渡邊洋次郎(リカバリハウスいちご)
シンリンラボ 第40号(2026年7月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.40 (2026, Jul.)
はじめに
私は現在,アルコールや薬物,ギャンブル等依存症を持つ人達が地域で生活を送る事を支援する障害福祉サービスの事業所,リカバリハウスいちごで働いている渡邊洋次郎と言います。私自身,依存症回復支援の仕事をしていますがアルコールや薬物依存症を持つ当事者でもあります。今日は私自身のこれまでの経験を共有させていただきます。
今,五十歳で依存症と診断されたのが二十歳の時なので診断を受けてから三十年になります。精神科病院に入院して依存症と診断される以前からシンナーの乱用等があり,十六歳になるまでに少年鑑別所に四回入り,十七歳の一年間は中等長期少年院で送りました。
今回のテーマでもある心理について感じた事を書かせていただきます。
言葉
今でこそ言葉とか語るとか対話,感情に対して大切に思えるようになっていますが,正直,過去の私は言葉なんて心にある気持ちと違う事が言える,噓をつくためにあるものだと思っていました。実際,自分に大きな影響を与える母親との関係においては母親が仕事の忙しさでそばにいてくれなかった時,淋しいという気持ちを伝えても困惑してしまう母親の姿を前に,こんな風に淋しいと感じていたらいけないんだ,母親がいない事を淋しいと感じてしまう感受性を持った自分は受け入れてもらえないんだと思うようになっていました。
最初の行き詰まり
私がアルコールや薬物への依存が酷くなり生きていく事に行き詰まったのは診断を受けた二十歳以降でした。しかし私が一番最初に行き詰ったのは依存症と診断されるよりももっと以前の幼少期の母親や父親との関係性の中にいた自分,自分が自分でいるという事に対してでした。自分のまま生きられないのに学校へ行けとか他者と一緒にやっていかないといけない現実を前に,生きるために捨てなくてはいけないものがありました。犠牲にしていったものがありました。それらの犠牲がきっと自分が自分でいる事,自分は自分なんだと感じられる感覚,実感を持つ事でした。
自分を肯定出来ていないまま進む時間
少年から少しずつ大人になっていく過程において学校や大人達と関わるようになり,周囲から「しんどいけどこれはあなたのため」「あなたを大切にすることなんだ」と諭されても全く響かない,感情が上滑りしていたのは一番最初の私が私でいる事を認めようとしない周囲に対して,そんなん言っても私が私のままいようとしてあなた達は許してくれなかったじゃないか。だから何をしたって構わない,生き抜くためなんだから仕方ないじゃないかという気持ちでいました。自分の中に募っていく被害的なものが他者や社会に向けた怒り,攻撃性となり,これでおあいこ,お互い様だという自分の生き方を正当化していきました。
育っていない愛着
小学校や中学校に通っていたころ,スポーツや勉強は全く出来ない人間でしたが劣等感はほとんどありませんでした。そういった能力的な部分ではなく私が一番痛みを持っていたのは,私もみんなと同じように大切で価値ある存在なんだという実感が自分の中に無い事でした。私が私なんだと思える肯定感,人間としての基盤とも呼べるものでしょうか,そこが完全に抜け落ちた感覚,自分という存在の根拠が無いような感覚がいつも私の中にはありました。
アディクションだけがアイデンティティ
アルコールや薬物だけではなく,非行や自傷行為,他者への依存と依存の中でどんどんそんな風にしか生きられなくなっていった自分でしたが,アディクションがまさに生きる全てでした。等身大の自分をひた隠し,弱さや脆さをかなぐり捨てて生き抜くために,アディクションにのめり込みました。アルコールや薬物に溺れ,自傷行為で自身を痛めつけている瞬間だけ自分の気持ちを見ないですみました。誰かを傷つけ,また,傷つく自分自身の気持ちも見ないですんだのです。
募る不信感はいつしか人間という存在そのものへ
十七歳の一年間を少年院で過ごして十八歳で社会に戻り就いた仕事が水商売でした。
アルコールや薬物が蔓延する夜の仕事に就く中で出会った同僚や好意を持った女性との恋愛。アルコールや薬物に溺れながら出会った人と親密な関係になり,性行為を繰り返すけど私の中には本当の自分や気持ちを見せられないまま好きだと言えたり性行為が出来てしまう自分への不信感が募り,更にはそうと分かっていながら受け入れる相手の女性へも不信感が募っていきました。最後には結局人間なんて本当の気持ちが何処にあるのか分からなくても性行為が出来る生き物なんだと思うようになっていきました。心がなくても,想いを見せ合えていなくても性行為が出来る,そんな生き物なんだという不信感と失望だけが私の中に残りました。
