【特集 教師を支える】#01 教師からみた教師の現状と課題|河田 充

河田 充(元中学校校長,鳥取県米子市立美保中学校スクールカウンセラー)
シンリンラボ 第23号(2025年2月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.23 (2025, Feb.)

1. 教師へのプロローグ

教師は日々苦しんでいる。つらい気持ちと葛藤している。そのつらさ,苦しみのもとはいったい何なのか? 

教師になろうと思えば,多くの場合,教員養成課程のある大学への進学を目指すだろうから,中学校か高校在学中に教員免許が取れる進路を選ばなくてはならない。もちろん好きな先生との出会いや楽しい学校生活の経験から,すでに小学校段階で「私は将来先生になる!」と夢を膨らませていた人もいるだろう。それほど「教師」は,子どもたちにとって身近で魅力のある,楽しくやりがいのある職業に思えるのである。

教師への進路選択を決めるこの時期は,不安定な思春期心性の時期と重なっている。自己意識が強まるとともに他者に内面を揺さぶられ不安に苛まれる時期に,子どもの思春期と関わる職業として教師を選ばなくてはいけない。これは結構大変なことかもしれない。具体的に教師を目指すということは,中途変更が簡単ではないコースに第一歩を踏み入れるということである。それは,「私は教師に向いている」と思うほどの自信はないが,「子どもが好き」「子どもは嫌いじゃない」というささやかな気持ちを拠り所とし,意を決して大学に進むことを意味する。

2.教師の現状:どんな苦しみがあるのか?

以上,教師になるまでのことを書いたのは,教師を目指しているこの時期に紡いできた夢や期待や迷いを縦糸にして,さらに教師になってからの実践経験を横糸に重ねていきながら「教師」という自己実現の布を織っていくイメージを共有したいからである。そのような様々な思いを込めて教師になった日から次々と希望の糸が切れていくとしたら,若い教師は何を守りにしていけばよいのだろうか?そのような教師を悩ませつらい思いをさせる学校現場で,教師を取り巻く環境はどのようになってきているのか?イメージしやすいように,事例をもとに構成した仮例をいくつかあげてみよう。

例1<新任の担任になって>

4月,新学期のスタートはめまぐるしい。どの教師にとってもだが新任で新しい学校に着任した教師には特にである。始業式の日までの短い春休み中に,職員会,学年会,各分掌部会,校内研究推進委員会など会議が連日目白押しでトイレに行く暇もないほどである。新年度からの授業も気になるところだが学校では準備する時間がほとんどないので,勤務時間が終わってから学校に遅くまで残って準備するか持ち帰って睡眠時間を削って取り組む。毎日がこのように過ぎへとへとに疲れた状態で始業日を迎えるので,明るい笑顔で子どもたちを教室で出迎えるのも難しい。そうしたいと思っていたのに心の余裕もない。不安が募るが気を張って心を奮い立たせて進むしかない。

例2<教師との関係>

新任教師と比べてベテラン教師はよく気がつく。「あなたの学級の○○が,不要物を持ってきてたから取り上げたよ」「○○が朝から化粧してきてたから注意して落とさせたよ」教科担任からは「あなたの学級は,授業に遅れてくる,忘れ物は多い,私語は多い,提出物は出さない,学習習慣が身についてないよ。保護者にも連絡してきちんと指導しないと!」他の担任からは「A組の生徒が規則違反の髪型して来たから注意したら,B組の○〇さんはずっとこんな髪型してきてるのに私だけ何で?と言ってた。ちゃんと指導しないと!」などと言われてしまう。担任はひたすら「そうでしたか。すみません」と平身低頭。それからは,朝の会では子どもの服装や髪型に注意が向くようになる。提出物や忘れ物に対しても家庭連絡をして細かく指導するようにする。あまり自分のキャラではないが「厳しい指導」を心がけるようになる。ある日,子どもたちの身なりばかりに目を光らせる自分にふと気がついて愕然となる。私は何をやってるんだ……と。

