岩宮恵子(島根大学)
シンリンラボ 第38号(2026年5月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.38 (2026, May.)
1.箱庭に関心をもたないひとたち
私たちはいま,日常生活のなかであまりにも多くのイメージに囲まれている。動画やSNSを通して誰かの世界が絶え間なく流れ込み,それらは強い吸引力で私たちを一瞬でどこか別の場所へと運んで日常の時間を溶かしていく。
そんななかで,そもそも箱庭に関心を示さない,あるいはまったく手を伸ばそうとしないクライエントに出会うことも増えてきた。特に,今までならば箱庭を見ると目を輝かしていた子どもや思春期のひとたちにその傾向は顕著である。これは何を表しているのだろうか。これは現在のこころのあり方を示している現象としても捉える必要があるだろう。
「どうぶつの森」のような世界構築型のゲームに親しみながら,箱庭という具体物にはまったく関心を示さない人も多い。このことは,どのような媒体なら自分の感覚を安全に預けることができるかという点への敏感さとしても考えられるのではないだろうか。
デジタル空間は,あらかじめ世界の枠組みや操作の導線が整えられていて,そこでは自分の感覚を働かせながらも,自らの心理的なあれこれは晒すことなく,ある程度守られた距離の中で表現することができる。
それに対して箱庭は,具体物を手に取り,目の前の空間に配置し,それを他者と共有するという点で,より直接的で身体的であるし,それはどうしても自分の「こころの表現」として見られてしまうものである。その生々しさゆえに,箱庭には向かいにくい人もいるように思う。
また,自分が表現したいと思ったものを,どの媒体に,どの程度の距離感で託すことができるかという表現場所の選択肢が膨大に広がっているなかで,わざわざ濃い関係性のなかで生身の表現を選ぶ気になれない人も増えてきているのではないかという気もする。
箱庭は一見すると,自由で開かれた表現の場である。何を置いてもよく,何も置かなくてもよい。しかしその自由さは,ときに拠り所のなさとして感じられることもある。何も決められていない場に身を置くことは,ある人にとってはこころを解きほぐす契機となるが,別の人にとっては,かえって不安や混乱を強める体験にもなりうるのだと思う。
一方で,箱庭に対して「こんなものを作って何になるのか」「作る意味を感じない」と思っている人もいる。それは内的なものを表現することへの不安というよりも,そもそも何かに触れるという感覚自体が希薄であるように見えることもある。そういうひとが,それでも試しに……とミニチュアを手に取り,配置してみることもあるが,こんな状況で取り組まれた箱庭は,どこか自分と切り離されたまま,ただそこに「置かれている」だけになる。そうすると箱庭がつくられているにもかかわらず,その場に流れる時間はどこか平板で,セラピスト自身もこころが動かないままその場にとどまることになってしまう。
適当に作られたように見える箱庭の背後には,このように「つくる意味がない」という感覚がある一方で,「つくるならちゃんとしたものをつくらねば」という緊張を避けようとする動きが潜んでいる場合もある。あらかじめ意味を持たないようにしておくことで,踏み込むこと自体を回避している場合もあるように感じる。箱庭は,豊かなイメージが展開していく場であると同時に,何も感じられないことや,適当にしか今は関われないということも,映し出す場でもあるのだと思う。
このように考えると,箱庭に関心をもたないということは,「何も起きていない」ことを意味するのではなく,その人なりの仕方でこころを守り,関係の距離を調整していることのあらわれとして理解される。臨床では,「箱庭をやってもらう」ことを目標としていない。そこに表現されたものだけでなく,表現されなかったこと,手を伸ばされなかったことの意味をも含めて捉えることが大事なのだと思う。
2.感覚の受け皿としての砂
箱庭療法において,砂は単なる素材以上の意味を持っている。ミニチュアの家や人物が目に入りやすい一方で,そのすべてを支えているのが,箱の中に広がる砂である。
砂は,かたちを持たない。手で触れれば崩れ,握れば指のあいだからこぼれ落ちる。その一粒一粒は固定された形態を持たず,どのようにも変化しうる。そのため砂は,まだかたちを持たないもの,言葉になる前の感覚や経験を受けとめる媒体として働く。
ミニチュアが「何かを表すもの」であるとすれば,砂は,それらが置かれる以前の状態,あるいはそれらを包み込んでいる基底のようなものに近い。山にもなり,川にもなり,何もない平面にもなる。その可塑性の中で,こころの動きは,具体的な対象としてではなく,まずは質感や地形として現れてくる。
また,砂は触れることができる素材であるという点でも重要である。言葉では捉えきれない感覚に対して,人はときに,触覚を通して近づいていく。砂をならす,掘る,盛り上げるといった行為は,単に形をつくるための操作であるだけでなく,こころの状態が身体を通して表現される過程でもある。言葉にならない緊張や不安が,手の動きの中でほどけていくこともある。思春期の子と会っていると,何もミニチュアを置かず,セラピストと一緒に砂を均したり,握った砂をサラサラと落としたりしながらポツポツと話をするようになることはけっこうある。