ボーダーライン(境界線)
精神科病院への入退院が始まった二十歳から十年間で計四十八回精神科病院へ入院をしました。入院している時,ある程度自覚はありましたが医療従事者からいつも指摘されていたのは相手と適切な距離が取れない事でした。境界線が引けない,巻き込む,人への依存をすごく言われていました。確かに看護師さんやソーシャルワーカーさんにラブレターを書いて受け取ってもらおうとしていました。今考えれば十人の患者さんの中の一人の患者で良いはずなのに,当時の私はどうしてもその看護師さんやソーシャルワーカーさんにとって特別な存在になろうと必死になっていました。十人の患者さんの中の一人の患者として大切にされてもそんなのは仕事だから当然だし,そこにはお給料という金銭的な報酬や責任があるからやっているのであって私そのものに関心があり関わってくれているわけではない。
しかしラブレターを受け取るという行為は職務を超えた行為であり,そこには仕事がどうとか報酬がどうとかではなく私という存在そのものへの関心で,私といたいという気持ちなんだと感じられていた自分がいました。確かに年齢が大人になっていて,性別も男性だから話がややこしくなってしまうのですが私の中にはただ受け入れられたい,必要とされたい,条件をつけずに愛されたい気持ちがあったのです。
バウンダリー
四十数回の精神科病院への入退院を繰り返し最後は刑務所に三年間服役をしました。刑務所での生活を通して多分生まれて初めてバウンダリー,自分にも本当は境界線があった事に気づきました。明けても暮れても社会に残してきた友達や仲間,家族の事を思って思い悩む日々が続きました。昨日はあんなにも信頼出来て安心していたのに今日になったら突然疑いが生まれたり,嫉妬がわいてきて,ものすごく苦しくなる自分がいました。自分の中で感情がぐちゃぐちゃになり,何にも手がつけられないくらい苦しくなる自分でしたがそれでも私には目の前の刑務所での現実を生きるしかない。何もかもを投げ出してしまいたくても目の前の今を生きるしかない現実を突き付けられた時,自分を残酷だと思いながらも全てを自分の中から締め出しました。向き合うしかない生きることをやるためにネガティブな感情だけではなく,ポジティブで相手への大切な思いも全て自分の中から締め出しました。そうやって自分を生きることを最優先にした時,自分にも本当は境界線があった,どんなに親しく大切な誰かであってもこれ以上は入ってきて欲しくない。境界線を無視して入ってきて欲しくない。私が大切にしたかったものは私が私でいる事,私が私を生きていくことなのだと実感しました。しかし私にとって自分の境界線を直視する事はとても怖い事でした。どんなに大切で親しい人がいても私は私でしかなく,他者も他者でしかない。どこまでいっても個でしかない自分自身を引き受けてそれでも生きる覚悟でした。つまりこの世に生を受け,生きて,そして死んでいくプロセスはこの身を持った私にしか歩けない道なのだと認める事に他なかったのです。その覚悟は同時に出会えた全ての人達も私と同じ孤独を生きる存在なのだから私がしてほしかった事をやれる自分になりたかった。愛されたいしかなかった私の中に初めて誰かを愛する意識が生まれた時でした。境界線は二つ以上のものがあって初めてそこに存在するのが境界線と思った時,過去の私には自分を持つ事が出来ていなかったから境界線そのものが分からなかった,ある意味存在しなかったのだと思いました。
自分と向き合う時間
刑務所での三年間の約半分は雑居房にいて残りの半分は剝き出しのトイレしかない独居房で過ごしました。刑務所でも腕を何度も何度もボールペンで突き刺す自傷行為がやめられなくて懲罰を受けました。幸か不幸かそのおかげで刑務所にいながら心理のカウンセリングを百回くらい受ける事になりました。話した内容の詳細は覚えていませんがカウンセラーの先生との面談をした歳月の中でノートのページにして約六千ページの文書を書き続けました。独り言が止まらなくなりそれを必死でノートに書き留めていくような時間が続きました。内容がどうとかは分かりませんが独居房の中で物理的に全く身動きのとれない生活を送りつつも何かが進展,展開していった。後ろに戻ったり前に進んだり停滞したり,でも確かに何かが動いてくれていた。そこに話を聞いてくれる誰か,話したい誰か,話せる対象がいてくれた事は本当に大きかったです。
愛を見つけることが出来た
