畑中千紘(京都大学大学院教育学研究科)
シンリンラボ 第42号(2026年9月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.42 (2026, Sep.)
1.古代から平安期のトイレ
1)交わりの場としての「交屋」
前回,自然の中で排泄をしていた古代から,平安時代に不浄という観念が現れるまでの変遷を見てきた。トイレの話ばかりでついていきにくい読者もおられるかもしれないので,あらためて先に注釈を入れておくが,本稿では繰り返し排泄物や「不浄なもの」について述べていくことになる。これらは「私たちの内から出てくるものでありながら私たちにとって受け入れにくいもの」という意味をもっている。アグレッションと同等のものとして(たまに頭の中で読み替えながら)読み進めていただけると幸いである。現代社会において,アグレッションはどちらかといえば適応から遠いもの,ない方がよいもの,意識したくないものとして扱われているが,それは当たり前のことではない。このことを考えるために排泄物とその処理について考えてみることは大きなヒントとなると筆者は考えている。
話を本題に戻そう。8世紀初期に編纂された『古事記』においては,スサノオノミコトが神殿に糞をまき散らすことが乱暴狼藉として描かれていて,当時から排泄に対しては汚く不快なイメージが持たれていたことがうかがえる。しかしその一方で,『古事記』には美しい女性に恋した神(大物主神)が川で排泄中の彼女のほと(陰部)をついて結ばれるという説話注1)も残されている。厠(かわや)の語源を「交屋」とする説もあるように,古代における排泄の場所は男女や生死,さらにはこの世とあの世が交わる境界的な場でもあった。
注1)大物主神は勢夜陀多良比売という娘の美しさに,一目惚れをする。彼女が川の溝で用を足しているところに,大物主神が「丹塗矢(赤い矢)」に姿を変えて彼女のほとを突き,二人は結ばれる。
2)抱え込まない人々と不浄あふれる街
平安中期につくられた法典『延喜式』の「触穢(しょくえ)」の条項には,宮内への出入りや神事への参加が一定期間禁止される様々な穢れが定められている。そこには人や家畜の死,出産などについての厳しい記載があるものの排泄については言及されていない。排泄が日常的な営みであり,禁じることは難しいという現実的な事情はあるだろうが,排泄が「個人に付属する穢れ」として見なされていたわけではなかったことが示唆されている。
平安京というと華やかなイメージもあるかもしれないが,前回にも述べたように,庶民たちが公道などで排泄していたため,都市としての衛生問題は深刻であった。『延喜式』では,自邸の前にある側溝や道路を土地の所有者や居住者が定期的に掃除することを義務として定めたり,便所ではない場所でみだりに排泄をすることに対しての罰則が設けられている。これは前出のスサノオノミコトの犯した罪にも関連するとされつつも,「共同体の破壊,妨害」を防ぐ意図が強く(大野,2006),あくまで共同の街路や水田の保全を目的としていた。たとえば現在でも,自宅の前に鳥の糞が落ちていたら,不快には思うかも知れないが,どの鳥の糞なのか,個体を識別しようとする人はあまりいないであろう。排泄物が自然や環境に溶け込んでいれば,排泄行為を特定の個体と結びつけて負の意味づけをする発想は生まれにくい。古代においても,排泄物は汚く臭いものではあっても,あくまで個人とは切り離された外側の汚れであった。それは人格や生き方とは関係のないものとして,自己の内面に引き受けられることなく,外へと押し流されていくものだったのである。
2.不浄をおさめる「箱」と内面化の萌芽──平安貴族のトイレ
1)寝殿造の空間構造と樋箱の誕生
どの時代においても,庶民と貴族階級は異なる生活形態をもっていることが多いが,平安期においてもその格差は顕著であった。貴族たちが暮らした寝殿造の邸宅は,頻繁に行われる儀式や宴に対応するため,柱や仕切りを中心とした開放的な構造で,必要に応じて空間を変更できるよう作られていた。そのため,建物内に固定されたトイレという部屋は存在せず,樋箱(ひばこ)と呼ばれる携帯式の便器が用いられていた(李家,1984)。当時,女性はいわゆる十二単を着ていたこともあり,用を足す際にはお付きの者たちが着物や長い髪が汚れないよう持ち上げ,用が済むと係の者が樋箱を片付けるという大がかりなやり方をしていたようである。樋箱はポータブルなおまるのようなものであり,庶民の野外排泄に比べれば排泄者個人と排泄物の結びつきは強いようにも見える。
