【特集 心理学を越境するヒューマニスティックアプローチ】#05 野性を抱え,倫理を生きる──来(きた)る時代へのヒューマニスティックアプローチ|並木崇浩


並木崇浩(跡見学園女子大学)

シンリンラボ 第41号(2026年8月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.41 (2026, Aug.) 

1.はじめに,そして若干の弁明

きたる時代にヒューマニスティックアプローチを確信する」。このテーマで今回,執筆依頼をいただき,尊敬する方からの依頼であったこともあり二つ返事で了承した。私はこの数年間に,若手という立場で人間性心理学に関するシンポジウムや日本人間性心理学会の大会主催に携わってきた。そういった経験の中で今回のテーマはおのずと考えてきたことであり,依頼者もそのように思ってくださったのだろう。本稿では私なりの試論を提示したい。だがその前に,二点の弁明がある。

私の論の組み立て方の癖として,アブダクティブといえば聞こえはいいが,パッションとひらめきを事後的に論理で固めていると自覚している。なにか問題意識を持つと,それをぐるぐる考えては一旦離れて,を繰り返す。するとあるとき「これだ」と,自分の中でバラバラだった考えをつなげるアイデアが知的興奮と共に降りてくる。その天啓を,論理を駆使して説明しているのだ。本稿も論理的な穴を勢いで押し進めている箇所が出てきてしまうだろう。

次に,本稿ではヒューマニスティックアプローチと,かなり幅広い射程をとっている。一言にヒューマニスティックアプローチといっても,それはパーソン・センタード・アプローチ(PCA),フォーカシング,ゲシュタルト療法,エンカウンターグループ,実存主義的心理療法など様々な立場や療法の包括的な名称といえる。その中でも私はPCAの実践家であり研究者である。他の心理療法のトレーニングも受けてきてはいるが,立脚する理論はどうしてもPCAのものになるので,おのずとPCAの立場からの論考になっている。以上の弁明に基づく本稿ではあるが,読者の方々にとってなにか刺激になればこの上なく幸いである。

2.来る時代とは

題目に掲げている以上,本稿で想定する「来る時代」を提示する必要があるだろう。だが,将来こんなことが起きると予測できるような先見の明を私は持ち合わせていない。私ができることは,少なくとも今,私が社会に対して感じていることを言語化することであり,それが放置されると仮定した未来を来る時代としておきたい。

ここ数年での臨床実践の中で私が感じるのは,人々が「正解」を求める,そしてその正解を外に求めていることだ。自分がなるべき正解の状態,自分が進むべき正解の大学や会社,それらの答えは自分ではない誰かが出してくれているとして,外に求めているように思える。もちろんそれは一つの生存戦略であるし,否定したいわけではない。だが,その「正解」は誰にとっての正解なのかと疑問を抱くことが何度もあった。

また,数年前までは「ググる」(Google検索する)であったが,最近は「チャッピーに聞く」(ChatGPTにプロンプトを与える)ことで「答え」らしい何かが出力されるようになった。その精度に言及したいのではなく,答えを出し,選択する主体が自分ではなくAIに代替されていることに一抹の不安を感じるのである。肉体労働や単純作業が一部機械に代替されてきたように,知的活動も補助自我としてのAIによって代替されていくことは世の流れなのだろう。だが,それによって自分の生き方,体験といった実存的領域までもを代替させようとすることで,人は「その人自身」を見失っているのではと私は危惧している。

以上の私の印象と危惧に一定の妥当性があり,その状況がこのまま放置されると仮定すると,人が「人間(自分)らしさ」を見失うに加えて,名もなき他者にそれを委ねる未来が待っているように思える。そういった未来に対するヒューマニスティックアプローチの可能性を考えていきたい。

3.抗いとしてのヒューマニスティックアプローチ

ここで,ヒューマニスティックアプローチが意味するものを押さえておこう。本稿ではヒューマニスティックとはひとえに「人間らしさ」であり,ヒューマニスティックアプローチとは人間らしさを模索し,探求し,そして体現する営み,とする。私はこのヒューマニスティックアプローチの,アプローチや営みという動性に注目したい。また,来る時代を考える前に,これまでのヒューマニスティックアプローチとして人間性回復運動を振り返ることで,その動的な営みを確認してみようと思う。