例3<児童生徒との関係>

新任教師で担任を受け持ったころ,学年主任から「何かあったらすぐに家庭訪問に行きなさい!」とよく言われた。自分の担当クラスに教師の指示になかなか従わない生徒がいる。注意されるとすぐ切れて暴れたり物を壊したりする。腹いせか級友に当ったり,時には担任に向かって物を投げつけたりすることもある。最後は怒鳴り合いのようになり,その日の教室では担任との関係性は最悪である。職員室で学年主任に顛末を報告すると「放課後すぐ家庭訪問して親と話しなさい」といつものように決められた生徒指導方針にしたがって言われる。(気が重い。行けばどうなるかだいたい想像がつく。)放課後,子どもの家を訪ねると父親は夜遅くまでの仕事で不在(父子家庭で母親はいない)。3つ上の姉が本人を呼んでくれたが,イライラしながら出てきていきなり「何で,来たんだ!帰れー!」と怒鳴る。(予想された展開だ。)なるべく穏やかに「お父さんはいつ頃帰られる?」と言うと「おやじに何か言ったら殺す!帰れ!」と取りつく島もない。早々に帰途に就く。明日,あの生徒と学校でどうなるかと考えると足取りが重くなる。

例4<保護者との関係>

ある日クラスの女の子が,担任教師に「先生,これ」と言って自分の上履きを見せに来た。見ると中に画鋲が入っている。その後も,机の中に入っていたという紙切れを持ってきて見せると,「死ね キモイ 学校へくるな!」という内容が書かれているなど悪質なイジメ事案が連続した。その後も生徒玄関に誰もいないはずの時間帯に「また画鋲が入っていました」と女の子は靴を持ってくる。おかしいと思った担任は,女の子の悪口が書かれた紙切れの筆跡を調べてみると女の子本人の字と似ていることに気がついた。「これは,もしかしたら自作自演?」と考えて学年主任にも説明し,放課後女の子を呼んで話をすると,やがて自分がしたことを認めた。なぜそんなことを?と疑問に思ったが,とりあえずイジメ事案ではなかったことにホッとして,家庭訪問して説明するからと女の子を返した。ところが職員室に帰ってしばらくすると母親から抗議の電話が入ってきた。「今,子どもが泣いて帰ってきた。『自分がやっていないのに,先生に強く言われて怖くなって自分がやったといってしまった』と子どもが言っている。『もう明日から学校へ行きたくない』と言っている。どうしてくれるんだ!」と怒っている。その後学年主任が代わって話をして学校へ来てもらって話し合いをしたが,父親も一緒にきて「なぜ最初から疑ってかかるのか?」「言い方が怖かったと言っている。脅しではないか?」「このまま学校に行かなかったらどうしてくれるんだ!」とすごい剣幕で一方的に言われた。最後は「経験の浅い新任の担任でもあり,指導の仕方,聞き取り方をもう少し配慮すべきであった」ということで担任が謝って学年主任がその場を収めた。えっ?私が謝って終わり?……何とも納得がいかず悶々とする。でも,女の子は明日から学校に来てくれるだろうか?これからどう対応すればいいのだろうか?明日からのことを考えると気がますます重い。

例5<地域との関係>

荒れている学校では,放課後になっても教師にホッとする間はない。毎日のように地域からの電話が入る。「アパートの階段で生徒が集まって煙草を吸っている。住民から苦情が出ている。何とかしてほしい」と管理する不動産屋から。「店の前で,中学生がたむろして飲食して困る。ゴミを散らかすし大声を出すし,お客さんの迷惑だ」と近くのコンビニの店長から。ある日は地域の年配の方から「近所の公園で中学生が大騒ぎしている。お菓子を食い散らかして片付けもしない」と怒りの電話。急いで教師数名がその場所へ行き子どもたちに注意を促すが,すぐに従わず逃げまわったり暴言を吐く。その様子を見ていた通報者の年配の男性は,教師たちに向かって「先生は,何で厳しく叱らんのだ。昔は先生が叩いてでも厳しく指導したものだ!何やっとるんか!」と恫喝された。だれも返す言葉がない。見ていた生徒たちは大喜びで,「やあ,先生が叱られてる!」とはしゃぐ始末。その時,周りの教員が険しい目で子どもたちをにらんでいるのに気がつく。憎しみの目である。そして自分にも同じ「憎しみ」が湧いていることに気づく。その気持ちは教師自身の心をも傷つける。「ああ,子どもを憎むようになったらおしまいだな」漠然とその思いが広がる。