さらに砂は,「境界」をあいまいにする性質を持っている。固体のように明確な輪郭を持たず,水のように完全に流動的でもない。その中間にある素材として,砂は,内と外,かたちと無形,現実と想像といったあいだに,ゆるやかな移行の場をつくり出す。ミニチュアが置かれることで意味を帯びると同時に,その意味は砂の中に溶け込み,また変化していく。
このように考えると,箱庭における砂は,単なる背景ではなく,こころがまだかたちを持たない状態から,少しずつ世界をつくり出していくための基盤であるといえるだろう。ミニチュアが「見えるもの」を担うとすれば,砂は「まだ見えていないもの」を受けとめる役割を果たしている。
箱庭において,何かが置かれることと同じくらい,砂がどのように扱われているかを見ることは重要である。そこには,その人がどのように世界に触れ,どのように自分の内側に近づこうとしているのかが,静かにあらわれている。
3.ことばにならないものの表現
あるクライエントが,長く考え込んだ挙げ句,箱庭の中に,小さな家をひとつだけ置いたことがあった。その家は,箱の中央ではなく,端のほうに,少し傾くように置かれていた。周囲には何も置かれなかった。木も,人も,道もない。ただ,その家だけが,ぽつんと置かれていた。しばらく沈黙が続いたあと,クライエントは「これ,誰もいない家なんです」とつぶやいた。
ここですぐに「なぜ誰もいないの?」と問い返したりせず,その家がそこに置かれていること,その「誰もいない」という感じが,どのような空気をまとっているのかを,しばらく一緒に感じてみることが大事になる。
その場にいると,その家は単に空っぽであるというよりも,「誰かがいた気配」や「もういなくなってしまった感じ」を濃く帯びているように感じられてくる。何だか逆説的な言い方になるが,「いないことによってしか存在できないもの」がそこでは表されているように思われた。
箱庭とは,こんなふうに「ことばにしにくい体験」や「まだ自分でもよくわからない感覚」を,まずは目に見えるかたちとして外に置いてみることができる場である。そしてそれを,誰か(セラピスト)と一緒に眺めることができる。そしてセラピストはそこで表現されたことを感じとろうと必死で感覚を研ぎ澄ませる。そのような時間の中で,あとから少しずつ言葉が追いついてくることもあるし,言葉にならないままでも,何かが確かに動いたと感じられることもある。このような箱庭のあり方は,臨床のさまざまな場面において意味を持ちうる。
たとえば,ある程度言葉として語ることのできる主訴をもって来談された場合には,その内容に応じて問いかけたり,整理したりする関わりが有効に働くことが多い。言葉を手がかりにしながら,経験をたどり直していく道筋が見えているとき,面接はその流れに沿って展開されていく。
しかし,何がつらいのか自分でもよくわからない,あるいは何かが引っかかっている感じは強くあるけれど,それをどう言葉にしてよいかわからない——そのような状態で訪れる人も少なくない。とりわけ思春期においては,「うまく言えない」ということ自体が,こころの状態をそのまま示していることもある。
そのようなとき,言葉によって何かを引き出そうとする関わりは,ときにその人を追い詰めてしまうことがある。言葉にしようとするほど,かえって自分の内側から遠ざかってしまうような感覚が生じることもある。箱庭は,そうした場面でそっと寄り添う手段として意味をもつことがあるように思う。
4.語れなさを受け止める器としての箱庭
別のクライエントは,箱庭に向かうと,次々とミニチュアを手に取り,短い時間のあいだに多くのものを置いていった。人,動物,乗り物,建物——それらは箱の中に散らばるように配置され,どこかまとまりのない印象ばかりが伝わってきた。
しかし,その場にしばらくとどまって見ていると,そこにはある種の「落ち着かなさ」や「せわしなさ」のようなものが流れていることに気づいてくる。どこかに腰を下ろすことができず,視線も,注意も,次々と別の場所へ移っていくような感じである。クライエント自身も,「なんか,よくわからない」と言いながら,箱庭を見ていた。
このような箱庭は,まとまりのなさや断片性そのものが,その人のこころの状態を表しているように感じる。ひとつにまとめることができない経験,どこに焦点を当ててよいかわからない感覚,ひとつの場所にとどまることの難しさ——そうしたものが,そのままそこに現れているのである。
ここでもやはり,すぐに意味づけたり,整理しようとしたりすることは急がない。むしろ,その散らばり方や,落ち着かなさの質感を,しばらく一緒に見ていくことが大切になる。
何度か同じような箱庭が続くうちに,少しずつ配置に変化が生じてくることもある。あるもの同士が近づいたり,道のようなものが生まれたり,あるいは,ひとつの場所に人がとどまるようになったりする。その変化はわずかなものであるが,その人の中で何かが「つながり始めている」ことを示しているように感じられることがある。
