タイミングを見計らっている間に,終わってしまう」ことを学んだのでした。
「すぐに始めないと,避難所が閉鎖になる」のです。そんな状況で「支援に出るのだったら,研修を受けてください」という体制ができていたら,萎えてしまっていたかもしれません。支援学校の先生方と「岩手動作法チーム」で活動できたのは,トレーラーハウスを持ち込んで活動していたNPO法人愛知ネットのお膳立てによるものです。これまで自分たちがしてきた動作法を,被災地で実践すれば支援になる,ということでした。

身体から入る支援
私は避難所を回っていたとき,ひたすら動作法注1) をしていました。マットを広げて股関節を使ってもらったり,背中や肩の緊張をゆるめてもらうと,終わってからの立ち姿がまるで違います。周りからは「10歳,若返ったね!」などと声援が上がります。動作課題ができて腰をすえて座る感じ,しっかり歩ける感じを持てるようになると,笑顔が出て晴ればれとした表情をされます。身体を思うように動かせる安心感は,やはりかけがのないものだと思いました。私はあちこちで「揉み師さん」と呼ばれ,どうやら指圧やマッサージの人と思われていたようです。
注1)動作法:脳性まひへの動作訓練から始まり,成瀬悟策が中心になって体系化した対人援助の方法。身体の動きは心理活動でもあり,動作課題で望ましい体験を得ることで,主体的な生き方の獲得を目指す。
また仮設住宅の集会所では,「リラックス動作法」と題して,みんなで同じ動きをしてもらいました。傾斜地への津波は標高の違いで,被害の差が出ます。同じ地域で肩を寄せ合って暮らして来たのに,「あそこの家は流されたけど,うちは流されなかった……」と分断されます。被災体験を話せないのです。でも「肩が凝る,腰が痛い,膝が痛い……」も,身体の動かしづらさも,共通しています。終わったときのほんわかした雰囲気で,身体感覚を通じての共感が生まれたように感じました。
私はたまたま動作法の経験があったので,使うことができました。でも身体から入る支援には,いろいろなものが考えられます。タッチタッピングやマッサージ,軽い運動でも良いでしょうし,足湯も人気だったようです。ただし力を入れて身を守っている人に,深いリラクセーション(たとえば横になって腹式呼吸をする)を勧めるのは禁物で,フラッシュバックを起こしかねません。その留意点さえ守れば,身体から入る支援は被災地で喜ばれると思います。
心理職ならでは
東日本大震災の避難所では,毎朝に支援者のミーティングが開かれていました。そこで精神科医が私に見せたてくれたのは,栄養ドリンクの束でした。「アルコール症が疑われる人には,こっちも飲んでねって渡している」と言うのです。大量飲酒でビタミンB1が欠乏し,ウェルニッケ脳症になる人がいます。医療なら入院してアルコールを切ってもらうとしても,被災地では栄養ドリンクを飲んでもらう方が現実的です。彼がしたことは医療ではありませんが,医師ならではの行為でした。
同じようにカウンセリングや心理療法,心理教育ではなくても,心理職ならではの関わり方というものがあるはずです。具体的には衝撃や喪失を聞き出そうとしない,安易に励まさない,心理的な安全を図るなど,トラウマの知識を持っているということです。また支援者としても二次受傷しないようにリスクの管理ができたり,他の支援者にもその必要性を伝えることができます。「心のケア」を前面に打ち出さず,何気ない関りが結果的に支援になっていくのが,心理職ならではの支援であると思います。
孤立を防ぐ
東日本大震災では内陸の温泉ホテルを県が借り上げて,避難所としました。その報道をテレビで見た人は,「津波で気の毒な目に遭ったのに,体育館に段ボールを敷いて寝泊りさせるのは忍びない。これで良かった」と思ったこととでしょう。温泉ホテルの「プライバシー」が落とし穴になろうとは,だれも考えなかったと思います。
私はその一軒の様子を,見に行きました。ロビーでタバコをふかしている男性が三人いたので,話しかけてみました。「おかしいのさ。家も兄弟も仕事も財産も,みんな津波に持っていかれたのに,涙がまったく出てこねえ。悲しいとも思わねえ。おれたちはタバコを吸いに降りて来るからまだいいけど,中にいるやつらは何考えてるか分からねえ。朝から晩までテレビとにらめっこさ」と,べらんめえ口調で「中にいるやつら」のことを案じていました。
「悲しくない」のは,解離でしょう。そうしないと,生きていけないほどの衝撃と喪失だと思います。保健師さんによると,末期がんでも受診を拒否している人が,そのホテルには二人いました。温泉ホテルは一泊か二泊,プライバシーを守りながら快適に過ごすように造られています。客は食べる,風呂に入る,寝る以外は何もしなくて良いし,用がなければだれとも話しません。スタッフも,入居者のプライバシーを侵さないようにもてなします。その仕組みが裏目に出て,孤立を招いているように見えました。
仮設住宅で電話をするときには,外に出ないと隣家の人に丸聞こえでした。そんな話をしてこぼしていた人が,鉄扉の復興住宅に引っ越したら,「仮設の方が良かった」と言うのです。プライバシーと「人がいる安心感」は,トレードオフです。このホテルに関しては,点呼や役割分担などで孤立を防ぐように進言しましたが,「プライバシーに踏み込めない」ということで結果的には何ともなりませんでした。臨床では安全配慮義務が守秘義務に優先しますが,ふだんホテルで働いている人に理解してもらうのは難しいようでした。避難所や仮設住宅の運営で心の安全を図ることも,心理職ならではの支援になっていくと思います。
