【特集 対人支援における直感】#02 悪い予感は,外さなければならない──登山のメタファーと臨床感覚 後半:予感の身体性と臨床実践|岡村心平

岡村心平(神戸学院大学)
シンリンラボ 第18号(2024年9月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.18 (2024, Sep.)

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4.悪い予感は,はずさなければならない:虫の知らせを回避する

実際のところ,山登りが対人援助職のトレーニングにどれほど寄与するのかはわからないものの,これまで用いていた登山のメタファー,特に未知の状況に臨むにあたり慎重に足を運び危機を回避するための勘の良さというモチーフは,臨床実践を振り返るなかでさまざまな連想をもたらしてくれる。

カウンセリング応答やセルフヘルプ技法として用いられるフォーカシングにおけるフェルトセンス(felt sense)は,いわゆる直感や勘に類似するものとして連想されるが,フォーカシングを考案したジェンドリン(Gendlin, E.)は実際に,勘や予感を意味する“hunch(勘,予感)”もまたフォルトセンスの一種であると記述している1。むしろ,フォーカシングはこのような「予感」の機能にいつでもアクセスできるようにする,ある種の身体技法として位置づけられる2

“hunch”という語は,何かよくないことや事件が起こりそうだと感じされる予期,いわゆる「虫の知らせ」と意訳することもできるが,つまりこの“hunch”という感覚は,胸騒ぎや不穏な空気というような,「悪い予感」に対して用いられるものである。このような妙な胸騒ぎ,フェルトセンス,違和感というのは,私たちが直面しているある状況下において,このままではまずい時,何らかの変化が求められる際に到来する。もちろん,「いい予感がする」と感じられる場合もあるだろうが,「(あっちよりも)こっちの方がいい」というような,相対的に正しい選択肢を指し示す場合の方が想像しやすい。先述の経験豊かな登山家たちが妙な胸騒ぎにふと足が止めるときのように,どうしてかはわからないが,気になる何か(hunch)として,何かよくない感じ,悪い予感は,私たちの身体に到来する3

とはいえ,私たちは多くの場合,日常場面でそのような予感めいたものを経験したとしても,たいがいは実際にその悪いことが実際に起こった後で,事後的に「やっぱり…いやぁ,悪い予感がしていたんだ」と,言ったりすることの方が多いのではないだろうか。いや,自分は事前に気がついていたんだ,と。むしろ,悪い予感が当たったような事態の方がつい「自分の勘は当たりやすいのだ」と悦に浸ってしまいかねない。

しかし,極限状況や危機場面においては,このような妙な胸騒ぎは,その兆候が現実になってしまうことは非常にまずい。悪い予感は,外さなければならない。本当に勘の鋭い人たちは,卓越した山岳ガイドたちがそうであるように,その悪い予感が現実にならないよう,回避するだろう。さらに言えば,勘というものはそういう意味で本来,「外れる」ようではまずいのである。意図的に「外す」ことが大事なのだ。

未知の道のりを進むとき,胸騒ぎや勘,予感のような曖昧だが確かに感じられる直感の類をどのように扱うか。直感は,それが本来的にうまくはたらく時,その歩みを後押しするというよりも,一旦はその歩みを慎重にさせるように機能する。

四方を藪に囲まれた時に,どちらに進むべきか。あるいは岩壁に手をかける時,その岩肌は崩れず自分をしっかり支えてくれるだろうか。確証はないが,おそるおそる試してみる。その時,私たちの感覚は鋭敏になる。この方向は違う気がする。こっちの方がいいかもしれない…と。

私たちが困難な状況に臨む際に,周囲の微細な情報を細やかに捉え,未来への「予感」を感受する人間の本性について特に注目していたのが,やはり山の喩えを用いた中井久夫であった。

5.予感と徴候:危険へのアンテナ感覚

中井(2007)は,『徴候・記憶・外傷』に収録されている「世界における索引と徴候」のなかで,私たちの世界のかかわりのなかでも,特に未来に関する語句として「予感」と「徴候」という用語を導入して論じている4。この二つを,それ以前にも中井が統合失調症者と特徴して取り上げた先取り的な認知様式(微分回路的認知,あるいは徴候的認知)として捉えており,特に『分裂病と人類』(中井,2013)においては,統合失調症者に特有の「世界の僅かな差異に微細に応答する特徴」を人類が有するある種の気質(S親和者気質)として,人類史的な視点から位置づけることを試みている。