この事例は,先に述べた「家ひとつ」の箱庭とは対照的である。あちらが「不在」を濃く浮かび上がらせる風景であったとすれば,こちらは「まだまとまらないもの」「つながりきらないもの」が,そのまま現れている風景である。しかしどちらも,その人のこころのありようが,言葉になる前のかたちで立ちあらわれているという点では共通している。
箱庭は,言葉を前提とせず,まずは「置いてみる」という行為を通して,まだ形になっていないものに触れていくことができる。何を置くか,どこに置くか,どれだけ置くか——その一つひとつが,その人のこころの状態を映し出していることがある。
最初から何かを語る必要はなく,むしろ,語れなさそのものが,そのまま一つのかたちをとって現れてくる。そして,その風景を誰かとともに眺めることができるとき,言葉はあとから,少しずつ追いついてくることもある。
箱庭は,「語ることができるもの」を扱うだけでなく,「まだ語られていないもの」に触れることを可能にする場でもある。その意味で,箱庭は,こころがことばを見つけていく前の時間に寄り添う方法であるともいえるだろう。
5.内的な巡礼としての箱庭
思春期の子どもたちだけでなく,今は,すべての年齢層の人たちがサブカルチャーの世界に深く関わり続けている。アニメや漫画,ゲーム,動画配信——それらは単なる娯楽ではなく,語りえない経験をいったん預けることのできる場所として機能している。そこでは,自分の感情を直接差し出すことなく,それでもなお,誰かに届くかたちでことばが紡がれている。
さらに,「聖地巡礼」という作品の舞台となった場所を訪れる行為は,イメージとして経験された世界に,身体を通して触れ直す試みである。それは,どこかで失われたものや,まだ手にしていないものに対して,現実の風景を媒介として出会い直そうとする動きでもある。
この流れの中に箱庭を置いてみると,その意味はさらに深まる。箱庭は,外から与えられたイメージをなぞる場ではなく(そのような箱庭が作られることもあるが),自分の内側から立ちあらわれてくる風景に出会う場である。それは,サブカルチャーが担っている「仮の場所」をさらに内側へと引き寄せ,断片化された経験を,ひとつの風景として引き受け直す試みでもある。
大げさに聞こえるかもしれないが,箱庭とは「内的な巡礼」の場であると言えるのではないだろうか。外へ向かう巡礼が,ある場所へと身体を運ぶことで成立するのだとすれば,箱庭においては,その運動は内側へと折り返される。自分の中にある風景に向かって歩いていくこと。その風景の中に入り直すこととして……。
箱庭にはもうひとつ重要な特徴がある。これは中沢新一先生が日本箱庭療法学会の基調講演で言われたことであるが,それは,大きすぎる現実を「手で扱える大きさ」に縮めることである。喪失や恐怖のように,そのままでは触れることのできないものも,小さなかたちになることで,ようやくそれに近づくことが可能になってくるのだ。
ここに,ミニチュアの人形の「かわいい」という感覚が力を貸している部分も大きい(この「かわいい」の力についても中沢先生は触れておられた)。それは単なる愛らしさではない。本来ならば重く,鋭く,触れれば傷つくような体験の輪郭をやわらげ,人がそこにとどまることを許す質感である。「かわいい」という感覚は,こころにとっての緩衝材のように働き,世界とのあいだに,ほんのわずかな距離を生み出す。その距離があるからこそ,私たちは壊れずに,もう一度そこに触れることができる。
このように見てくると,箱庭療法は,人が世界と再び関係を取り結ぼうとする試みのひとつであることが見えてくる。そしてその意味は,現代という時代の中で,むしろいっそう際立っている。
6.箱庭という小さな聖地
本特集では,5人の執筆者に,それぞれの立場から箱庭療法について語っていただく。具体的に箱庭の「箱」を作り,ミニチュアを手作りするという行為のなかで何が見えてくるのか,「マインクラフト」と箱庭の関係をどう捉えるのか,臨床の場に「砂」があるということの意味をどう考えるのか,ことばが追いつかない体験をしている子どもたちが多い児童相談所での箱庭体験というのは,どういうものなのか,そして死にゆく方たちが箱庭という表現をするときそこにはどんな景色が立ちあらわれるのか……。それぞれの語りは異なりながらも,その多様な語りの重なりの中で,箱庭という現象の豊かさが,あらためて立ちあらわれてくるだろう。
「箱庭という小さな聖地(by 中沢新一先生)」にともに身を置くとき,私たちは,誰かの世界に立ち会うと同時に,自分自身の中にあるまだ言葉になっていない風景にも触れることになる。そこでは,過去と現在,失われたものといま生きている自分とが,静かに結び直されていく。この特集が,読者それぞれの中にあるそのような風景に,そっと触れる機会となることを願っている。
(いわみや・けいこ)
島根大学こころとそだちの相談センター,臨床心理相談室 にしきまちオフィス
資格:臨床心理士,公認心理師









