岡村心平(神戸学院大学)
シンリンラボ 第18号(2024年9月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.18 (2024, Sep.)
1.対人支援と「山岳遭難救助」のメタファー
対人支援の現場でまず求められることの一つは,安全性であろう。なんとなくの直感や,あてずっぽうという意味での「勘」を頼りに,物事を進めるわけにはもちろんいかない。心理臨床実践には,アカウンタビリティ,説明責任が伴う。その一方で,現場は予想外の事態の連続でもある。
心理臨床や精神医療における支援の過程を「山岳遭難救助」の現場に喩えたのは,精神科医の中井久夫であった(中井,1998)。闘病といえば険しい山の頂上を目指すことを連想させるが,支援者がクライエントや患者に立ち会うプロセスを,登頂というゴールを目指すことではなく,山を下ること,下山することといった方がより適切だとも言える1。山岳事故は,頂上を目指すときよりも「下山の方が圧倒的に多い」というのは広く知られている2。
山登りは元来,事前に綿密な登山計画を立て,当日も地図やアプリで自分の位置情報や現場の天候などを把握しながら,安全に無理のないかたちで進んでいくことが基本である。ただしそれでも,なんらかのアクシデントによって救助が必要になることも起こってしまう。むしろ,想定外のアクシデントを想定していない方が危険である。このような登山のメタファーを臨床現場に用いた際,私たち支援職は救助部隊のはたらきを求められる。救助者が遭難者とともに安全に山を下るためには,規定の山道ルートに精通していることのみならず,卓越した登攀能力や危機対応能力が求められる。もちろん,遭難者の身の安全を確保し励ましつつ,必要に応じてわかりやすく,現在の状況や,今後の見通しを伝えることも。
山のメタファーを使えば,私たち支援者が支援活動を行う際には,屈強な救助隊に相応の「タフさ」を要請されていることに気がつく。それ故に,対人支援場面はいつも想定外を想定しておかなければならない。対人支援における直感や勘について,あらためて考えておかなければならないのもそのためである。
2.登山家たちの勘の良さ:立ち止まれる能力
筆者は以前より,山岳地帯や極地において冒険家や山岳ガイドが発揮する,卓越した危機対応能力に関心を寄せてきた3。例えば,1956年に日本初の南極観測隊にて,実働部隊として選出され山岳ガイドの佐伯富男という人物がいる。その特異的な「勘」の良さから,日本の極地探検,山岳活動に多大な貢献をもたらしたと伝えられる彼は,「現場」に臨む際の直感や勘のはたらきについて多くの示唆を与えてくれる。
富山県の立山連峰の玄関口,芦峅寺という地域には,長年にわたり立山信仰の担い手を務め,山岳ガイドとしても活躍する佐伯一族がいる。この地で生まれた佐伯富男は,特に寒冷地における活動を得意とし,南極探検での昭和基地建築時には現場の指揮をとる活躍をした。その時々の風や空気の流れ,湿り具合,雲の動きなどから,天気の崩れや嵐の前兆などを読み取る特異的な能力があったといい,また南極での越冬中,ブリザードが基地周辺のすべての荷物を雪下へと飲み込んで跡形もなく消えてしまった際にも,どこに何の機材が埋まっているか,その正確な場所を把握しており,何食わぬ顔で平然と氷柱から荷物を堀り起こしたなど,超人的な逸話が残っている(鷹沢,2001)。
この勘の良さ,鋭い察知能力は,幼少期より過ごした立山の厳しい自然環境で培ったと後に佐伯は回想している。実際,立山で生まれ育った山岳ガイドたちにとっては,極地環境は生活の場であり身近な実地訓練の連続でありつつ,このような環境に順応することはまさしく死活問題でもある4。実際に,立山のガイドたちは往々にして,登山中に「妙な胸騒ぎ」を感じ,ルートを変更し一部迂回すると,そのルートにちょうどさしかかったであろう時間帯に,現場で嵐や落雷,雪崩などがあるという経験を有しているようだ(岡村,2021)。