「徴候」とは,狭義には病気の徴候(sign)という時のように,微熱や咳などの症状など目に見えない何か(ウィルスへの感染)を示していることを意味するが,中井はこれを広義の意味での「在の非現前」,つまり今ここにあるはずものが無いこと,隠されていること示す。一方で,「予感」とは「非在の現前」,未だまだここに存在していないものが,曖昧なままではあるが,確かにそこに感じられるような事態を指す(中井,2007,19頁)。予感の身近な例として,中井は「夏の激しいしゅうの予感のたちこめるひととき」という,誰しもが経験しているであろうイメージを示す。まだ降ってはいないけれども,確かに雨の気配がする,独特の匂いが感じられる。この経験は,山岳ガイドの佐伯富男が,風の匂いのわずかな変化から,嵐の予兆を感じ取るあの卓越した勘の良さと連続しているのかもしれない。

上記のような,予感というものに特徴である微分的認知の持つ私たちの先取り的感覚は,別の文脈では「アンテナ感覚」という表現を用いて扱われている(中井,1986)。アンテナはわずかな電波をもキャッチできるが,感度が高くなるほどにノイズも多く含んでしまう。この予感的なものの危うさと,その精密で繊細な機能の仕方の両方を,患者自身とも体験的に共有するために,中井は実際に面接でも「アンテナが敏感になりすぎているのかもね」というような使い方で,この言い回しを予感的な何かを取り扱うための共通言語として用いる。このアンテナ感覚は,サリヴァンのいうalertnessという語の「超訳」としても用いられるが5,これはまさに気象警報速報が流れる際に鳴り響くそれのような,警戒を知らせるサインとしてのアラートを意味している。

人間のアンテナ感覚は,厳しい状況下を生き吹くためには不可欠であろう。実際に,先取り的思考は狩猟最終時代や大航海時代など,先行きの見えない時代にこそ重宝され,生存に有利であったために,人類にはこの先取り的な気質が備わっているのではないか,と中井は大胆な指摘を行っている6。山岳地帯の道なき道を歩むとき,私たちは自ずと未知の危険への予感を感受するアンテナ感覚に接近する。フォーカシングにおけるフェルトセンスは,私たちが生きている状況や直面する問題に端するある種のアラートとして,まずは立ち止まること,回避すること,このままではまずいことを予感させている。

6.勘の良さと嗅覚

悪い予感を感受する力,危険へのアラートを察知する力について,中井(2004)はギンズブルグによる「徴候的知」,また中村雄二郎の「臨床の知」と並べて,世界のなかに潜在している偶有性を見出す「セレンディピティ」の知とも呼んでいる。支援過程という山を降りることは,多くのクライエントにとって,そして支援者にとっても,整備された登山道に沿って歩く道のりというより,偶有性に満ちた藪の中を分け入ったり,雪中行軍のような未知の道のりをわけ進むようなイメージを思い浮かべる7

中井は,もしセレンディピティを体験したいのなら「練達の植物学者と山道を行くとよい」と記述している(中井,2004,27頁)。自然の中の徴候を捉えるためには,卓越した登山家やフィールドワーカーのような,予感に開かれた身体性が求められるのだろう。危険だけでなく,そこにある豊かなサイン,実際に,山で道に迷うという体験自体が,むしろ世界という偶有性自体が徴候化する契機となると中井も指摘している8。まさしくのその身体性を体現しているかのような中井自身の記述には,嗅覚的な表現が多い。生まれ育った街や訪れた山々の記述にも,香りの記述が散見される9

そもそも「世界における索引と徴候」は,文末で中井自身が「匂いの記号論」と呼んでいる。「危険な香り」という表現もあるが,危さや怪しさはまず,わずかな徴候として,匂いとして到来する。だから勘のいい人のことを,眼でも耳でもなく「鼻が効く」と形容するのだろう。

