大住 誠(大住心理相談室)
シンリンラボ 第18号(2024年9月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.18 (2024, Sep.)
積極的に治そうとしない心理療法である「瞑想箱庭療法」とその療法を通してクライエントやセラピストにおこる気づきの体験が「直観」に由来するものであることを紹介する。
1.はじめに
筆者は,開業心理士として,セラピストがクライントの内面に極力侵襲的,操作的にならないような心理療法の技法の工夫を行ってきた。そうした日頃の臨床の試みの中から自然発生的に誕生したものが「瞑想箱庭療法」である。
「瞑想箱庭療法」はセラピストがクライエントを積極的に治そうとしない技法である。この技法はクライエント自身の「自然治癒力の賦活化」に委ねることを何よりも重視する。この技法には先達がいる。先達の一人がユング派の分析家の織田尚生(1939~2007)で,箱庭療法に最初に瞑想を導入した。また,筆者は「積極的に治そうとしない」という心理療法のモデルを河合隼雄(1928~2007)から多く学んだ。さらに「瞑想箱庭療法」の東洋思想的な側面は,西田幾多郎(1870~1945)や森田正馬(1874~1930)からも学んできた。そんなところから「瞑想箱庭療法」とは統合的アプローチの療法と言える。
ここでは「瞑想箱庭療法」の概略と,この療法の治療機序が,セラピストとクライントとの非言語的で直感的な気づき(筆者はこの気づきを「自覚」とよんでいる)によって成立することを説明する。
2.瞑想箱庭療法の方法
瞑想箱庭療法とは,面接時間内に,セラピストとクライエントが同時に一定の時間瞑想して,その後クライエントは箱庭制作を行う技法である。この技法では面接時間内でのセラピストとクライエントとの対話は極力少なくして,セラピストとクライエントとの同時瞑想が行われるので,セラピストからクライエントの内面への侵入性が少ない。さらにセラピストが箱庭を一方的に解釈,分析することもない。そういう構造からもセラピストが積極的に治そうとしない方法といえる。
この技法で行われる瞑想は,ある対象(たとえば呼吸)に意識を集中して向けるのではなく,こころに感じた内容を「そのままにする」方法である。この方法によって瞑想者は「思考のプロセス」とそれにまつわる否定的な感情への囚われを離れられるようになる。そのことで日常生活では看過されやすい「感覚機能」「直感機能」が賦活しやすくなる。なお,瞑想箱庭療法では,クライエントが箱庭を置いている間もセラピストは瞑想を続ける。そして,クライエントの箱庭終了の合図とともに,セラピストとクライエントは箱庭を味わう。その際にセラピストは解釈めいたことは伝えない。ただし,瞑想箱庭療法実施前と後とのクライエントの五感の感じ方の変化を尋ねることもある。
3.「瞑想箱庭療法」の治療機序
図1 瞑想箱庭療法の構造(太い↓は,瞑想中の自我の無意識層へのシフトを示す)
「瞑想箱庭療法」ではセラピストとクライエントの自我が瞑想を通して意識の層から無意識の層へとシフトしていく(図1)。そしてセラピストとクライエントの自我が心の深層に触れると,面接空間に溶け込んでいるかのように感じることが多々ある。これは「心の深層」においてはセラピスト,クライエントがともに心身がそのまま「場」に溶け込んでいるように感じるためと推測できる。このような空間(場)を筆者は「環融空間」とよび,「環融空間」を成立させる瞑想体験を「環融体験」と名付けている。「環融空間」はカルフKalff, Dora M.(1972)がいう「自由で保護された空間」と重複する概念であるが,相違点は,カルフの場合ではそれがセラピストとクライエントとの転移関係(対他的関係性)によって成立するのに対して「環融空間」ではセラピストとクライエント各自の「環融体験」(対自的関係性)を通して形成されることにある。
「瞑想箱庭療法」ではA「布置の体験」B「象徴体験」C「サトルボディの体験」などを重視する。「布置の体験」とは瞑想中にセラピストの身心とクライエントの身心とが共鳴しあう体験を意味し,Bの「象徴体験」は箱庭に象徴が表現される体験,Cの「サトルボディの体験」とはセラピストやクライエントが瞑想を通して,肉体という準拠枠で制約される日常の身体性を忘れてしまう体験をいう。
Bの体験のみが箱庭療法を通してクライエントが行う体験であり,AとCはセラピストとクライエントとの双方に成立する体験である。いずれも「環融空間」の中での体験であり,そこでは「自他の区別,境界」はあたかも消滅しているように感じられるためである。ただし,これらの体験は毎回成立するものではない。理由は瞑想箱庭療法の初期の段階からクライエントの自我が深い無意識層に触れることは希であるためで,むしろ,初期の段階からそうした状態に至るクライエントに対しては病態水準の吟味が必要である。
なお,A,B,Cの体験の中でBの「象徴体験」は,「瞑想箱庭療法」の治療機序の核心とよべるものである。ここでの象徴とは象徴的イメージを意味し,象徴的イメージの典型がマンダライメージであることは周知の事実となっている。何故に象徴的イメージが表現されることが「治療機序」になり得るのかについては,イメージ特に象徴的イメージには「相反する心的内容」を包括(あるがままに包み)し,自我をさらなる統合性(新しい可能性)へと向かわせる働きをもっているためである。「相反する心的内容」とは「二つの相容れない感情」等に葛藤している心理的状態であり,神経症等に顕著に見られる状態である。
4.「象徴体験」と直観
