【特集 神経精神分析】#01 神経精神分析とは|岸本寛史

岸本寛史(静岡県立総合病院)
シンリンラボ 第24号(2025年3月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.24 (2025, Mar.)

神経精神分析。その名前が示す通り,神経科学と精神分析が合流した学問分野である。神経科学だけでは,あるいは,精神分析だけでは,ダメなのか? なぜこの2つが統合される必要があるのか? その答えは,一言でいうなら,人間という存在の複雑さにある,ということになるだろうか。

人間は,テーブルの上のコップと同じように,その大きさや重さを測ることもできるしその形や色合いを外部から観察することもできる。この点に注目すれば,人間はモノのような存在であるといえる。一方,人間は,望んでいたものを手に入れたら嬉しくなったり,論理的な思考を働かせて装置を発明したりもする。人間は感じたり考えたりすることができる存在でもある。慣習的に,前者に相当する部分は体と呼ばれ,後者は心,あるいは精神と呼ばれるものの働きとされた(体の中で特に心の働きに関係が深いとされている部分が脳である)。

神経科学は脳に,精神分析は心に,それぞれ専心することで発展を遂げてきた。しかし,一方の側面しか見ていないことの限界も露呈し始めている。人間にはモノと心という二つの側面があるのだから,人間を理解するためには両方を視野に入れた学問が必要なことは当然のことではないか。まさにそれを目指しているのが神経精神分析なのである。

二つの学問伝統を統合するにあたり,重要なことがある。それは,一方を他方に還元したり従属させるのではなく,両者を同等の重みで尊重すること。そのため,神経精神分析を創始したマーク・ソームズは,二面的一元論という立場をとる(Solms & Turnbull, 2002/2007)。人間はただ一つのタイプの素材から成り立っている(一元論)ということを受け入れるが,同時に,この同一の素材が二つの異なった仕方で知覚される(二面的)と考える。この同一の素材を,ソームズはフロイトに倣って「心的装置」と呼ぶ。これは,外側から対象としてみた時には物質のように見える(体,脳)が,内側から主体としてみる時には「精神」のように見えるものである。本特集では成田が二面的一元論について論じる。

夢の神経科学的メカニズム

夢の神経科学的研究の歴史は,一方のアプローチだけに頼ることの危険を如実に示している。1953年,アゼリンスキーとクライトマンは,入眠後,約90分周期で,急速眼球運動,全覚醒にほぼ近い活動状態の脳波,骨格筋の緊張の著明な減少を特徴とする睡眠がみられることを報告した。名付けて急速眼球運動睡眠(レム睡眠)。レム睡眠中に被験者を起こすと夢を見ていたと報告されることが多かったため,レム睡眠は夢見の神経学的相関物と考えられた。

レム睡眠のスイッチが脳幹にあることを突き止めたホブソンは,それが夢見のスイッチでもあると考え,1977年,活性化統合仮説を提唱した。すなわち,脳幹の橋のコリン作動性メカニズムによって活性化された大脳皮質が,下方からのランダムな刺激で生み出される無意味な意識的表象群(記憶イメージ,思考,感情)を弱々しくつなぎ合わせようとすることで夢見が生じると主張した。

ホブソンはこの自説に拠りながら,夢に意味があると主張する精神分析を徹底的に批判した。(それは生涯の敵を作るほど激しい批判であったという。)しかし,のちに,ソームズは夢見とレム睡眠とは分離可能なそれぞれ独立した別のメカニズムによることを明らかにした。そして,ホブソンの批判は正当な根拠に基づくものではなく,最新の知見はむしろ精神分析の考え方と矛盾しないと述べて,精神分析を復権させた(Kaplan-Solms & Solms, 2000; Solms, 2021; Solms & Turnbull, 2007)。

ホブソンの誤りはどこにあったのか。「REM睡眠=夢見」という仮説(前提)を毫も疑わず,一方のアプローチ,すなわち神経科学的研究のみに頼って研究を進めたことが最大の要因であろう。これに対してソームズは,卒中や外傷など,脳に器質的な損傷を負った患者に,夢見の体験について尋ね,こうして得られた知見と神経科学の知見とを照合しながら研究を進めた。客観的な観察によるデータと,患者の主観に基づくデータ。その両方を同等に尊重するというソームズのアプローチがなければ,夢見の科学的研究はさらに何十年もの遅れをとることになっただろう。

