菜花(神奈川県藤沢断酒新生会 酒害相談員)
シンリンラボ 第40号(2026年7月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.40 (2026, Jul.)
1.父も母も好きだった
「私は20年以上,アルコールの問題を抱えて生きてきたのだと思っています」断酒例会で初めてお会いする方がいる時には,そんな風に話し始めている。父にも酒の問題があった。母は一滴も飲めない人で「酒はキチガイ水」が口癖だった。酒を飲むと人が変わる父,それを激しい言葉で責める母。何かが割れる音と怒鳴り声が響く家。多分楽しい事もあったのだろうが,幼い私の記憶にはあまり残っていない。私は父母が好きだったし自分を特に不幸だとは思っていなかった。当時の私は明るく元気な子供だった。少なくとも周囲からはそう見えていたはずだった。就職活動をするようになってからも履歴書には「明朗快活」と書いていた。その実,私はいつだって周りの空気を読みながら生きていた。父がどのくらい酒を飲んだか母に知られないよう,台所でこっそり一升瓶に水を足してカサ増しをしたこともある。波風を立てないように,この家の中が完全に壊れてしまわないように。私がこのまま此処に居られるように。子供なりに必死で知恵を絞って立ち回っていたのだと思う。家庭とは温かくて安心できる場所と言う幻想を世間から与えられていたのかも知れない。私は「酒は父と家庭を壊す悪魔のようなもの」だと考えていた。だから,まさか自分自身が酒におぼれるなんて。ましてや,酒に救いを求めるようになるなんて夢にも思っていなかった。
2.酒は武器で信頼できる友達
二十歳で就職した会社は酒席が多い職場だった。“酒が飲める”ということは一種の仕事上の才能みたいに扱われ重宝された。あの時代は取引先との酒席で若い女性が場を和ませることを期待されていたし,私は完璧にその業務をやり遂げていた。当時の私は,どれだけ飲んでも顔色ひとつ変わらず乱れることは無かった。そんな私は上司から可愛がられ会社生活も円滑に回った。 いつの間にか,幼い頃あれほど嫌悪していたはずの酒は人間関係を構築する強力な武器になっていた。「酒なんてチョロい。要は“のまれなきゃ”いいんでしょ!」私はそんな風にたかを括っていた。父は,母や親戚がいうように心が弱かったんだ。私は違う。信じられないほど傲慢で危うい考え方だと今は思う。
3.父が壊れていく
しかし,20代半ばから私の生活は少しずつだけれど,確実に無理とストレスが積み重なっていった。最初に始まったのは,父の認知の低下。もしかしたらアルコールによる脳萎縮だったのかも知れない。徐々に父は壊れ始めた。以前の父を残しながら別人格が存在し始めたのだ。母も先の見えない介護に疲れ果て鬱状態。家事も介護も,私がやるしかない! そして数年が経ち,私はおつきあいしていた男性と入籍して家出同然に実家を出た。私も限界だったのだ。逃げたい! 逃げるなら今しか無い! 両親の介護認定を受けて出来るだけの行政支援策を考えてみたが,資金の余裕も無い。結局は,介護+仕事+遠方の新婚生活が始まった。
4.酒しか頼れない
夫婦関係は,最初は穏やかで「安らぐってこんな感じなんだ」と優しい夫に感謝していた。と同時に激昂しやすい“私の知らない夫”の面にも気づき始めていた。暴言や暴力。私の感情は麻痺し始めていた。帰宅途中の駅や,自宅の台所で一気に酒を体に流し込んで「さぁ! 頑張ろう」と気合を入れて動くことが増えた。酒は次第に,楽しみではなく生き延びるための道具になっていた。
5.夫の癌と母の認知症
父の介護が始まって18年。看取って3年,夫に直腸癌が見つかった「菜花が飲んだくれていたから人間ドックに行きそびれた」といわれた時,息が止まるかと思った。止まってしまえば良かった。ほぼ同時進行で今度は母に認知症状が現れた。「あんたが財布のお金を抜いた」と毎夜電話が来る。私は会社を辞めて看護と介護中心の生活に入った。と,書くと不幸ばかりのように聞こえるかも知れないが多分そればかりでは無い。まだ私は笑っていたし食事も美味しいと感じていた。
6.夫の死とγ-GTP4000の数値
余命半年宣言を受けた夫が息を引き取ったのは3年後だった。様々な要因が絡んで,私の酒量は加速度的に増えて行った。
1年後,私の体は血液検査でγ-GTP4000と言う数字を出していた(肝臓の機能を表示する数値・女性の基準は30以下)緊急入院した一般病院で「一生断酒。死んでしまいますよ」と言われてもピンと来ない。何故酒を飲んではいけないの?生きていなくても良いのに……。
7.初めての入院とスリップ
