【特集 教師を支える】#06 教師を支える──心理学を手掛かりとして|桑原知子

桑原知子(京都大学名誉教授・放送大学特任教授)
シンリンラボ 第23号(2025年2月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.23 (2025, Feb.)

はじめに

この特集においては,教師の苦しさに注目し,教師がどのように悩み,また,何が教師を苦しめているのか,について検討がなされてきた。その結果,教師の苦しみは,一様ではなく,そこには様々な要因が見いだせるように思う。

一方で,教師だからということで生じる,共通した苦しみもあると思われる。本稿では,そうした「教師ならでは」という苦しさに着目し,それに対してどのように対処すればいいのかを考えたい。その際,心理学を手掛かりとして,教師のこころに目を向けながら,アプローチの方法を考えてみることにしたい。

1.教師の苦しさ

なぜ教師は苦しいのか。心理的な面から考えてみたとき,以下のような要因が考えられるように思う。特に,心理療法において児童・生徒と接する心理臨床家との比較でみたとき,「教師だからこそ」の難しさが浮き彫りになるのではないだろうか。

1)「評価」をおこなう存在であること

教師は心理臨床家とは異なり,児童・生徒に対して「評価」を行わなければならない。そのため,「関係」を作りたいと願っても,どこかで子どもが自らのこころを閉ざしてしまう可能性がある。「スクールカウンセラー(以下SC)と違って私はとても長い時間子どもと接しているのに,どうして子どもはこころを開いてくれないのでしょうか」と語った教師がいるが,子どもにこころを開いてもらえないことは,教師にとってとてもつらいことだと思う。

2)学校という場の特徴

学校という場は,失敗が許されず,成果を出すことが求められ,それができないことは能力の低さとして,教師自身も「評価」される。これは,じわじわと教師に対するプレッシャーとなり,「うまくいかなさ」におしつぶされる可能性があるだろう。

3)「個」と「集団」

多くの心理療法においては,一対一の関係が基本となっている。それに対して,教師は一人の児童・生徒だけを対象にしているわけではなく,いつも「集団」を意識しなくてはならない。じっとすわってられなくて,立ち歩いたり,ときには教室から飛び出てしまうような子どもがいたとき,他の子どもたちを放り出していいのか。担任の関心を集めたい子どもがいたとき,その要求にしたがってばかりでいいのか,と悩むだろう。

4)保護者との関わり

教師は,児童・生徒だけを相手にしているわけではなく,その保護者と関わらねばならない。子どもたちがうまく学校に適応していないのは,保護者や家庭のせいと思うことも多いだろう。そして,子どもたちのために保護者や家庭に「変わってほしい」と願うものの,うまく伝わらなかったり,時にはクレーマーとなった保護者の対応に追われるということもしばしば起こる。

5)子どもや学校がかかえる「闇」

学校では,未来の象徴である子どもたちに対して,「光」の方向へと導こうという努力がなされる。「よいこと」「成長すること」がめざされ,「悪いこと」や「停滞すること」は,なんとか改善しなくてはならないこととして「課題」や「問題行動」としてとらえられるか,あるいは,抑圧されて,潜在化するだろう。

そんななかで,「問題児」とよばれる子どもたちは,その「闇」を生きる。学校という組織全体においてもまた,このような「光」ありき,のなかで,「闇」はとりあげられないまま,陰に潜むことがあるだろう。

最近の学校現場においては,以下のような現象がよくおこっているように思われる。これは,一つの学校でだけみられることではなく,多くの学校において同様の報告がなされており,とりあげてみることとする。

① 子どもの「うそ」

子どものつく「うそ」にも様々なものがあるが,教師の傷つきを引き起こすものとして,次の事例のようなものがあると考えられる。

事例1

中2のA子が,B先生(担任)のところに相談にきました。「こんな手紙をもらった」と悲しそうに見せた手紙には「死ね!死ね!」と書いてありました。
驚いたB先生は,その後注意深く見守っていましたが,あまり大きな変化はなく,むしろA子はふだん明るくしている様子なのに,B先生のところに来てA子が話す内容からは,いじめがエスカレートしているようでした。
そんなある日,ふとB先生がA子の答案を見ていた時,その筆跡が,A子がもらっているという手紙と同じであることに気づきました。B先生はA子の「自作自演」ではないかと思い,A子に問い詰めたところ,「そうだ」と認めましたが,A子はあくる日から学校へ来なくなりました。

これ以外にも,子どもが家に帰って「こんなことがあった」と保護者に報告して,親が学校に抗議にくるが,教師としては,まったく身に覚えがなく,子どもがうそをついているとしか考えられない,といった状況もよくみられることである。

② 不登校になったのは「先生のせい」

以前は,「どうして学校へ行けないの?」という質問に対して,親は「学校のせい」と言い,学校は「家庭のせい」と思いがちであったが,子ども自身は誰のせいとは言わず,「おなかが痛いから」などと言っていたように思う。しかし,最近は,「先生のせい」と子どもたちが答えることが多いようである。たとえば,以下のような状況である。