繰り返しになるが,ここでいう「勘」の良さとは,当てずっぽうやいいかげんな判断という意味ではなく,むしろ経験則や現場での直感に開かれつつ,登頂を諦め引き返したり,慎重にルートを修正したりするために,うまく「立ち止まることのできる能力」と言ったほうが適切であろう。極限状態における直感は,あやふやなまま進んでいくことではなく,むしろその歩みを遅らせ,鈍らせること,慎重にさせる何らかの感覚として到来する。
3.臨床家の研鑽としての登山:登攀家フランクル
昨今の山登りブームもあって,本記事をお読みいただいている心理臨床家の方々にも,登山愛好家が多数おられるだろう。筆者も登山に親しむ臨床家の知人を数名思い浮かべることができるが,世界の心理臨床界隈で最もタフな登山家を探すとなれば,ウィーンの精神科医フランクル(Frankl, V.)の名前を挙げないわけにはいかない。
邦名『夜と霧』はあまりにも有名であり,第二次世界大戦時のユダヤ人収容所という壮絶な極限状況を生き抜いたフランクルには,特段に強靭で屈強なイメージを抱く人も多いかもしれない。もっとも,彼の出身であるオーストリアは高い山々に囲まれた小国であり,ウィーンは登山を愛好して研鑽を積む「アルペン思想」が生まれた登山文化の発祥地の一つでもあった(古川,2020)。そのような風土の中で育ったフランクルは,登山家というよりもむしろ登攀者,ロック・クライマーと呼ぶべきで,地元の山岳協会公認のガイド資格を持ち,その登攀の腕はかなりのもので,彼の名を冠した開拓したクライミング・コースも存在していたようである(Frankl,2011)5。
フランクルにとって,厳しい自然への挑戦は克己の営みそのものであり,もともと登攀も「不安に打ち勝つため」に始めたとある講演で述べている。極限状態を生き抜くための「精神の反抗力」を培うために,フランクルは岸壁に挑み続けた。現代社会では,緊張へと向き合う力が乏しくなっている,と彼は厳しく指摘する6。
フランクルほどのタフさやある種のマッシブさのようなものが,本当に対人支援職全般に必須かどうかはともかくとして,ここではフランクルにとって登頂を「断念」することもまた価値のあることであって,それ自体が実績であると強調する点に注目したい。彼にとっての挑戦とは,決して闇雲に歩みを前に進め,高みを目指すことではない。諦めをつけられること,自身の目標を臨機応変に修正すること,自身の迷いと向き合うことに意味を見出し,その訓練として登山や登攀を位置づけているように理解することができる。
先述の中井は,病いというものを「森の中に道を失って孤独な登山の果てに到来するもの」(中井,1998,26頁)だと記述しているが,翻ってフランクルは,登攀を通じて自身の悩みや迷いに臨んでいるようである。まさしく臨床現場のように先行きが不明瞭で,時に過酷で臨機応変さが求められる状況下において,何らかの判断の迷いが生じた時,ふと妙な胸騒ぎがした時,そのような感覚に立ち止まり,とどまれるかどうか。このような「立ち止まる力」があるかどうか,卓越した山岳ガイドと優れた臨床家に共通する素養である。
佐伯富男やフランクルの逸話は,私たちが厳しい状況下に身を置くこと自体が,ある種の「勘」の良さの鍛錬や育成につながることも示唆している。登山のモチーフを臨床実践のメタファーとして考えるとき,極限の状況下に身を置き鍛錬することの意義は,無闇に高い目標を,果敢に挑戦すること自体ではもちろんなく,むしろ,安全性を尊重するが故に,規定ルートの進行を断念すること,危険を先取りして適切に回避すること,挑戦を躊躇できる判断の余力を残しつつ,その状況に臨むこと,この姿勢にある。その際,先述の中井の指摘のように,臨床実践の目的は安全に「下山」することにあるということの意味がより響く。