2)平安貴族たちの秘められた私性
『宇治拾遺物語』巻三にある「平貞文,本院侍従の事」という物語はこの時代の貴族の男の執着と幻滅を描いたものである(高橋・増古注,2018)注2)。どんな女性も意のままにしてきた平中(平貞文)という色好みの男が,本院侍従という女性にアプローチをするが,彼女はつれなくなびかない。平中はこんなに苦しい恋なのであれば,いっそのこと,“彼女の樋箱の中を見よう,そうすればあまりの汚さにその気持ちも冷めるだろう”と考えて,侍従の君の樋箱を盗ませる。しかし盗んだ箱には,汚物ではなく香しい香木などが詰められており,幻滅どころかますます恋しい思いを募らせるというお話である。この物語における排泄物は,女性個人の隠されるべき恥部として繊細に捉えられている。それが身体のきわめてプライベートな領域に属する「影」の部分であるからこそ,男の欲望と執着を引き寄せたのであろう。排泄物が個人の不浄として内面化されつつあることがうかがえる。
注2)13世紀前半に編まれたものであるが,物語の舞台は平安前期である。
3)流動的処理とトイレ空間の不在
とはいえ,平安後期に至っても,身分にかかわらず排泄を行うための固定された区画(トイレ)は依然として誕生していなかった。身体から出される不浄なるものは,樋箱という可動式の容器と他者(従者)の手を介してその都度その場で処理されたり,自らの生活空間とは離れた場所にうち捨てられたりと,自分とは関係のない外部で流動的に処理されるにとどまっていた。つまりそれは,まだまだ人々の「内」側において意識され,引き受けられるようなものではなかったといえるだろう。
3.欲望と循環が生んだ囲い込み──トイレの分節化と価値の転倒
1)「下肥」の利用とトイレ空間の分節化
平安時代後期から鎌倉時代にかけて,排泄の場は次第に固定された設備へ移行していく。その最大の要因は,米などの生産量を増やすための方略として,人の屎尿を肥料として使用し始めたことである。稲作が本格化し,米や麦の二毛作,三毛作が行われるなかで,人の糞尿がすぐれた肥料になるという知恵が普及すると,どのように良質な「下肥(しもごえ)」を効率よく収集・貯蔵するかが切実な課題となっていく(谷ら,1984)。ごく初期には地面に掘った穴に直接用を足して溜めていたが,壁面の崩れを防ぐための木枠の設置や注3),発酵を促すために素焼きの大甕(おおがめ)や木桶を埋め込む手法など,きわめて実利的な工夫も行われていった(黒崎,2009)注4)。こうして庶民のトイレは,純粋な衛生上の要請からではなく,肥料の収集・保管という経済的・実用的な目的において,独立した固定空間として都市や集落の中で分節化されていったのである。
注3)平泉 柳之御所遺跡(12世紀)など
注4)古代までのトイレ遺跡には身体を拭くために使っていた木切れが一緒に採掘されるのだが,この時代からはそれらが一緒に見つかることはなくなるといい,それも屎尿のみを堆肥として利用するためであったと考えられている。
2)不浄と豊穣の両価性
排泄物が農作物を育む肥料となったことで,それまでは外へ捨て去るべき汚れであった排泄物は,“商品”というプラスの価値をもつものへと転換した。大切な糞尿を日差しや雨などから守るため,その貯蔵場所は屋根や壁によって囲われていくことになる。谷ら(1986)によれば,当時の便所にかけられていた屋根は「現在でいうところの『天地根元造り』に似て,伊勢神宮をはじめ神社本殿建築の原形」ともいわれる形式であったという。これは,構造が簡素で施工が容易という技術的・実用的なメリットを持つと同時に,不浄で忌避されるべき物体が,人々の生活や生産を支え,豊穣をもたらすものとして両義的な対象へと変容したことの象徴であるようにも思われる。
3)江戸の循環システムと市場の肥大化