意識の大脳皮質説の危うさ

意識の科学的研究にも同様の懸念が示されている。意識の神経学的相関物(NCC)のみに焦点を当て,外側からのアプローチだけに頼っている神経科学は,ホブソンと同じ誤りを犯す危険がある。現在,多くの神経科学者は,意識は大脳皮質で生み出されていると考えている(意識の大脳皮質説)。その背景として,「心は,白紙の状態から始まり,感覚的な振動が残した印象から,全ての特異的な特性を獲得する」と理論化したロックとヒュームの経験主義を起点として,感覚器官が大脳皮質に接続されているという観察をはじめとするさまざまな神経解剖学の知見の積み重ねがある。意識の生成については,さまざまな理論が提唱されているが,そのほとんどが意識の大脳皮質説を前提としている。

しかし,ソームズは,ここでも主観と客観の双方を視野に入れて研究を進めることで,意識は大脳皮質ではなく,脳幹の上部で発生すると考えるにいたった。大脳皮質の働きが意識に関係していることは明らかだが,大脳皮質で意識が生まれるわけではない,とソームズは考えている。また,意識の大脳皮質説は,重大な倫理的帰結につながる可能性がある,と警告している。(Solms, 2021)

たとえば,水無脳症という病気がある。胎内で脳卒中など何らかの理由で大脳皮質が形成されず,頭蓋内が脳組織の代わりに脳脊髄液で満たされた状態で生まれる。一年以内に亡くなる場合が多いが,数年以上生きる子どももいる。このような子どもたちは,大脳皮質が形成されていないので言葉を話すことはできないが,それ以外の点では意識があるように見える。ソームズはこの事実を意識の大脳皮質説に対する重要な反証と捉えている。

大脳皮質説が正しいのであれば,このような子どもを,ひどい情動的ネグレクトの状態で育てたとしても,問題はないということになるだろう。彼らに意識はないのだから。実際,私自身,学生の時に,このような子どもは大脳皮質がないので痛みを感じることがないのだから,たとえば手術が必要になった時も鎮痛薬は不要であると教わった。しかし,果たして本当にそうだろうか。水無脳症の子どもたちには,睡眠と覚醒のリズムがあり,目標志向型の行動も見られるし,その文脈にふさわしい喜怒哀楽の感情も示す。言葉が話せないという点を除いては,意識があるように見える(Solms, 2021)。

意識があるかもしれないのに無いものとして扱ってしまうことは重大な倫理的問題につながる。ソームズは,「一見抽象的に見える理論的な考察が即座にとんでもない医療過誤につながる可能性がある」と厳しく指摘し,「意識があるように見える人が実際には意識がないことを認めるには,極めて説得力のある議論が必要である」と強調している。「哲学的な疑念を持ち出すだけでは不十分」なのだ,と(Solms, 2021)。

精神分析に臨床解剖学的方法を取り入れる

それでは,ソームズはどのように心的装置を解明しようとしたのか。特別に新たな方法を編み出したわけではなく,従来からある二つの方法を組み合わせたにすぎない。その二つとは,臨床解剖学的方法と精神分析である。前者は脳に損傷のある患者に対して用いられ,損傷部位に応じた神経所見の変化から,その部位の機能を明らかにしようとする。後者は脳に器質的な異常が認められない神経症の患者に対する治療法として出発し,精神の働きに関する理論を洗練させてきた。ソームズは,脳に器質的損傷のある患者に精神分析的アプローチを行ったのである(Kaplan-Solms & Solms, 2000)。

たとえば,前頭葉の左下外側領域の損傷で生じるブローカ失語の患者は,語られた言葉を理解することはできるが,流暢に話したり,言葉を復唱したりすることができない。これらの症状から,この領域は発話の運動要素に関わる機能を果たしていると考えられる。このように,脳の損傷部位から患者の神経学的な所見を評価すべく発展したのが神経心理学と呼ばれる学問分野であった。