前述したように「瞑想箱庭療法」ではクライエントの箱庭での「象徴表現」は「象徴体験」と名付けられる。その理由は箱庭に象徴が表現される場面においては,クライエントに何らかの「気づき」が生じ,その「気づき」はクライエントにとっての直接的な体験内容であるためである。その「気づき」はクライエントと表現された象徴的イメージとの距離がなくなり,あたかも「主客が未分化」の状態において成立する。このようにここでの「気づき」は「視覚的体験」が同時に直観的な認識になっていることに特色がある。
なお,「気づき」における認識とは,自分の現在の状況──相反する心的内容に葛藤している状態──を俯瞰しそれと距離をとれるようになる体験である。ただしこのような「気づき」は半ば意識的,半ば無意識的に生じるのでクライエントにとって明晰に意識化が出来ない場合も多々ある。ユングC. G. Jung(1987)が「直観とは,無意識的な道によって知覚をわれわれに伝達してくれる心理機能である」とも述べている所以である。にもかかわらず,クライエントからは,日常生活で気がついたら「症状がなくなったいた」とか「何故にあれほど不安であったのか理解出来ない」などと言われる。
5.「直観」から「自覚」へ
筆者はこのような直観的な認識をあえて「自覚」と呼ぶ。ここでの自覚は西田幾多郎(1870~1945)に依るものである。西田は主観と客観の対立状態を離れる経験を「純粋経験」と名付け,「純粋経験」における「直観知」を「自覚」とよんだ。「主・客」の対立を離れる経験は「環融空間」での経験に近いものを感じざるを得ない。
西田(1934)は自覚について次のように述べている
「主格未分の知るものと知られるもとが一つである直観的意識とそれを外側から眺める総合され,統一された状態,それが自覚の立場にほかならない」
ここで,西田は「知られるもの」と「知るもの」とがひとつである意識を「直観的意識」と名付けているが,西田は,そこに留まらずに,「直観的意識」には,それを眺める「反省的意識」が同時に存在すると考えた。これは西田が「直観」における認識的な側面を強調したかったためと考えられる。認識的な側面,特に反省的側面が直観において成立しなければ,「自己の状態」を俯瞰し,それを意識化する事が出来なくなる。一方で,反省的な側面がそこに生じている時には「知りもの」と「知られるもの」の未分化が損なわれ,再び「主・客」の対立状態に陥る。このようなジレンマを西田は常に生成変化する「純粋経験」の持続という視点から解決しようとしたが,筆者はここでは詳しくは触れない。ただし,「瞑想箱庭療法」では「環融体験」がそれを可能にしていることが推測される。
6.事例を通して
写真 「緑の中の女性」
最後に,事例の一部分から「自覚」の体験を報告する。事例は中学2年生の10月からいじめが原因で「ひきこもり」を続けていた女子(A子さん)のエピソードである(当時は中学3年生)。
A子さんの瞑想箱庭療法は約1年間実施され,3年生の11月に,始めて箱庭に人間の女性を置いた(写真)。それまでの箱庭では動物が多く登場していた。女性が置かれた時には何の説明もされなかったが,それから数回後の面接で以下のようなエピソードが語られた。
「先日の夕方いつものように半ばA瞑想状態で散歩をしていたら,気がついた時には近くの神社の境内に来ていました。そこには七,五,三詣でで着飾った親子連れがまだいました。とても厳かで静かな雰囲気で,B瞬間私は風景の中に溶け込んでいるような状態になりました。その時にふいに以前相談室で置いた箱庭の女性のイメージが蘇ってきました。すると,突然,思いもかけず,C「引きこもる事は私自身が自ら選んだんだ」という気持ちがわき上がってきたのです。不思議な体験でした」
エピードの中のAの部分が「環融体験」Bが「環融空間」,Cが「自覚」の体験を述べたものと考えられる。
7.おわりに
心理療法におけるクライエントの「気づき」がクライエントの「生き方」の変化をも含むことはこれまでも言われてきた。たとえば,精神分析における「洞察」,認知行動療法での「メタ認知」,森田療法における「自覚」などである。これらの「気づき」の型式,内容はそれぞれの療法によって異なるものである。特に前者が「言語化」(気づきの内容や意味を言語で説明する)を伴う気づきであるのに対して「瞑想箱庭療法」における「自覚」は直観的であり,言語化することは必須でない。ただしそのでの「自覚」には,「象徴体験」でのイメージの「可視化」が伴われているところに特色があるのではないか。今後も日々の臨床体験を通して探求を深めていきたい。
文 献
- 西田幾多郎(2004)自覚に於ける直観と反省.In:西田幾多郎:西田幾多郎全集〈第2巻〉自覚に於ける直観と反省・意識の問題〔新版〕.岩波書店,p.15.
- Kalff, Dora M.(1966)Sandspiel: Seine therapeutische Wirkung auf die Psyche. Rascher.(河合隼雄(監修),大原貢・山中康裕(共訳)(1972)カルフ箱庭療法.誠信書房.)
- C. G. Jung.(1921)Psychologische typen. Rascher.(林道義(訳)(1987)タイプ論.みすず書房.)
大住 誠(おおすみ・まこと)
1952年神奈川県,臨床心理士,博士(医学),元同朋大学大学院特任教授,東京福祉大学客員教授,現在は大住心理相談室長,聖マリアンナ医科大学医学科非常勤講師
著書
『ユング派カウンセリング入門』(単著,筑摩書房,2003年)
『現代箱庭療法』(共著,誠信書房,2008年)
『新瞑想箱庭療法:「身体感覚」から考える新たな療法の可能性』(単著,誠信書房,2016年)
『積極的に治さない瞑想箱庭療法』(共著,春秋社,2022年)等