久保田泰考(滋賀大学)
シンリンラボ 第24号(2025年3月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.24 (2025, Mar.)
1. 転換
ヒステリーでは相容れないその興奮量全体を身体的なものへと移しかえることによってその表象を無害化する。これをわたしは転換と呼ぶことを提案したいと思う。注1)
ウィーンで神経内科医として開業したフロイトは,程なくしてこのような定式化にたどり着く。患者達は手の痺れ,脚の痛み,視野の欠損などなど,ありとあらゆる神経症状を訴えていた。奇妙なことに,身体それ自体にはいわゆる器質因,筋萎縮や神経損傷などは,主だったものとしては認めらない。それらは今も昔も「転換症状」と呼ばれる。仮に現代医学の検査技術をもってしても,おそらくその多くは原因不明のままだっただろう。
もちろん,そのヒステリー患者の中には,当時は多かった神経梅毒や様々な感染症,てんかんをはじめとする神経疾患が混じっていたことだろう。そうした疾患を鑑別することは,現代の医学では容易になりました……と言いたいところだが,映画『エクソシスト』のモデルになったといわれる抗NMDA受容体脳炎などは,いまだに診断に至ることは困難である。もっと重要なこととして,仮に患者が進行麻痺(神経梅毒)を患っていたとして,その症状が心因──ヒステリー性のものでないとは言い切れない。
何か心的なものが身体症状に「転換」しているらしい。が,これだけ神経科学が進歩した今日でも,どうやって精神的な過程が物質的な過程に影響を及ぼすのか,そのメカニズム自体は解明されることはない。ではどうして,人々はフロイトが古くなったと語るのか。言い換えれば,人々がそう語る時,フロイトが見出したことの何を忘れるのだろう?
注1)フロイト(1894)防衛―神経精神症.In:フロイト全集1巻.岩波書店.
2. 防衛
フロイトが臨床から見出したことの何が革新的だったのだろう? それらの症状は,象徴的なものとして,情動的なもの,その量的な過剰に対する,「防衛」として機能しているということであった。すなわちこれは,防衛神経症である,ということだ。
『ヒステリー研究』の症例エリザベート・Rでは,彼女の脚が痛むのは,父親の包帯を取り換える時,彼の脚をその上に載せていた場所であった。彼女は「息子の代わり」といわれ,父の看病に身を尽くし,彼女に心を寄せていたらしい男との交際をこころならずも諦めたのである。すなわちヒステリー症状の意味は,「脚」―「父/言い寄ってきた男」という象徴的な連関によって明らかにされる。
防衛がうまく行く限り,古典的ヒステリー患者は見事なまでに冷静で,症状がもたらす不幸に無関心でいる。そして治療が求められる時,それはたいてい防衛が破綻して,こころが痛む時なのだが,その原因は,神経組織そのものではなく,象徴的な意味の連関によって規定されることが,治療者との関係において明らかになる。そして患者が語ることによって,フロイトが『防衛―神経精神症』(1894)で「情動量」Affektbetragと呼んだ何かが変容し,少なくとも精神分析の黎明期には,症状は見事に解消したのだ──まるで身体の表面を覆う電荷が取り去られるように──それは「語る身体」の神秘であった。
それは,心的機能の中に区別されるべき何かがあるという考えであり(情動量,興奮の総和),それは量としてのすべての特徴を持っている──われわれはそれを測定する手段を持っていないが──増加,減少,変位,散逸が可能な何かであり,身体の表面を覆う電荷のように,観念の記憶の痕跡の上に広がる何かである。注2)
しかし,そうした「情動量」のような何かが宿る,「観念の記憶の痕跡の場所」をどこに想定すればよいのかという問いは,古典的な神経学の枠組みを軽く超えてしまう。近代言語学も,自然言語を処理するコンピューターもまだない時代,フロイトはそれ以上科学的な思索を続けられなかった。『科学的心理学草稿』における驚くべき先見性を示すプロジェクトは放棄されざるをえなかったのだろう。
観念の記憶の痕跡の上に広がるその「何か」について,今日私たちは新しいことを語りうるだろうか? 脳が処理しうる,象徴のセマンティックネットワークの数理の1950年代以来の進歩があり,また今日のAIとの対話において,情動的な対話が十分に実現可能であると経験からわかるように,私たちはそれが,脳の外部に転移できる情報に基づいた「何か」であることを知っている。それは実体 としてはつかみ難く,直接意識では知覚できないが,うまくネットワークを構築すれば計算機によって実現可能な「何か」であるだろう。防衛すべき何かは象徴的なネットワークからやって来る。それはフロイトの思念において予期され,実証されるには至らなかった,私たちの神経精神分析の時代の現実である。すなわちそれは,AIと対話した直後に命を断つ事例に遭遇する現実であり注3),要するに私たちはAIからトラウマを受ける危険性を真剣に心配している。
注2)フロイト 同上 注3)2023年3月ベルギーでは,2児の父親がChatGPT-JベースのAIと気候変動に関する不安について話した後に自殺に至っている。 https://www.lalibre.be/belgique/societe/2023/03/28/sans-ces-conversations-avec-le-chatbot-eliza-mon-mari-serait-toujours-la-LVSLWPC5WRDX7J2RCHNWPDST24/ 2024年10月フロリダでは,14歳の少年がAIチャットサービスCharacter.aiでキャラクターと対話したあと自殺した事件が提訴された。 https://www.nbcnews.com/tech/characterai-lawsuit-florida-teen-death-rcna176791
3. 出来事
そうしたことと,トラウマの出来事性の問題が,今日のトラウマ臨床において一層の重要性を認識されている事情とは,全く無関係ではないように思われる。いつかどこかで起きたトラウマ記憶が嘘のようにかき消され,治療中にすっかり回復する,そんなことがありえるだろうか? そのように認知心理学者E・ロフタスは問題提起する注4)。不在の間,その出来事はどこに保存されていたのか? それは,文字通り,まさに今「出来上がった」ことではないのか?