登山家の竹内洋岳は,自身がこれまでに登頂した8,000m級の14の山々から下山する過程を詳細に振り返る『下山の哲学』という著書を刊行している。登山は,何があっても必ず自分の足で自分で降りなければならない。そして下山こそ,次なる登山への可能性を開く,まさしく「未踏峰」のプロセスである7。
私たちは,臨床現場で出会うクライエントとともに,当人にとっての新たな日常生活へと下山する。対人援助場面という山中で,私たち支援者が出会う要支援者やその関係者と人たちと歩む道のりは,クライエントが登ってきた規定の登山ルートをそのまま引き返すことにはならない場合も多い。中井が精神科における治療を山岳遭難救助に喩えたとき,同様に病気になる人のことを「遭難しかけた時に山頂の方に向かって避難する人」とも喩えている(中井,1998,26頁)。進むべき方向がわからなくなることを「迷う」というが,同時に私たち対人援助職は,確かな安全性を確保しながらも,クライエントに沿ったその下山への未知の方向を探っていくことになるのである。
脚 注
- みなさん,山に登られたことがあるでしょう? 八カ岳でもいいし六甲山でもいいんですが。じつは私たち医療者は「病気が起こるとき」を直接見ていません。私たちが立ち会うのは,病者が「病気の山」を降りるときですよね。回復というのは,登山でなく下山なのです(中井,2007,127頁) ↩︎
- 特に下りでは,体力不足や歩行技術の拙さから疲労の蓄積や足がガクガク震えるような状態になりやすく,自分を支えきれず転倒事故も増えるという(山本,2024)。 ↩︎
- 拙論「山岳ガイドの身体性─「勘」の分析試論」に詳しい(岡村,2021) ↩︎
- 佐伯たちのような雪山で育った者にとっては,冬の間に仕掛けた狩用の罠や,保存用に埋めておいた野菜などの食べ物をより素早く掘り起こせることが毎日の実地訓練でありながら,遊びの延長でもあり,勘や記憶力のいい子どもが優位な立場,「ガキ大将」になれたのだという(佐伯,1973)。小さい頃から培われた勘の良さが,山岳ガイドとしての素養を育んだと佐伯は懐古している。 ↩︎
- フランクルと自然,特に登山との関係は筆者のnote記事「「ジェンドリン哲学」登山ガイド (4): 山に登った心理学者たち,ロジャーズとフランクル」(2021年11月8日投稿)でもまとめている(https://note.com/shimpeiok/n/n49cf1814808a)。 ↩︎
- 「格闘技には対戦相手やライバルがいます。けれども登山家が戦う相手はたったひとり,つまり自分自身です。登山家は自分に何かを要求します。それは登頂の実践かもしれません。ときには「断念という実績」が求められることもありましょう。まさにこれが,登山が現代の風潮と対立している点,あるいは,現代の風潮に疑問を投げかけている点なのです」(Frankl,2002,31-32頁)。 ↩︎
- 「山の頂上は一点しかなく,その先には空しかない行き止まりですが,そこから降って行く先は,どこに向かうのか,どこまで行くのかを,自由に選び,思いえがくことができます。私は,足元に広がる先に,未踏峰を探しながら下っています。それは,人類にとっての未踏峰ではなく,私にとっての未踏峰です」(竹内・川口,2020,253頁)。 ↩︎
岡村 心平(おかむら・しんペい)
神戸学院大学心理学部講師。
公認心理師,臨床心理士,TIFI認定フォーカシング・トレーナー。
共著に『フォーカシングはみんなのもの:コミュニティが元気になる31の方法』(創元社,2013),『傾聴・心理臨床学アップデートとフォーカシング』(ナカニシヤ出版,2016),『22世紀の荒川修作+マドリン・ギンズ:天命反転する経験と身体』(フィルムアート社,2019)など。趣味は園芸と演芸。