人間性回復運動は1960年代からアメリカを中心に起こった運動である。ベトナム反戦運動,消費社会や物質主義への対抗として人々は自由と平和を求めた。アカデミックの文脈では,マズローMaslowが行動主義,精神分析に対する第三の潮流としてヒューマニスティック心理学を位置づけた。マズロー,ロジャーズRogersから始まり,パールズPerls,メイMayらと共に新たな心理学,心理療法を発展させていった。行動主義,精神分析に,環境や無意識による決定論的な人間観,自然科学的な操作主義を見出し,そのアンチテーゼとして彼らは人間の成長や自己決定,主観的体験,個別性に「人間らしさ」を求めたのである。ここで私が注目したいのは,ヒューマニスティック心理学の勃興を含む人間性回復運動が,カウンターパートとして生じている点である。これまでの人間理解に対して,人間とはそのような存在では「ない」,それだけでは人間を描写しきれて「いない」という抵抗の運動によって,人間の自由意志,全体論的理解が事後的に「人間らしさ」として浮かび上がってきたといえないだろうか。

そしてこの抵抗という動性を,ヒューマニスティック心理学のパイオニアたちに対して私は強く感じるのだ。例えば,ロチェスター児童相談所の所長の職をめぐって,心理学者がその座に就くことに反対する精神科医にロジャーズは対抗し,1年間にわたる協議の末,所長に就任している。フランクルFrankl(1977/2002)の『夜と霧』に描かれたナチスの強制収容所での体験は,人としての尊厳を徹底的に奪われようとも,自分の生きる意味は決して離さない,見失わないという抵抗であった。このように考えると,有名なロジャーズのジャガイモの例注1)も(Rogers, 1980参照),実現傾向の力強い現れとして彼は説明しているが,劣悪な環境であっても生を全うせんとする抵抗といえるのではないだろうか。

注1)光も水もほとんどない劣悪な環境である地下室に保管されていたジャガイモが,小窓から差すわずかな光に向かって弱々しくも懸命に芽を伸ばしている姿から,生命の実現傾向を見出したエピソード。

4.パーソン・センタード・アプローチにおける人間観

前節で論じたように,ヒューマニスティックアプローチは抵抗という営みによって,少なくともマズローらによる勃興時は,「人間らしさ」を見出してきた。この抵抗を通した「人間らしさ」の再考をするうえで,本稿ではPCAの人間観,特にピーター・シュミッドPeter Schmidが論じている「ひと(person)概念」を参考に考えていきたい。シュミッドとはドイツのPCAの実践家,理論家であり,主にPCAの哲学を精緻化,発展させたことで知られている。

シュミッド(2001)はひと(person)を「ひとである(being a person)」こと,そして「ひとになる(becoming a person)」ことの二つに分けた。ひとであるとはひとの実存のより個人としての側面であり,PCAの概念でいえば実現傾向に特徴づけられる。一方,ひとになるとはより関係的な側面であり,PCAの概念でいえば出会い(encounter)に特徴づけられる。つまり,ひとであるとは「ひととはなにか」を,ひとになるとは「いかにその人がひとになったか」を意味しており,それは個人化と社会化と表現できるだろう。個人としてのひとが,他者との出会いによってひとになっていく,これら二つの要素は矛盾しているだろう。だがこれらのうち一方を選択するのではなく「どちらも」保ち続けるという,弁証法的な緊張のプロセスを通して,ひとはその人らしくなるのだとシュミッドは論じている。

本質主義的アプローチがひととはなにかを強調するならば,関係主義的アプローチはいかにそのひとがひとになったかに重点を置く。生まれたときから,人間は個別的なひとであり,また他者とのパーソナルなコミュニティに関わっている。他者との関係を通してのみ,ひとは自身のそのひとらしさ(人格)が発展し実現していく。よって,ひとの本質的要素とは,自立性と依存,主権と義務,そして自律性と連帯の両方なのである。「どちらか」ではなく,「どちらも」という解釈の弁証法の中でのみ,ひとの秘められた部分へと繋がることができる。(Schmid, 2001, p.219)。