注4)Loftus, E. & Ketcham, K.(1994)The myth of repressed memory: False memories and allegations of sexual abuse. St. Martin’s Press.
治療においてトラウマを語り,再演させることは,記憶を必然的に再構築し,歪曲する。私たちはかつて実験室での単語記憶課題で容易に虚偽の記憶が生成されること,それが健常者の前頭前野の意味的な文脈処理の働きと関連していることを示したが注5),およそあらゆるヒトのエピソード記憶は自動的に想起時に再構成されるのであり,ビデオ記録のように再生されることはない。それゆえむしろ,そうした意味的文脈で常に記憶を再解釈することこそ,治療における倫理的課題として引き受けられるべきだ。
注5)Kubota, Y. et al. (2006) Prefrontal hemodynamic activity predicts false memory-A near-infrared spectroscopy study. NeuroImage, 31(4): 1783-89. https://doi.org/10.1016/j.neuroimage.2006.02.003
女性の性被害に関して政治的な立場からコミットし,一時はロフタスらからの批判に晒されながら,それでもJ・ハーマンがトラウマを語ることを支持し,トラウマからの回復の条件としてJustice正義に訴える注6)ことが「正しい」のは,性暴力被害の臨床の経験から明らかであるように思われる。すなわち,トラウマの事実性が否定されるはずもないのだが,その出来事性は「日付」である限り──また今年もあの日が巡って来た,と言われる限りで,社会的に規定される情報に基づく「何か」なのである。それが歴史的に修正され,下手をすれば改ざんされる可能性も含めて。
注6)Herman, J. (2015) Trauma and recovery: The aftermath of violence—from domestic abuse to political terror. Basic Books.
実際,フロイトにとってトラウマの出来事性の概念は,終始不明瞭なものであった。トラウマが実際起きたことは決して否定されないのだが,そのインパクトは,主体にとってのトラウマ記憶が出来上がり,出来事性において主体がそこに織り込まれる仕方でしか,明らかにされないからだ。つまり,主体にとってそれがトラウマになりうるかは,畢竟,歴史的,社会的文脈までも含めた情報の問題であるということだ。
かつてのヒステリー患者は,幻想としての出来事を,身体によって語ってきた。それは基本的に抑圧されたものであり,ブロイアーとフロイトが『ヒステリー研究』(1895)を出版した時代には,それはいつかあの日の禁じられた出来事であった。社会的な文脈で不都合な記憶は意識の片隅へ追いやられ,ひとたび想起されれば,たいてい治療的に機能したのであり,そのようにトラウマは無意識の幻想と一体化して症状を支配していた。ゆえに「ヒステリー者は主に回想に苦しんでいる」注7)といわれたのである。
注7)ブロイアー・フロイト(1895)ヒステリー研究.In:フロイト全集2巻.岩波書店.