文  献
  • Frankl, V. E.(1946)Ein psychologe erlebt das konzentrationslager. Verlag Jugend & Volk.(池田香代子(訳)(2002)夜と霧 新版.みすず書房.)
  • Frankl, V. E.(1995)Was nicht in meinen Büchern steht. Quintessenz.(山田邦男(訳)(2011)フランクル回想録:20世紀を生きて.春秋社.)
  • Frankl, V. E.(1987)Berg und Sinn.(赤坂桃子(訳)(2014)山の体験と意味の経験.現代思想,41(4); 31-37.
  • 古川高子(2020)20世紀初頭オーストラリアにおける労働者たちの登山思想.日本山岳文化学会論集,17; 13-26.
  • Gendlin, E. T.(1986)Let your body interpret your dreams. Chiron Publications.(村山正治(訳)(1998)夢とフォーカシング.福村出版.)
  • Gendlin, E. T.(2017)A process model. Northwestern University Press.(村里忠之・末武康弘・得丸智子(訳)(2023)プロセスモデル:暗在性の哲学.みすず書房.)
  • 磯野真穂(2022)他者と生きる:リスク・病い・死を生きる人類学.集英社新書.
  • 松永K三蔵(2024)バリ山行.講談社.
  • 中井久夫(1998)最終講義.みすず書房.
  • 中井久夫(2004)徴候・記憶・外傷.みすず書房.
  • 中井久夫(2007)こんなとき私はどうしてきたか.医学書院.
  • 中井久夫(2013)新版 分裂病と人類.東京大学出版会.
  • 岡村心平(2021)山岳ガイドの身体性:「勘」の分析試論.関西大学東西学術研究所紀要,54; p.201-221.
  • 岡村心平(2021)「ジェンドリン哲学」登山ガイド (4): 山に登った心理学者たち、ロジャーズとフランクル.https://note.com/shimpeiok/n/n49cf1814808a
  • 佐伯富男(1973)あるガイドの手記.二見書房.
  • 鷹沢のり子(2001)芦峅寺ものがたり:近代登山を支えた立山ガイドたち.山と渓谷社.
  • 岡村心平(2022)予感する身体:治療文化論的考察.関西大学東西学術研究所紀要,55; p.147-185.
  • 山本正嘉(2024)登山と身体の科学.講談社.
脚  注
  1. 「「……な気がする(hunch)」というのも一種のフェルトセンスです。しかし「……な気がする」というのはまれにしか起こりません。フォーカシングは,いつでも好きなときに,「……な気がする」という感覚を感じさせる1つの」方法です。ここでは特に,それを「予感(hunch)」と呼ばないことにします。なぜなら,この言葉はもっと特赦意味を持っているからです。私たちはそれをフェルトセンスと呼んでいます」(Gendlin,1998,123頁) ↩︎
  2. 身体的に感じられるフェルトセンスが,なぜ私たちが抱える問題やその状況の理解を予感し,先取りしているのかをめぐっては,拙論「予感する身体」において,ジェンドリン哲学や予感の臨床的意義を参照しつつより理論的に検討していることを付記してきたい。 ↩︎
  3. フォーカシングの考案者であり哲学者であるジェンドリンは,私たちの身体や体験がいかにして新しさを生み出すかを『プロセスモデル』をはじめとする一連の著作で,独自の身体論を展開する。私たちの身体は環境と直接的に相互作用しているが,気分や雰囲気,フェルトセンスを含む身体に感じられる漠然とした感覚は,環境との関わりの中でも身体自身が求めるが,そこにはまだ存在しない何らかの「欠如(missing)」が対象として立ち現れたものである。それゆえに身体は自身の変化自体を含意しており(implying),そのような感覚的な対象から,状況や問題についての新たな理解が到来すると捉えた(Gendlin,2023,岡村,2022)。『プロセスモデル』では,生きている身体が「時間」を生み出すという発想から時間をとらえており,過去・現在・未来が直線的ではなく,身体において含意され相互影響している(interaffecting)と捉える。