事例2

小3のC君は,ゴールデンウイーク明けから学校に行けなくなっています。本人によれば,「担任のD先生の声が大きくて,こわくて学校に行けない」とのことです。
C君の親は「子どもが不登校になっているのは,D先生のせい」と言い,学校に「何とかしてほしい!」と訴えています。

こうした状況は教師にとって,「傷つき」とも言える状況であり,つらいことだと考えられる。

③ 学級崩壊

教師(特に担任)は,学級運営に責任をもつ。そのなかで,うまくそれができないとき,学級崩壊といった状況に陥ると,教師自身が,対子ども,対保護者だけでなく,対学校(あるいは同僚)に対しても傷つきを覚えることになるだろう。自分の能力不足を思い知らされるように感じてつらいことだと思われる。

2.どう考えればいいのか── 支援の手立て

前節においては,教師が直面している「つらさ」の一部を挙げてみた。教師が感じているであろう心理的な苦しさは,勤務時間の長さや業務の多さからくる疲労だけでなく,そこに追い打ちをかけるように,重くのしかかっているのではないだろうか。

そこで,ここでは,少しでも教師のしんどさが軽減されるようにするには,教師自身がどう考え,またSCが「心理的な理解」によってどんな手助けができるのかを考えてみたい。

ここにおいて,もっとも重要だと私が考えるのは,支援の「方法」ではなく(つまり何をすべきかではなく),物事の捉え方,考え方のように思う。ただでさえ教師はさまざまな雑務や業務にエネルギーをとられているのだから,せめて,少しでも「気持ちが楽になる」ことが重要ではないだろうか。学校現場で教師が直面する苦しさは,そう簡単に「解決」できるものではなく,時間もかかり,すっきりと対処できるものではないだろう。だとしたら,少しでも「荷物」が減らせるよう,無駄なエネルギーを使わなくてもよいように,捉え方,考え方を変えてみることを提案したい。

そこで,最初に,前節で挙げたような状況において,教師が陥りがちな捉え方,考え方を取りあげ,心理学的観点からの「捉えなおし」を提案してみたい。

1)「評価」をおこなう存在であること
“子どもが心を開いてくれないのは,自分の関わりがよくないせいだ”

教師は(実はSCもそうなのだが),うまくいかないことを「自分のせい」ととらえがちである。たしかにそう考えた方が,「なぜうまくいかないのか」という,わからない問いへの答えが見つかった気がするからだろう。しかし,この考え方は,自分を傷つけてしまう。まずは,教師は評価する存在であり,そのことは,子どもとの関係を作るうえで難しさがある,あるいは,評価する存在として自分の存在価値があると考えてみるのはどうだろう。(子どもたちの「反抗」の相手として存在することも意味あることだろう。)

2)学校という場の特徴
“子どもに改善が見られないのは,教師としての自分の能力が欠けているからだ”

教師が児童・生徒を「評価」するだけでなく,教師自身もまた「評価」される存在として,「反省」モードに陥りがちである。たしかに,子どもが「成長」してくれたり,子どもから「先生大好き」と言ってもらえるとエネルギーをもらえる感じがするだろうが,子どもたちは単に光に導かれて進むだけではない。改善しなかったり問題行動を示すことは,けっして教師の能力不足の反映ではなく,むしろ,子どもたちがそのような「表現」ができることは,教師の能力の高さ(あるいは,子どもが教師を信頼していること)を示すように思われることが多い。

3)「個」と「集団」
“問題を抱えた子どもにだけ関わっていると他児を犠牲にし,学級運営を失敗する”

これはたしかに難しい状況であり,SCでも学校現場において,相談室に複数の子どもたちがいるときには,困難さを感じるであろう。

教師がどのようにこの問題に取り組んでいるのか。私は様々な学校においてコンサルテーションを行っているが,そのときに聞く実践内容からは,「子どもたち自身がこの問題を解決している」ことがうかがわれる。つまり,対象の問題を抱える子に対して,子どもたち自身が「様々な」アプローチをし,ある子は厳しく,ある子はやさしく接しながら当該の子を支えていくといったことがよく聞かれた。ただ,こうしたアプローチが功を奏している学級は,教師自身が「開かれた」態度(すなわち,問題児がこのクラスからいなければよいのに……などという考え方をもたず,問題児がいるからこそ他児にとっても教育的意味があるのだと思うなどの態度)があることが重要だと思われるが。

4)保護者との関わり
“子どもの不適応は保護者のせい。保護者に変わってもらう必要がある”

教師は(SCも)子どもを中心に据えるので,子どもに対してベストな環境を期待する。そのため,保護者に対して,よりよい対応を期待し,今できていないことを指摘して,変化を望むということが往々にしてあるだろう。そうなると,保護者は苦しくなってしまい,「学校からの電話には絶対に出ない」といったことや,学校と敵対的関係になってしまうということがありうるように思う。保護者もまた,苦しみ,不安なのである。そのため,子どもに対するのと同様に,保護者に対しても「クライエントとして接する」ことが重要ではないだろうか。ここでいう「クライエントとして接する」というのは,病理をみるということではなく,「相手のことを真っ先に考える」ということである。子どもを育てるうえでの「協力者」としてではなく,一人の人間として,保護者もまた尊重されるべき存在だと思うのである。