5.野性

前節で確認したシュミッド(2001)のひと概念で考えれば,人間には「ひとである」要素に抵抗の源が内在していると私は考えている。そしてそれを本稿では「野性」と表現したい。野性とは成長や変化のリソースであるかもわからない,だが確かに私たちの中に潜む,剥き出しのなにかである。綺麗にまとめられていない実直で粗削りな感覚や想いともいえよう。それはPCAの文脈では実現傾向,フォーカシングではフェルトセンスや気づきの辺縁に含まれるかもしれない。だが私はそれらが暗に期待されている実現(actualizing)やフェルトシフトといったある種のよりよい成長に色付けされていない,社会化されていない,原始的ななにかに着目したいのである。

野性はその人,そしてそのときによって様々な形を成す。例えばそれは微かに感じる違和感であったり,自分を突き動かす熱であったり,はたまた大きな傷つきであったり,耳を傾けるとわずかに,だが確かに聞こえてくる叫びとして顕現することもあるだろう。私はこれまでの臨床の中でわずかながらではあるが,「クライアントと深い関係で出会った」(Mearns & Cooper, 2017/2021参照)と感じる体験をした。あるセッションで,私はクライアントの本当に剥き出しの,生皮が剥がれ露わになった傷そのものと対峙していると感じる場面があった。それはクライアントのこれまで経験によって刻まれた深い心の傷つきであった。後から振り返ればクライアントのより深い部分と出会ったのだとそれらしくいえるが,セッションの最中は畏怖に近い感情を抱きどうしてよいかわからなかった。私が触れることはクライアントにさらなる痛みを生むこととなる。傷つきになにか言葉や概念を与えて覆いを作ることもできたかもしれない。だがそれはクライアントとのその瞬間の接触を拒絶することになると思った。今思えばその戸惑いこそが私の当時の生の体験であったのかもしれない。そのセッションでの出来事を境に,クライアントに変化が生じた。それは自分を否定し傷つけてくる外界からの撤退や適応ではなく,むしろ抵抗であった。自分と自身のテリトリーを守ろうという力が高まっていったのである。

PCAの臨床は,他学派からしてみると無節操と思われるほど自由に振舞っていて,適応とは真逆を進んでいるとみえるだろう。オリエンテーションにしている私でもそう感じることがある。その一端に触れたい方にはデイヴ・メアンズDave Mearnsの著書を勧めたい。例えば『Working at Relational Depth in Counselling and Psychotherapy』(同上)のメアンズの事例(半分酔いどれのDominicやトラウマを負ったRick)は有名だが,第8章に掲載されているセラピストのLeslyによる自己内省の記録も強烈だ。高校時代の激しいいじめに立ち向かったこと,自身をいじめていた人と街で偶然再会したときに相手をボコボコに殴ったこと,看護師として働いているときに患者の臨終に立ち会ったこと。それらは彼女が持つ荒々しい抵抗の力と,他者との出会いに誠実で正直であろうとするあり様を示す赤裸々な語りである。剥き出しの野性から湧き上がる抵抗の力は,ロジャーズ(1963)が示す十分に機能する人間からイメージされる人間像とは程遠いといえるかもしれない。だが理性でも社会性でもない,自分を守り,取り戻すための「人間らしさ」だと私は考える。

6.関係そのものとしての倫理

シュミッド(2001)のひと概念でも確認したように,人は個人だけで完結するものではない。また野性だけに身を任せて生きることが,少なくともヒューマニスティック心理学においては「人間らしい」とは言わないだろう。他者との関係によって,むしろ他者との関係それ自体がその人を人たらしめるのだ。その関係の一つとして本稿では「倫理」を取り上げたい。ここでいう倫理とは,行動指針としての倫理綱領に従うこととは本質的に異なり,より個別的でローカルな,人と人の関係に取り組むことであある(Bond, 2006)。それは他者と出会い,他者に応じること,他者によって私が呼び起こされ,私が問い直され,私が揺さぶられることだ。そして私はそれに応答責任として応じなければならない。野性は世界に対する私の抵抗の原動力であるのに対し,倫理は私に対する他者の抵抗そのものといえる。臨床場面でいえば,セラピストにとっての他者,相対している者は目の前のクライアントその人である。セラピストが応えるべきなのは障害や疾病でもないし,過去の体験でも特性でもない。それらが関係ないということではなく,それらを抱えたクライアントという人間に応えるべきということだ。発達障害にはこの技法が適している,この症状が出たときはこう対処すればよい,といった関わりに,個別具体的なクライアントその人はいない。同時に,セラピストである私もいない。倫理とはそのような人称なき関係に他者と私を呼び起こす現象である。