3.学校の変化・教師の変化と教師の苦しみについて

いったい学校の何が変わってきたのだろうか?そこにある教師の辛さ,苦しみは何なのだろうか。当然,教師集団の一員として組織的に抱えるジレンマ,苦しみもあるし,教師個人が抱える苦しみもあるだろう。木村敏の言葉を引用するなら,「各個体は,集団の構成員として集団的な主体性を生きるのと同時に,各自の個別的主体性をも生きています。ですから個々の主体は,それ自身がそれ自身と環境…(略)…との境界であることによって,いわば二重の主体性を生きることになります」(木村,2015)ということであり,その「二重の主体性」ゆえに,環境や対人関係との不相即注1) ,不適応や,二重の主体性のズレによる苦しみや辛さが,困難に直面した時に教師個人に生じてくるのではないだろうか。ただそれは様々な環境や個人的な問題もあり,苦しみのもとを一概に言葉にして明らかにするのは難しい。しかしあえて筆者なりに思い当たることを挙げるならば,これまで学校の持っていた特性である「祝祭性」や「同僚性」の喪失ではないだろうか。

注1)不相即:本来,相互に関係し合う2つの事柄の密接なつながりが失われている状態。

学校は将来に向けて知識・技能を身につける場であるから授業が本分である。しかしそれに加えて人間関係や個性伸長を養う場でもある。だから体育祭や文化祭などの「祭り(行事)」が欠かせない。「入学式」や「卒業式」も紅白幕を張り非日常の場をつくり,保護者だけでなく地域の方々も招いて言祝ぐ「祭典」とも言える。「祭り」の良さは,日常のしがらみ苦しみを焚き上げる「蕩尽性」 注2)や高揚感による「一体感」,そこから生じる「境界の超越」や「対等な関係性」なのではないだろうか。

注2)蕩尽性:一見,無駄な消費(祭りによる浪費、供犠、芸術など)に没入し,合理性や有用性に縛られない至高性を回復すること。(参照:G・バタイユ)

このことについて,ある中学校での「体育祭」の一場面を紹介する。その中学校は「体育祭」の応援合戦が名物で,全校生徒がチームごとに分かれて応援団を中心にパフォーマンス練習や応援グッズ制作に夏休み前から取り組む。教師全員もチームごとに分かれて,子どもたちと話し合ったり一緒に制作したり,チームの勝利をめざす同志になる。この体育祭は地域の名物で,当日になると保護者や卒業生や一般の方々で校庭があふれるのである。その応援合戦が終わった時,やり切った応援団の生徒の一人が「なんか,なんか……気持ちいい,楽しいぞー!」と叫んだ。応援団は,応援合戦をリードするチームの花形で,そこで活躍する生徒には日常ではいわゆる問題児とされる生徒も少なからず入っている。叫んだその生徒もそんな一人だ。終われば勝敗は関係なく,生徒も教師も保護者も地域の方々も皆が笑顔で称え合う。時間と空間と関係性が境界をなくして一体となり,学校が「聖地」であることを実感する。これまでも,今も,これからも変わらずここにあり,いつでも戻って来られる「聖地」としての学校がそれぞれの心の中にあることが大切なことであるように思う。

子どもたちのこれからの人生で,学校での楽しい思い出や心が熱くなる体験が大きな支えとなるだろう。教師にとっては,生徒や保護者や地域と一体感を味わい,教師同士の「同僚性」が一層深まることが何よりの成果になると思う。