排泄と生産の循環システムは江戸時代にほぼ完成の域に達する。江戸の都市人口の爆発的な増大と,それに伴う農作物需要の拡大に対応するため,江戸の町中で収集される糞尿を周辺の農村へ供給するという大きなリサイクルシステムが成立し,江戸郊外の農業は大きく発展した。下肥の需要が高まるにつれ,庶民が収益目的で「辻雪隠」なる公衆トイレを設置するなど,“糞尿ビジネス”は拡大の一途をたどる注5)。市場の拡大に伴って,不正取引などのトラブルも頻発し,高騰する下肥価格の値下げを求めて,寛政,文政,天保,慶応の4期に渡って農民側による下肥値下げ運動が展開されたほどであった(根崎,2024)。
注5)大根や現金などとどんな風に具体的に取引されていたかまで,多くの資料が残されている。
このように,排泄物は捨て去るべきものから,富を生むものとして,時には戦いや運動の的になるほどの欲望の対象となった。これに伴い,トイレという空間もまた,価値ある財産を確実に捉え,囲い込むための設備という意味合いを深めていく。かつてのトイレは,「川屋」とも呼ばれたように,水で排泄物を押し流す構造が基本であった。これに対し,一定期間溜め置いた後に回収・搬出する処理様式がメインとなったことで,トイレは水回りに作るという配置上の制約からは解放されることになる。その結果,トイレは収集と搬出に都合がよく,臭いなども気になりにくい家屋の端や脇などに肥溜めとして配置されるようになっていった。本来ならば排除してしまいたい不浄をあえて自分の身近な空間に留め置き熟成させることが自らの財産につながっていく。見たくない「影」と向き合い,付き合い続けることで豊かになっていくプロセスはユング心理学におけるこころの成長にも似ている。
4)禅宗における浄めの視点と「お手洗い」
一方,汚物を溜め置くくみ取り式便所の普及は,水で洗い流して浄化するという物理的かつ精神的なプロセスをトイレから奪うことになった。汚れや臭いを流し去ることができないことは,日常生活にも大きな影響を与える変化であったことだろう。これに大きな影響を与えたのが,鎌倉時代に宋から輸入された禅宗である(太田,1999)。手水鉢にたたえられた水で手を洗うことは,単に汚れを落とすという物理的な目的にとどまらず,精神的・象徴的な意味を持った作法として行われることになっていく(荒俣,1990)。現代でもなお「お手洗い」という呼称が広く定着していることは,浄化するという思想や作用が日本でいかに広範に浸透しているかを思わせる。
4.自らの不浄と向き合う──仏教的思想と清める作法
1)個室化の定着と「厠念仏」
トイレの設備・構造に話を戻すと,鎌倉から安土桃山時代にかけて,排泄行為を他者の目から隔てるトイレの個室化が誕生し,定着していく流れをみることができる。
鎌倉時代末期から南北朝時代のものとされる『法然上人行状絵図』(弘願本)には,個室化したトイレの様子がはっきりと描かれている。図像には個室トイレにまたがり用を足す法然上人(1133-1212)と,段下で控える弟子の様子が描かれ,弟子と話すためなのか扉は開いた状態だが,板扉には内錠がつけられているのも見て取れる。ここから,鎌倉時代にはすでに現在のような「囲われたトイレ空間」が誕生していたことが認められるだろう。排泄が密室で行う個人的な営みとして捉えられている点で,ひとつ前の時代とは一線を画していると言える。この場面は「不浄にて申す念仏のとがあらば召し籠めよかし弥陀の浄土へ」という和歌と共に,いわゆる“厠念仏”として知られている。歌にも不浄という語が使われているが,これはトイレのような汚れる場所であっても念仏を唱えることで必ず浄土への救いがあるという境地を詠んだ歌である。当時の人々にとって,排泄という不浄の状態が,自らの救いや悟りを遠ざけてしまうのではないかという不安を喚起するものであったからこその教えであり,ここからは排泄が個人の価値や生き方の本質と不可分な不浄として体感されていたことが読み取れる。
2)法然から道元へ──影の受容と統合