5)子どもや学校がかかえる「闇」
“学校そのもの(管理職を含めて)に「問題」があり,それを正す必要がある”

子どもの不登校や不適応行動は,子どものせいでも保護者のせいでもない,学校の体制,あるいは社会の問題であると考えることも妥当だと思われる。そして,こうした学校の抱える「闇」に立ち向かう教師も多いだろう。ただ,私は,学校というところは巨大な歯車がぎ〜ぎ〜と音をたてて動いているような印象があり,それに下手に手を入れれば,深い傷つきが生じるようにも思っている。悠長かもしれないが,私は,自分の左と右にいる,身近な存在に自分の想いを告げ,それがゆっくりと拡がっていくという方法をとっている。

また,「闇」は避けられないものであり,それを排除しようとするのではなく,その存在を意味あるものとして捉えるということもありうるだろう。私は「学校時代劇説」を唱えているが(桑原,2016),悪である「お代官」がいるからこそ水戸黄門が生きると思っている。

① 子どもの「うそ」

“子どもはうそをついている。うそをつくのはよくないことだ”
“子どもはうそをついている。何とか誤解を解きたい”

「うそ」はよくないことであり,学校現場では「正す」べきこととして,とりあげられることと思う。しかし,心理臨床の領域では,少し異なっている。実際の現実を「外的現実」と呼ぶのに対して,外的現実ではなく,こころのなかの現実を「心的現実」と呼ぶ。これを事例1をもとに説明してみよう。A子は,実際には「死ねという手紙をもらっている」ことはなかった。つまり,外的現実としては,A子はうそをついている。しかし,この「死ねという手紙をもらっている」の前後に,「あたかも」と「かのように」をつけてみると「あたかも死ねという手紙をもらったかのように」となり,そのあとに,「つらかった」と言えば,けっしてA子はうそを言っているということにはならないだろう。つまり,「心的現実」としてはA子はうそをついておらず,ほんとうのことを言っていたと考えられるのである。こうした「心的現実」の重要さを指摘したのはフロイトS. Freudであり,心理学領域の知見である。

② 不登校になったのは「先生のせい」

“子どもが不登校になったのは,自分のせいだ”

子どもにそう言われると,教師としては当惑とともに,落ち込むしかないだろう。しかし,私が体験した多くの現場の様子からは,実際に教師のせい,ということはまずなかったように思う。そこには,心理学でいう「投影」という機序が働いているのではないかと考えられる。たとえばだが,実際には声の大きな自分の父親へのこわさを教師に「投影」し,「先生がこわい」と言っている場合などが考えられるということである。いずれにしろ,教師が「自分のせい」と思い込む必要はない。ある時,自分のクラスから多くの不登校児が出た先生が,「子どもが不登校になったのはすべて私のせいです」と言われたことがあったが,私は,「あなたのせいで子どもを不登校にできるほどあなたはえらくありません」と言ったことがある。「自分のせい」ではなく,子どもはもっと大きなものに動かされ,意味ある行動をとっていると私は考えている注1)

注1)シンリンラボ第3号(2023年6月号)【特集 令和型不登校にどう向き合うか】今,私たちは不登校にどう向き合うのか|桑原知子

③ 学級崩壊

“学級崩壊になったのは自分のせいであり,他の教師が自分のクラスに入ってくることは屈辱的だ”

「指導力不足」とレッテルを貼られる,あるいは,うまく子どもたちを「管理」できないとされて,他の教師の批判的な目にさらされるのは,もっともつらいことの一つだろう。しかし,そもそもが教師という立場で子どもと接することは難しいことであり,一人で抱え込むのではなく,SCも含めた「チーム」が有機的に機能することが理想だと思われる。(実際にはそれが難しいのだけれど)。

さいごに

教師のしんどさは,簡単に解消されるようなものではない。しかし,無駄に一人で抱え,自己肯定感を傷つけることはなくしたいと考えている。

SCもまた,学校現場で何ができるのか,無力感を感じることが多いだろう。しかし,このSCの無力感と教師の傷つきこそが,両者の「連携」の基盤となるのかもしれない。そこで両者が出会うのだから。

「問題児とは問題を教えてくれる子」と河合隼雄は述べていた。「問題」のなかにこそ希望を見つけながら,進んでいきたいものである。

文  献
  • 桑原知子(1999)教室で生かすカウンセリングマインド.日本評論社.
  • 桑原知子(2016)教室で生かすカウンセリング・アプローチ.日本評論社.

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桑原知子(くわばら・ともこ)
京都大学名誉教授・放送大学特任教授
資格:公認心理師・臨床心理士
主な著書:『もう一人の私』(創元社,1994),『カウンセリングで何がおこっているのか─動詞でひもとく心理臨床』(日本評論社,2010),『教室で生かすカウンセリング・アプローチ』(日本評論社,2016) など
趣味:テニス

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