刑務所の独居房で日々を送る中である日,突然目の前に心臓が現れました。生きよう生きようと脈を打ち,鼓動する心臓を自分の中に見つけたのでした。生きようとする心臓に触れているだけで温かさや愛おしさが溢れてきて自然と涙が溢れてきました。
愛を見つけられた。しかもそれを自分自身の奥深くから。その時,初めて自分の人生を見つめ,過去の自分には見えなかったものが見えました。
これまで誰かを傷つけても社会に害を与えてもお互い様やろ,どっちが先やねんとしか思えなかったし,そんな生き方を全面的に肯定出来たのはこの世に愛なんてない,なにをしたってかまわない,人間なんてそんなものだろうと思っていたのに,実は愛があった,しかもそれが自分の側にあったと思った時,自分の人生が違って見えました。愛がない事を前提に成立していたけど愛があったとなった時に滅茶苦茶空回りをしてきた,勘違い,逆恨みで生きてきた人生を思い知りました。ずっとこれで良い,自分が望んで生きてきたと思っていたけど本当はそうじゃなかったのかも分からない,本当は望んでいない事を延々と自分の気持ちを偽り自分に言い聞かせてきた事が分かりました。私が何故アディクションを必要としてきたのか,自分にとってアディクションとは何だったのか初めて分かりました。本当はすごい奴や何者かになりたかったんではなく,自分が自分でいたかった,自分を大切なんだと自分が思って生きてあげたかったんだと思った時,生まれて初めて変わりたい,生き方を変えたいと思いました。
自助グループの仲間たちとのつながりがくれたもの
刑務所の独居房の奥深くで心臓と出会えた瞬間が植物でいう種が蒔かれ芽が出る瞬間だとすると,自助グループの仲間の中で今日一日を生き始めたのは芽を大切に大切に育てていくプロセスのようでした。仲間の中で大切にしているアノニミティ(匿名性)は現代における無償と無条件を実現してくれている。だからこそ私にも生き直しが始まりました。
外在化
自助グループのミーティングで実感したのはミーティングでの分かち合いを通して言葉を取り戻す事が出来た感覚でした。私にとって言葉を取り戻す事は自分自身を取り戻すことそのものでした。とにかく喋り続けた自分,しかし次第に話していても楽にならない自分を感じました。その時,初めて人の話しを聞く事の中に力をもらっている自分を感じました。そしてミーティング会場に初めての仲間や新しい仲間が来た途端,俄然やる気を出して自分の経験をシェアしている自分に気づきました。仲間の中での分かち合いを例えていうと自分の経験をみんなの前に差し出す感じ,固く自分の方に留めていた過去や一つ一つの出来事,感情を手を放して仲間の前に置いていく。自分の手を離れて見えたのがそのことの全体像でした。固く握りしめていた時には見えなかった様々な面を持つその全体像が見えた時,初めて感情と自分が一致していく,感情と自分が一つになっていくのが分かりました。斜め横の人から見えている姿や感じている事がこっち側にいる私が否定出来ないように反対側から見ている相手からも私が見ている見え方や姿,感じている事は否定出来ない。例え自分と異なっていてもそれが私にとっては本当の姿,真実なんだと思えた瞬間,この事をこう感じる感受性を持った私が私なんだと素直に思う事が出来たのです。
おわりに
もしかしたら一つ一つの出来事や体験は心理学をもってしたら説明したり概念化出来るのかも分からないけど私の本音はそんな一言に体験をまとめてほしくない,人生をまとめてほしくない。ただ私自身に起こった出来事,私なりの奇跡を皆様と共有出来ることがとても嬉しい事でした。ありがとうございました。
渡邊洋次郎(わたなべ・ようじろう)
リカバリハウスいちご
資格:介護福祉士
中学の頃に薬物中毒になり,在学中に何度か警察に捕まり,中学卒業後,すぐに,鑑別所入所。4度の鑑別所入所を経て,16歳の終わりから18歳になるまでの1年間を中等長期少年院で過ごす。
20歳から精神科病院への入退院が始まり,30歳までの10年間で計48回の精神科病院入院。30歳から3年間の刑務所服役。
現在,刑務所を出て,酒や薬が止まり,17年。
自助グループのミーティングへ行ったり,就労支援なんかを受け,リカバリハウスいちごで,2018年1月から正社員として働き,2020年の3月に通信制高校を卒業。
2018年の3月介護福祉士受験も無事に合格。
主な著書:
『下手くそやけどなんとか生きてるねん。—薬物・アルコール依存症からのリカバリー』 (単著,現代書館,2019)
『渡邊洋次郎対談集 弱さでつながり社会を変える』(単著,現代書館,2023)