現地の人は疲れている
熊本の震災では,スクールカウンセラーの派遣事業に応募しました。現地で受け容れて下さった先生からは,「学校の中をぶらぶら歩いたり,職員室でのんびりお茶を飲んで新聞を眺めていてください。そういう人を見ると,私たちは安心できるんです」と言われました。「遠くから来たのに,することがない」とぼやく人もいたようです。
私は言われた通りに校内をぶらぶら歩き,生徒から「岩手って方言あるんですか」と聞かれ,「あるなんてもんじゃないよ,もうあり過ぎて……」なんて授業中におしゃべりをしました。先生に「どうして生徒はサンダルを履いているんですか」と訊ねたら,「靴のかかとをつぶさないように,いくら指導してもダメだった」ということでした。「君も部活をしよう」というポスターが廊下に張られていて,100%参加の岩手県との違いにも驚きました。
最終日の会合の終わりに,熊本の先生方から私たちスクールカウンセラーに感謝の言葉がありました。私は「このままでは,終われない」と思いました。先生方の表情がとても疲れていて,辛そうだったからです。私たちのスケジュールを組むだけで精一杯で,学校での業務を組みこむゆとりもなかったのでしょう。それは東日本大震災のときに,岩手県臨床心理士会の事務局が山のような問い合わせで大変だったことからも,推測できました。
「私たちは,学校に行くだけで感謝をしてもらえます。でも先生方は被災されて,通常業務をこなしながら,私たちの世話をしてこられました。感謝の気持ちをこめて,先生方に拍手を贈りたいと思います」と発言しました。満場の拍手で閉会したあと,男性が追いかけてきました。「分かっていただいて,ありがとうございます」と,涙ながらに心情を語っておられました。
合宿所で雑魚寝の生活だったので,他県の人たちの事情もうかがい知れました。各県から派遣された,言ってみれば代表です。面接や心理教育を求められても対応できるように,事前学習をして来られたのだと思います。そして夜は遅くまで報告書を書いたり,メールで連絡を取っていました。その意気込みが空回りして,現地の人たちとの間に緊張を生んでいたのかも知れません。
雨ニモ負ケズ
私が暮らしている花巻市は,宮沢賢治のふるさとです。童話作家や詩人として知られていますが,彼が軸足を置いていたのは科学でした。文学者を志していたのではなく,世の中を変えようと本気で思っていたようです。有名な「雨ニモ負ケズ」には,農民を助けようとした賢治の理想像が描かれています。その一節に「ホメラレモセズ,苦ニモサレズ」とありますが,これは「ホメラレモセズ,ケナサレモセズ」ではありません。苦にされてしまうと人助けが成り立たないことを,賢治は良く知っていたものと思われます。
熊本で言われた「のんびりしてもらえば,私たちも安心できる」は,ポリヴェーガル理論注2)にも合致しています。耐性領域に入っている人は,表情や声の調子がリラックスしています。自律神経による協働調整が働いて,相手の人も耐性領域に入ることができるそうです。それも「雨ニモ負ケズ」では「欲ハナク,決シテイカラズ,イツモシズカニ笑ッテイル」と記されています。
注2)ポリヴェーガル理論:神経行動学のS.ポージェス博士によって提唱された,自律神経についての理論。副交感神経には腹側迷走神経と背側迷走神経の二系統があり、交感神経との三系統で体内調節と適応反応を司っているとする。私たちは安全を感知すると,腹側迷走神経複合体の働きで耐性領域に入って社会交流ができる。
こうしたゆとりのある態度は理想論ではなく,うまく行く方法としてあったのだと思います。賢治はとても合理的な人で,たとえば教え子を岩手山に連れて行く前には,低い山を一緒に登ったそうです。「お前だったら大丈夫」と励ましてから,挑んでいます。また「セロ弾きのゴーシュ」では主人公が音楽に感情をこめていることや,動物たちを癒してきたことに気づくプロセスが描かれています。心理療法でいうリソースの活用まで,視野に入っていたのでしょう。
結局は助け合い
東日本大震災が起きてからしばらく,私は過覚醒の状態でした。夜ふかしをしていても,眠くなりません。また激しく揺れていたときの恐怖,信号の消えた不気味な道路,津波の被害に遭った町の様子なども,よく思い出しました。その他にも報道された津波の画像,福島原発のメルトダウン,仕事や暮らしへの不安など,ストレスでいっぱいだったように思います。
避難所の時期には現地の人と一緒にリラックスできたり,仲間たちと行動できる,そういったことが自分の元気につながっていったようにも思います。仮設住宅ができてからは,自分が好きなコーヒーや音楽を通じて,楽しんでもらうこともできました。実は自分の方が励まされたり,リソースを活用できていたのかもしれません。それとともに人と人のつながりを,身体で感じることができました。
人生の偶然で被災したとしても,弱者や困窮者として支援を受けたい人はいないでしょう。自分には生きる力があるし,安心して暮らせると思いたいはずです。それは津波の来ない高台に引っ越しても,終わりではありません。庭も縁側もない新しい街並みはコミュニケーションが生まれにくく,リタイア世代と現役世代との分断を生んでいるようにも思えます。地域の活性化まで視野に入れることはできますが,果たして自分たちがどこまでできるのか,できる範囲での支援ができればと考えています。

青山 正紀(あおやま・まさのり) あゆみカウンセリングルーム(岩手県花巻市) 資格:臨床心理士,公認心理師