左半球の損傷では自我の抑制機能は基本的には無傷のままである

しかし,ソームズが学んでいた当時の神経心理学は,客観的であることを至上命題としており,患者の主観をその対象から外していた。患者が何を感じているかを話題にすることさえタブーとする雰囲気だったという。そこでソームズは,のちに妻となるカレン・カプラン=ソームズとともに,これらの患者に精神分析でアプローチした。そして,ブローカ失語の患者は,失語や運動麻痺といった身体機能の喪失に対し,心理的には正常の喪の反応を示すことを観察した。このことは,精神分析的に言えば,自我の基本的な抑制機能(二次過程と現実原則の基礎)は基本的には無傷のままであることを示す。他のタイプの失語症でも,言葉を思考に付与することができなかったり(ウェルニッケ失語),考えることすらできなかったり(超皮質性失語)と,その損傷部位によって言語機能のさまざまな要素が障害されるが,自我の抑制機能は基本的に無傷のままで,正常な喪の反応を示すことができることがわかった。裏を返せば,これらの発話に関わる脳の部位は,自我の抑制機能に重要な役割を果たしていないと言える(Kaplan-Solms & Solms, 2000)。

右半球の損傷では全対象を表象する神経解剖学的な基質が損なわれる

左半球に損傷のある患者と比較すると,右半球に損傷がある患者が示す症状は全く異なる。神経学的には,右半球の損傷で,病態失認(障害への気づきがない,麻痺していても歩けると言う),無視(麻痺した左手を自分の手ではないと言う),空間知覚及び空間認知の障害(構成失行)といった症状が生じるとされている。

神経科学的には,これらの所見から,「右半球はネガティブな情動に優位である」とか,「右半球は注意覚醒に優位である」といった仮説が提唱されてきた。しかし,ソームズは精神分析的にアプローチすることで,これらの患者にもネガティブな情動を経験する能力は残っており,それが抑圧されているにすぎないことを観察した(Kaplan-Solms & Solms, 2000)。

これが二つのアプローチを統合することの大きな利点の一つである。病態失認と診断されると,「病気のことが認識できない」患者という先入観で見てしまうことになりやすい。運動機能の喪失を認識できないのではなく,その事実が辛すぎて抑圧しているのだ。このような理解は,これらの患者に対するより適切なケアにつなげることができる。

それでは,なぜ,右半球に損傷を受けると,そのような事態が生じやすくなるのか。精神分析的な目で見ると,これらの患者は「リビドー備給が対象愛から自己愛的なレベルに退行した」と記述されるような状態におちいっている。それゆえ,自己愛から対象愛へと移行するのに重要な,全対象を表象する神経解剖学的な基質が損なわれているのではないかと考えた。この仮説は他の右半球症候群の症状も無理なく説明する(Kaplan-Solms & Solms, 2000)。

神経精神分析の現在

以上のような成果をまとめたのが『神経精神分析入門』(Kaplan-Solms & Solms, 2000)である。同書の発刊は2000年だが,その後の20年は,最新の神経科学の知見を取り入れることに重点が置かれてきたように思う。この間,精神分析の概念を見直し(その最たるものが,コンシャス・イド(イドは本来意識的である)であろう),ヤーク・パンクセップの感情神経科学とカール・フリストンの自由エネルギー論を取り入れて,その理論が洗練されてきた。その集大成が2021年に発行された『意識はどこから生まれてくるのか』(Solms, 2021)である。このあたりのことについては,本特集で佐渡が論じる予定である。

そして現在,精神分析の実践にこれらの知見を取り入れる取り組みが始まった。ソームズのクリニカル・セミナーである。実際の臨床事例を,パンクセップの基本情動の観点から見直し,より効果的な治療を探ろうとしている。今後の展開が楽しみである。

文  献
  • Kaplan-Solms, K. & Solms, M.(2000)Clinical Studies in Neuro-Psychoanalysis. Karnac Books. (岸本寛史訳(2022)神経精神分析入門.青土社.)
  • Solms, M.(2021)The Hidden Spring. Norton.(岸本寛史・佐渡忠洋訳(2021)意識はどこから生まれてくるのか.青土社.)
  • Solms, M. & Turnbull, O.(2002)The Brain and the Inner World: An Introduction to the Neuroscience of Subjective Experience. Karnac.(平尾和之訳(2007)脳と心的世界.星和書店.)
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岸本寛史(きしもと・のりふみ)
静岡県立総合病院
資格:医師
主な著書:『迷走する緩和ケア』『せん妄の緩和ケア』『がんと心理療法のこころみ』(以上,誠信書房),『緩和ケアという物語』(創元社),共著『いたみを抱えた人の話を聞く』(創元社),『がんと嘘と秘密』(遠見書房)

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