禅宗の一派である曹洞宗注6)の開祖,道元(1200-1253)が記した『正法眼蔵』に「洗浄」という巻注7)がある。そこには,トイレに行くことも仏行の一環であるとして,そこでの作法や立ち居振る舞いについて記されている。その記載は,前後左右を汚さない,衣類を汚さぬように掛ける,水だけではなく灰などを用いて段階的に手を洗うなど,驚くほど具体的で緻密である。道元は,水も身も本来は浄でも不浄でもなく,ただその行いを丁寧に進めること自体が仏法そのものであると説いている。つまり,きれいな状態と汚れた状態を単純に二分し,前者のきれいな状態への移行を目指すのではなく,身を清めるというその瞬間の行為そのものにおいて,逃れられない生の不浄さや身体の現実──心理学的に言えば影の部分も含めた自身の全存在を引き受け,向き合っていくところに真理を見出していたといえるだろう。
注6)いずれも鎌倉新仏教を代表する高僧であるが,生きた時代は法然が鎌倉初期,道元が鎌倉中期頃である。
注7)13世紀前半に説かれたとされる
法然は,阿弥陀仏は「浄き穢き」の区別をせず,念仏さえ唱えれば誰でも救われると説いており,穢れと向き合うというよりも,それは他力によりそのまま肯定されるものであった。一方,道元の立場はそのような超越的な救済に委ねるのではなく,不浄なる現実を受け入れた上で,丁寧に身を清めるという現前の行為に徹する姿勢をとる。ここには,自らの不浄をなかったことにせず,身体的実践を通して自らの存在の中に引き受けていこうとする,より統合的な関わり方をみることができるだろう。
5.都市構造にみるオモテ/ウラの発生と不浄の昇華
1)ウラ側へ不浄を隠す
16世紀前半には,都市全体に社会的・空間的な構造としてのオモテ/ウラが形成されていく。特に京都では,豊臣秀吉が多くの南北方向の道を通していった注8)ことから「通り(おもて)」と「路地(うら)」に空間が二極化していった。この時代の京都の景観を描いたとされる旧町田家本『洛中洛外図』からも,トイレや風呂などの水回りの設備がまとめて建物の裏側に配置されていたことがうかがい知れる注9)。ポルトガル人が編纂した『日葡辞書』にも「Vra(うら)」という項目があり,「家の背後,また家のうしろにある狭い土地,便所」という注釈がつけられているという(高橋,1991)。都市全体が,空間構造の中でトイレを公的で開かれたオモテ側ではなく,より私的で閉じられたウラ側に隠蔽する感覚が根付き始めていたことがわかるだろう。
注8)天正の地割や太閤検地などの施策と関連が深い
注9)広島県の吉川元春館跡でも同様に建物裏手へのトイレの配置が確認されている
この頃には武家住宅を中心に書院造が取り入れられた。書院造は主室と従属的な空間が分離された構造を特徴とする。対面や儀礼を重視する公的なオモテの部屋と,日常生活を営む私的なウラの部屋が壁や襖によって明確に区切られる中で,不浄を伴うトイレは,家屋内においても最深部や裏手へと隠され,固定化されていったのである。
2)堺にみられる表通りのトイレと聖俗同居の文化
一方,堺環濠都市遺跡のトイレ遺構を調べると,表通りに面した町家の入口付近に設けられていることが多く,京都とは全く対照的な空間配置が観察されるという。当時,日本に滞在した宣教師の記録にも,家屋の前方にトイレがあり「みなに開放されている」ことに驚いたという記述が残されている(黒崎,2009)。これは,通りを行き交う人々から貴重な下肥を効率的に集めるためのきわめて経済合理的な工夫であったと推察されている。飯島(1986)は,民俗学的立場から,玄関や座敷などの公的な空間領域が表側であるのに対し,厠は暗く汚いイメージが伴う,直接生命にかかわる私的な領域にあることを指摘している。
しかし,堺の事例が示すように,実際の日本の都市においては表通りの最前線に排泄という私的不浄が堂々と張り出す構造も存在した。ここには,「オモテ/ウラ」,「公/私」,「聖/俗」などを二項対立として厳密に切断・分離するのではなく,両者の境界線を意識しながらも,それらを曖昧なグラデーションのまま包摂・同居させてしまう大らかな心理構造を見て取ることができる。たとえば神社や寺社仏閣で境内に露店が立ち並んでいたり,歓楽街のビルに神様が祀られているなどは,外国人からすると驚きの風景であるらしい。神聖な空間と世俗的な欲望や賑わいをごく自然に併存させてしまうのが日本人の基層にある感覚なのだ。都市の顔である表通りに最も隠すべき不浄が露出しているのも,これと同様に二元論で割り切らない日本特有の境界感覚の現れと言えるかもしれない。