現在の学校を振り返ると,「祝祭性」「同僚性」がどんどん失われていっているように感じる。教育課程のスリム化の影響で「学校行事」は精選され,廃止かあるいは簡略化されつつある。教師の努力で行事の内容を工夫しながら何とか続けているが,行事の意義や「祝祭性」を保持するのが難しくなってきている。一方で学校教育には,変化する社会情勢に適応する力が求められ,英語教育,情報処理能力,環境教育,新たな視点の人権教育,災害教育等々が年々積みあがってきている。教師は大変である。

忙しくなるとゆとりもなくなり,仕事が遅い,失敗が多い,仕事分担量が少ない,など同僚に不満をもつ教師も出てくる。加えて教師自身も個別評価される立場であるから,他者と比べて正当に評価されていないと感じれば不満はさらに深まる。集団として子どもを教育する教師に,ことさら個人の資質技能の向上を重要視し,数値目標を設定させて結果を求める個別評価制度は馴染まない。他の教師と協働してこそ個々の個性・能力は発掘され,集団の中で発揮されるからである。「同僚性」の深まりこそ困難な教育現場でも喜びや楽しさが感じられて,また明日から頑張ろうと思えるのである。特に若い教師は,同年代の同僚と悩みや喜びを共感し合うことが大きな支えとなり力となるのだが,近年は児童生徒数の減少,教員採用の減少で,同年代の教師も少なくなり教師集団の中で孤立しがちである。さらに教師は仕事に追われる中,間違えないよう,期限に間に合うよう,人に迷惑をかけないよう,できるだけ良い評価が得られるよう,失敗や他者からの非難を回避して仕事を無事終える安心感を求めるようになる。中井久夫の言葉を引用するならば,「これらはすべて,『死回避行動(安全保障感追求行動)』を起こさせる恐怖である。それは強い動機になり激しく持続性の行動を起こさせる。しかし,その果てに,感情のこもった喜びはない。それは,次第に人間の心を枯らしてくる。教育全体が単色化してくる」(中井,2011)と表現できるかもしれない。今の学校教育の変化によって,子どものみならず教師の心にも「学校強迫症」の根が広がりつつあり,安心を求めるあまりに中井の指摘する「不安や恐怖に対処する意識的な防衛」に終始するようになれば,教師としての喜びや楽しさは失われていき,また明日学校で!という活力も出なくなるのではないか。

最後に今一度,中井の言葉を引用して今の教師の困難さを感じてみたい。

もし精神科医のごときにも一言弁明が許されるとすれば,私はしばしば,揺れて止まない大地の上に家を建てることを求められ,強風の中に灯をともすことを命じられているように感じている。(中井,2011)

新しい状況を呈する症状に対して,対処の日の浅さを認めつつもなお努力を積み,新しい可能性に目を開くことを努めつつ歩もうとする精神科医の姿勢は,教師にも重なると思う。集団の主体性と個人の主体性の狭間で時に二項対立の境界性に悩み苦しみながら,教師は迷いながらそれでも子どもたちと向き合い日々教育実践に努力している。どうすれば微力でもそれを支援できるか,現在SCをしながら考えている。

文  献
  • 木村 敏(2015)からだ・こころ・生命.講談社学術文庫,pp.43-44.
  • 中井久夫(2011)「思春期を考える」ことについて.筑摩書房,pp.48-49, pp.64-65.

バナー画像:Rosy / Bad Homburg / GermanyによるPixabayからの画像
Harish SharmaによるPixabayからの画像

+ 記事

河田 充(かわた・みつる)
元中学校校長,鳥取県米子市立美保中学校(スクールカウンセラー)
資格:公認心理師,臨床心理士,小・中・高等学校教員免許
趣味:読書,料理,テニス

目  次

コメントを書く

あなたのコメントを入力してください。
ここにあなたの名前を入力してください

過去記事

イベント案内

新着記事