再びエリザベート・Rを参照してみよう。看病の甲斐なく父を亡くした彼女は,支えとなるものを失い,よるべない気持ちで,痛む脚を引きずるようにして家族と避暑地を訪れ,そこで義兄と散歩する機会を得るだろう。その時に「姉にとって代わって義兄と結婚できたら(…)」という想いが芽生え,姉へ同一化する幻想に彼女はとらえられる。彼女は幻想の主体として構築され,彼女の欠如を満たす「対象」か゚暗示される。それはもちろん不都合すぎて意識化されず,脚の症状によって防衛されるのであり,ゆえに姉の危篤の知らせを受けて,彼女の脚はいっそう狂おしく激しく痛むのである。
そのように身体症状はトラウマを「語って」いたのだと言えるかもしれない。フロイトがいう「観念の記憶の痕跡の場所」を象徴界と読み替えて,それが計算論的に実現可能だろうと見越していたあのJ・ラカンは,次のように『ローマ講演』注8)で,ヒステリーにとっての真理の露呈について語ったのだが,その真理をめぐる問題については,こうした「語る身体」が今日改めて参照されるべきなのだ。
ヒステリーが過去を暴露する曖昧さは,その内容が想像の世界と現実とで動揺するからだというのでもなくて,というのも,その両方に内容は位置付けられるのだ。またその暴露されることが嘘だというのでもない。 それは語られることにおける真理の誕生を私たちに提示するのであり,それによって私たちは真実でも偽りでもないものの現実性に突き当たるのだ。 少なくとも,そこにこの問題の最も厄介な側面がある。
それは確かに厄介なことである。予測符号化を行うネットワークに転移される記憶において,真理は内部モデルへの参照なしに規定されないし,モデル化されない受け入れ難い現実は常に残余として意識から放逐される。それは常に改変されながら,症状として回帰するだろう。
注8)Lacan, J.(1953)Rapport du Congrès de Rome. Istituto di Psicologia della Universitá di Roma, 26-27 septembre 1953.
4. 現実
今日,トラウマインフォームドケアの重要性が叫ばれ,わずかでもトラウマの可能性を検討することの「正しさ」が説かれる──まるでロフタスの批判(臨床家はトラウマへ誘導する)を忘れたかのように。その「正しさ」の根拠はさておき,何故これほどまでトラウマの出来事性の問題がメンタルヘルスサービスの文脈で改めて露呈してきたのか,それについて問い直すことは,現在のわたしたちが置かれている臨床の状況を考え直す上で,案外重要な問題なのかもしれない。
今日では社会的な文脈は絶えず壊乱し,主体をパニックに陥れ,トラウマ的な出来事は常に現実に迫っており,津波のように主体を飲み込んでいく。それはいつも表象可能とは限らない。例えば神経内科医S・オサリヴァンが報告するように,スウェーデンではクルド難民の子ども達が,半年以上も解離性意識障害,実質的な昏睡状態に陥っているのだが,その症状は在留の願いを却下する英文の手紙を,子ども達が最初に目にすること(親たちは英文を読めないゆえに)をトリガーとして引き起こされるのだ注9)。その時,子どもたちがトラウマを受けた事実性は,あの「観念の記憶の痕跡の場所」をおいて他のどこに定位させればよいだろう? 国を持たない彼女らが住まう土地で死んでいった同胞と同様に,苦難に満ちた脱出の果ての異国で彼女らの時間は静止する。そこで,トラウマの出来事性は常に現勢化しているのではないだろうか。つまり難民の子ども達にとっての現実性──リアリティは無時間的で,しばしば突然に肉親を喪失した子どもがその死を否認するように,彼女らは常に死者と共にいるのではないだろうか。
オサリバンが予測符号化のメカニズムから説明を試みるそうした解離症状において「語る」身体は,疑いなくヒステリー性の症状を示しているのであるが,それは決して古びることはない。すなわち,フロイトは古びるはずもなく,最初から神経精神分析であったし,ようやく私たちの時代の科学技術的な進歩と時代の問題の切迫性が彼の射程を検討することを可能にしたに過ぎない。
フロイトが直面していた厄介な現実はいっそうはっきりとしている──いつかの出来事ではなく,常に予測誤差を調整し作動するネットワークにおいてトラウマは生起し,AIのネットワークにおいて死の想念が亡霊のように跋扈するのと同様,眠れる少女の身体はそれを語り続ける。いつの間にかもうすでに第三次大戦が始まっているのではないかと,低く呟く声がどこからとなく聞こえてくる私たちの時代において,それはあるリアリティ,トラウマの出来事性についての真理──表象不能だが常に生起しつつある現実──を露呈させているように思われる。
注9)O’Sullivan, S. (2021) The Sleeping Beauties: And other stories of mystery illness, Picador.
久保田泰考(くぼた・やすたか)
滋賀大学保健管理センター教授
資格:医師,精神科専門医,臨床心理士
主な著書:『ニューロサイコアナリシスへの招待』(分担執筆,誠信書房,2015),『ニューロ ラカン』(誠信書房,2017),『フーコー研究』(分担執筆,岩波書店,2021),『ミシェル・フーコー『コレージュ・ド・フランス講義』を読む』(分担執筆,水声社,2021)