これは,後述する中井(2007)の「世界における索引と徴候」をめぐる議論で展開される時間論と類似している。中井は未来への「予感」や過去への「余韻」,その現前に近似するものとして,「風合い」や「味わい」,「雰囲気」という感覚的なものを挙げているが,これはジェンドリンのいうフェルトセンスと重なる。ふとある風に乗った花々の匂いに感化された場面を,中井は次のように語る。「私を押し包んでいたのは,この,かすかな予感とただよう余韻とりんとした現前との,息づまるような交錯でもあった。アカシアは現在であった。桜は過去であり,金銀花はいまだ到来していないものである。それぞれに換気的価値があり,それぞれは相互浸透している」(中井,2004,3頁)。 ↩︎
  4. 未来に関する予感と徴候に対応して,過去に関して導入されるのが「余韻」と「索引」である。こちらは『分裂病と人類』でいう抑うつ的親和性との関連から捉えられる(中井,2004) ↩︎
  5. 「サリヴァンは,alertnessなる語をよく使う。(中略)苦吟の末,やや軽薄さを冒して使用することにしたのが「アンテナ感覚」であった」(中井,1986,130頁) ↩︎
  6. 医学的知見を人類史に当てはめる際の問題については,人類学者の磯野(2022)が取り上げている。スマートフォン依存や生活習慣病,抑うつや多動症などの現代的な健康問題を,狩猟採集時代などの名残りとして扱い,安易に「石器時代への幻想」を抱かせることについて,磯野は文化人類学の視点から批判している。実際,統合失調症の病態を示す先取り思考が,どの程度狩猟採集生活に対して説明力を持っているかは,中井の主張以降の人類学的な知見を踏まえながら,現在では慎重に捉える必要があると指摘できる。 ↩︎
  7. 第171回芥川賞を受賞した松永K三蔵の『バリ山行』では,バリエーションルート登山(通称バリ)と呼ばれる,通常の登山道以外の廃道や危険な道なき道を行く登山がテーマである。劇中の登場人物で,危険なバリ登山の愛好である妻鹿という男は,社内での評判こそ悪くリストラ対象リストの筆頭と噂されているが,いざ現場に出ると軽装でするするとハシゴを登り,屋根の上を身軽に飛びまわっては,いとも簡単に水漏れ箇所を特定してしまう,「勘」の鋭い魅力的な人物として描かれる。彼は週末になると一人で山に入り,頂上を目指すわけでもなく,低山の道なき道をかき分けて進み,自らの五感を働かせ,独自の登山ルートを開発していく。妻鹿はそこに「本物の危険がある」からこそ,バリにこだわるのだと作中で語る。 ↩︎
  8. 「徴候化は,対象世界にも,私の側にも起こる。対象の側に起こる場合には,山で道に迷った場合であろう。「道に迷った!」と直感した刹那には,人はもはや眼前の美しい森やこごしい岸壁に眼が注がない。ささやかな踏みわけ跡らしきものを,けものみちであるか,先人のとおった跡であるかを見分けるために,ごく些細な徴候を探して,明確な対象は二の次三の次になるだろう。それが私の側に起これば精神の危機である。私の中に起こるつかみどころのない変動のいちいちは,私の精神がバランスを失うかもしれない徴候である。この場合にも,私にとっては,日常の食事,睡眠,入浴が二の次になる」(中井,2004,27頁) ↩︎
  9. 「塩味のまったくない空気は,どうも私を安心させないらしい。鎌倉の最初の印象は“海辺にある比叡山”であった。ふとい杉の幹のあいだの砂が白かっただけではない。比叡の杉を主体とした腐葉土の匂いが,明らかに海辺の,それもほとんど瀬戸内海の海の匂いでしかありえないものと混じるのが驚きのもとであった。(中略)比良山は,六甲山に似て,草いきれがうすく,それでいてわびともさびともちがう,間ながら何かが確かに決まっているという共通感覚をさずけられるのが好きであった。好ましく思うひとたちとでなければ登りたくない山であった」(中井,2004,24頁) ↩︎
+ 記事

岡村 心平(おかむら・しんペい)
神戸学院大学心理学部講師。
公認心理師,臨床心理士,TIFI認定フォーカシング・トレーナー。
共著に『フォーカシングはみんなのもの:コミュニティが元気になる31の方法』(創元社,2013),『傾聴・心理臨床学アップデートとフォーカシング』(ナカニシヤ出版,2016),『22世紀の荒川修作+マドリン・ギンズ:天命反転する経験と身体』(フィルムアート社,2019)など。趣味は園芸と演芸。

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