3)千利休の「砂雪隠」──不浄を美的に昇華する
排泄物を裏側の不浄として隠すのでも,あるいは実利的なものと割り切るのでもなく,洗練された美意識へと高めて見せたのが茶室における「砂雪隠」である。安土桃山時代,小田原北条攻めの際に太閤豊臣秀吉のために千利休が考案したのが始まりと言われる。砂雪隠とは一坪ほどの広さに川砂を敷き,中央に掘った穴を囲って自然石を据え,便器と見立てたものであり,現在でも桂離宮などで見ることができる(図1)。茶の湯における清浄の精神やもてなしの美学を視覚的に提示する観賞用の「見せるトイレ」であり,実際に排泄を行うためのトイレは「下腹雪隠」として区別して設けられている。「自然に寂びを見,これをあはれの感覚で眺めようとする気風」(荒俣,1990)を背景とし,最も汚い場所であるはずの便所を徹底的に清めて客を迎えることで最大のおもてなしを示す──これは,否定的に捉えられていた不浄の中にこそ美を見出し,それを文化として引き受け昇華させていく「侘び・寂び」の境地であり,心理学的に言えば内面的統合のひとつの到達点ともいえるだろう。


図1 桂離宮の外腰掛(腰掛の内側に砂雪隠が布設されている)
(出典:宮内庁ホームページ https://kyoto-gosho.kunaicho.go.jp/building/2A104)
なお,利休は堺の豪商の家に生まれ,その生涯の大半をこの町でくらした。堺は商人町として合理主義的で開放的な町人文化や禅宗の精神文化を基盤に持ち,一種の治外法権的な自由な風土をもつ町であった(網野,1996)。堺は経済合理性と精神性が併存する都市であり,利休はその両面を身体知としてもっていたからこそ,排泄という究極の影を単に隠蔽するのではなく,茶の湯という聖なる領域に引き入れ,極限までそぎ落とされた美へと反転させることができたのかもしれない。
6.おわりに
当初はトイレをめぐる論考は2回で完結させる予定であったが,人間の不浄との関わりの歴史は想像以上に厚く今回では収めきることができなかった。とはいえ,現代のきれいなトイレにたどり着くにはまだ少し時間を要する。そこで,次回は本連載の主題である「不可視化するアグレッション」に立ち返り,狭義のアグレッションとしての「攻撃性」が歴史の中でどのように現れ,体験されてきたのかをたどってみたい。ここまで「不浄」の歴史として見てきた流れを重ねてみることで,アグレッションがたどってきた道筋がより立体的に見えてくるのではないかと思われる。
文 献
- 網野善彦(1996)無縁・公界・楽 増補.平凡社.
- 荒俣宏(1990)厠,便所,「トイレの起源とは」.In:阿木香・遠州敦子・ 林丈二・ 本間都・荒俣宏・谷直樹・舟杉真理子・伊奈英次:日本トイレ博物誌.INAX,pp.5-23.
- 飯島吉晴(1986)竈神と厠神—異界と此の世の境.人文書院.
- 黒崎直(2009)水洗トイレは古代にもあった—トイレ考古学入門.吉川弘文館.
- 永井義男(2016)江戸の糞尿学.作品社.
- 根崎光男(2024)大江戸トイレ事情.同成社.
- 大野徹(2006)アジア伝統社会における刑罰制度.大阪外国語大学論集,33; 103-130.
- 太田博太郎(1999)カラー版 日本建築史様式.美術出版.
- 李家正文(1984)図説 厠まんだら.伊奈製陶東京ショールーム.
- 高橋貢・増古和子訳注(2018)宇治拾遺物語 上 全訳注.講談社学術文庫.
- 高橋康夫(1991)中・近世都市の空間と構造—京都を事例として.In:関西近世考古学研究会:近世都市の構造:関西近世考古学研究1.関西近世考古学研究会.
- 山田幸一監修,谷直樹・遠州敦子著(1986)便所のはなし(物語 ものの建築史).鹿島出版会.
畑中 千紘(はたなか・ちひろ)
京都大学大学院教育学研究科
資格:公認心理師,臨床心理士,日本ユング心理学会認定心理療法士
主な著書:『話の聴き方からみた軽度発達障害』(単著・創元社),『発達の非定型化と心理療法』(共著・創元社),『SNSカウンセリング・ケースブック』(共編著・誠信書房),『SNSカウンセリング・トレーニングブック』(共編著・誠信書房)ほか