紆余曲折を経て2021年。夫の死から4年後,久里浜のアルコール専門病院に入院。理由は,酒害を繰り返し“最悪”な私を見捨てなかったふたりの人の恩に報いたいと思ったのだ。そこで初めて,自分が意思や性格の問題ではなく酒が止まらない状態の脳と体になってしまったのだと知識として学んだ。体に対して過度な飲酒は許容範囲を超えたのだ。もう治らない・けれど回復はある。寄り添ってくれる主治医とスタッフ達。2カ月の入院生活を経て,私は少しだけ希望を持っていた「今度こそ普通の人になれるのではないか」と。しかし数カ月後,心が少し折れた瞬間にスリップ(再飲酒)「1本だけなら大丈夫」その言葉は自分を止めるためのものではなく既に飲酒の言い訳になっていた。アルコール依存症と言う病は飲酒を止めるブレーキが壊れて修復不可能な病気だと,まだ私は認めていなかった。体も心も辛かった。“見捨てなかったふたりの人”現在は,仕事の相棒となっている80歳を越えたじっちゃん。知人から,今は共に暮らすパートナーになっている14歳上の彼。ふたりに申し訳無いし情けない。やめたい! やめなきゃ! そう思う反面,飲みたい! 飲まなきゃ! 早く体にアルコールを入れねば! どうやって買おう,隠そう。体が半分に裂けてしまいそうだ。肌が沸き立つように飲みたい。自助グループにも病院にも連絡できなかった。
8.再入院と長い手紙
そんな中,パートナーの勧めで主治医宛てに手紙を書くことになった。それは今までの人生を書き出す作業と同時に,私自身が何を感じないようにして生きてきたのか?に初めて触れる時間にもなった。診察室で,私はボロボロの状態だったけれど「先生,私は楽しいと言う感情が知りたいです。入院させて下さい」と告げた。あの時が私の“回復”の本当の一歩だったのだと,主治医の笑顔と共に思い返している。
9.助かりたい想い
私は今でも,精神科医・心理士・支援職の方々がどうしてそこまで親身になれるのか?疑問に思う。物事を隠して嘘を繰り返し,人の信頼を裏切る。心配をかけて多大な迷惑もかけて「覚えてない」と泣く。そんな人間に何故関わり続けようと思えるのか?仕事だから,では済まない程に馬鹿らしくはないのだろうか?私の場合は,長い間「辛い・苦しい・助けて欲しい」と言う言葉を自分の感覚として持てなかった。だから「何故酒に逃げるのか?」といわれても答えられなかった。自分の奥底の本当の気持ちが解らなかった。生き延びるのにソレが邪魔だったからだ。
10.自助グループ
久里浜のアルコール専門病院に再入院した時,考えた「私は一体どんな病と闘っているのだろう?」離脱症状が厳しい中,出来る限り本を読んだりネットで調べた。「回復には,自助グループが大切だ」どこでもそう書かれていた。私は,γ-GTP4000を出した後,掛かり付けクリニックの先生に断酒会を紹介された。信頼のおける会員さんがいるから,と言う理由で自分の住む町ではなく隣の市の断酒会に強制入会。結果的には地元でなくて良かった。会員さんはどなたも優しい。だけど自分とは違う種族だと感じていた。「断酒して30年の人達の楽しい日常なんて聞いていても役に立たない。私は酒の止め方を聞きたいの!」帰り道ストロングゼロを一気飲みしていた。あれでは酒は止まらない。それでは! と入院中様々なオンラインミーティングに参加し始めた。退院してからはご縁を頂いたAAにも入会した。今思うのは“自助グループ”は使う場所だということ。参加すれば人生が好転するものでは無い。人間の集まりだから相性もある。ましてや,参加経験も無い先生方や,支援職の方に勧められても不信感が募るだけの場合もある。だが確かに効果はある。
◯ 心中を吐露しても安全な場所になる→お門違いな有難いお言葉を聞かなくても済むのは特に重要。心配の押し付けや「貴方の為」なんて言葉は暴力に過ぎない
◯ 他者の迷いや負の感情と共に,助かりたいと願う気持ちが少しずつだが理解できるようになる
◯ 傾聴することを学べる
継続することは大事だが,合わないと感じたら他の自助グループを見学・拝聴させて貰うのも一案だ。断酒会・AAだけではなく女性だけが参加できる場アメシストもある。ご同輩のみなさまには,溺れているのだから藁を掴んでみて欲しい。
11.死ぬまで生きる
現在,私は酒と距離を置いて生活している。けれど,何か特別に変わったわけではない。アルコール依存症は,「もう大丈夫になった」で終わる病気ではないのだ。そして世間様が思うほど「酒止めました。健常者と同じです」とはいかない。実感だ。急がば回れなのだ。だから私は,あまり大きなことは考えないようにしている。今日一日を無事に終えること。穏やかに眠ること。断酒例会で愚痴のような話をしながら,それでも笑って帰ること。そんな小さな積み重ねの中で,ようやく「生きる」ということを覚え直している気がする。
私は長い間「私さえ我慢すればいい」と思って生きてきた。
酒害,人を悲しませて人の心を殺してきた罪は重い。償なえないから忘れない。だけどほんの少しだけ幸せになるのを許してほしい。生まれてきた意味も,生きてきた理由も,後からついてくるものなのかもしれない。
“驕らず・恐れず・穏やかに”そんなふうに歳を重ねていけたらと願っている。
菜花(なばな)
神奈川県藤沢断酒新生会 酒害相談員