PCAの倫理的実践として,自己決定権の尊重やクライアント−セラピスト間のパワーバランスへの気づきと理解が挙げられる(Grant, 2004, Mearns et al., 2013)。それはまさに他者に応えようとする営みである。一方で,倫理とはそのような「語られた倫理」を実践することではなく,むしろ良いものとされてきた実践に対して揺さぶりをかける目の前の他者からの問い,抵抗に応えることである(並木,2023)。「私」のあらゆるリソース,それは前述した野性だけでなく,理性,感情,思考,知識,経験をもって,その他者と関わる。ボンドBond(2015)はそれを倫理的マインドフルネスと呼び,私(並木,2018)は「contemplate」と定義した。答えなき倫理に応えることで,私たちは「人間らしい」関係を刻んでいけるのではないだろうか。

7.結び

社会化されていない野性が個としての私に抵抗の力を与えてくれる一方で,関係としての私は他者からの抵抗に応答しなくては存在し得ない。本稿で取り上げた野性と倫理という二つの抵抗の営みをどちらも保とうとする緊張のプロセスこそ「人間らしさ」を浮かび上がらせてくれる,それこそが来る時代へのヒューマニスティックアプローチであると粗削りな確信と共に結論付け,この論考を終えようと思う。

文  献
  • Bond, T.(2006)Intimacy, Risk, and Reciprocity in Psychotherapy: Intricate Ethical Challenges. Transactional Analysis Journal, 36 (2); 77-89.
  • Bond, T.(2007)Ethics and psychotherapy: An issue of trust. In: Ashcroft, R. E., Dawson, A., Draper, H., & McMillan, J. (Eds.), Principles of health care ethics, 2nd Edition. John Wiley & Sons, pp.435-442.
  • Frankl, V. E.(1977)…trotzdem Ja zum Leben sagen: Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager. Kösel-Verlag.(池田香代子訳(2002)夜と霧 新版.みすず書房.)
  • Grant, B.(2004)The imperative of ethical justification in psychotherapy. Person-Centered & Experiential Psychotherapies, 3 (3); 152–165.
  • Mearns, D., Thorne, B., & McLeod, J.(2013)Person-centred counselling in action (4th). Sage.
  • Mearns, D. & Cooper, M.(2018)Working at relational depth in counselling and psychotherapy, 2nd Edition. Sage.(中田行重・斧原藍訳(2021)「深い関係性」がなぜ人を癒すのか パーソン・センード・セラピーの力.創元社.)
  • 並木崇浩(2018)パーソン・センタード・セラピストが ‘哲学する’ 意義:being とセラピストの自己の利用の観点から.人間性心理学研究,36 (1); 69−77.
  • 並木崇浩(2023)パーソン・センタード・セラピストとして倫理的であることに関する一考察.関西大学心理臨床センター紀要,14; 35-42.
  • Rogers, C. R.(1963)The concept of the fully functioning person. Psychotherapy: Theory, Research, and Practice, 1 (1); 17-26.
  • Rogers, C. R.(1980)A Way of Being. Houghton Mifflin.
  • Schmid, P. F.(2001)Authenticity: The person as his or her own author. Dialogical and ethical perspectives on therapy as an encounter relationship. And Beyond. In: Wyatt, G. (Ed.): Rogers’ Therapeutic Conditions Evolution, Theory and Practice. Volume 1: Congruence. PCCS Books, pp.213–228.
+ 記事

並木崇浩(なみき・たかひろ)
跡見学園女子大学,PCA-Kansai
資格:公認心理師,臨床心理士
主な著書:『PCAGIP法の実践: 対人援助職を支える新しいパラダイム(第11章《内閣府・子ども家庭庁》政府機関主催の援助職研修)』(共同執筆,創元社,2024),『パーソン・センタード・セラピストが '哲学する'意義:being とセラビストの自己の利用の観点から』(人間性心理学研究36 (1),2018),『Introduction of the person-centered training ‘Contemplative Dialogue Method’ and qualitative exploration of trainees’ experiences』(Person-Centered & Experiential Psychotherapies23 (2), 2024)
趣味:筋トレ,献血,美術館巡り

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