川口信雄(株式会社はまリハ)
シンリンラボ 第22号(2025年1月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.22 (2025, Jan.)
1.一見些細とも思われることが原因で悩む卒業生
カフェに勤めるAさんは,店長から「君は意外と周りが見えていないね」の一言で自信がなくなり,その翌日職場に行けなくなった。筆者が職場に行って分かったことは,食器洗浄を中心に仕事をしていたところ店長から「食器を洗いながら,目の前の喫煙ルームの混み具合にも注意してね。混んできたらレジにいる店長に伝えるように」と指示されたことに混乱してパニック状態になったということ。Aさんは2つのことを同時に処理することが苦手なので,慣れるまでは1つの業務に集中させてほしいとお願いし,この問題は解決することができた。その後は調理や客席への案内などレジ以外のほとんどの業務をこなしている。
このケースで良かったのは休んだ初日にSOSが入ったことである。そのため初期の段階で支援に入ることができた。問題が小さいうちに相談してくれると,修復も早い。困ったときにSОSを出せる,他者に相談できる力はサバイバルスキルといえる。この相談力が自然と身に付くようになるのは難しい。学校にいるうちに「まずは相談してみよう」という姿勢を身につけさせたい。そのためには「相談してよかった」という成功体験が鍵になる。
2.横浜わかば学園とキャリア教育
筆者は横浜市教育委員会指導主事として横浜わかば学園(横浜市立若葉台特別支援学校)の開設準備にあたり,開校後は進路担当として約100人の高校生の進路開拓やマッチング,卒業後の定着支援にあたってきた。横浜わかば学園は高等特別支援学校で卒業後はほぼ全員が企業に就労する。軽度の知的障害や発達障害のある高校生が17,8歳の時期に「ここで働きたい」と自己選択・自己決定することは容易なことではない。そのためには適切な支援のある中での試行錯誤の経験が必要になる。そこで,横浜わかば学園では自立に向けた移行支援に重点を置き,キャリア教育を中核にしたカリキュラムを編成した。
キャリア教育とは下記の中央教育審議会答申が示しているように,「キャリア発達を促す教育」である。言い換えると「社会の中で役割を果たすことを通して自分らしく生きていく過程を支援する教育」である。就職することがゴールではなく,その目的は人生を豊かに自分らしくしなやかに生きることにある。
一人ひとりの社会的,職業的自立に向け,必要な基盤となる能力や態度を育成することを通して,キャリア発達を促す教育(2011年1月 中教審答申) |
3.学校と企業や地域をつなぐデュアルシステム
横浜わかば学園に入学してきた生徒は「自分はどんな仕事につけばいいのか」不安に思っている。また,選ぶことに苦手意識を持っている生徒も少なくない。そこで,清掃,オフィス,製造,食品,物流,福祉など多くの職種や職場での現場実習を3年間で8回以上組み込んでいる。この中で「何ができて」「何が好きなのか」「何ができないのか」「これはダメだ」などを頭だけではなく体でも理解できるようになり,体験的に自分のことが分かってくることをねらった。
現場実習を数多く体験すれば働く力が付くのかというとそれだけでは不十分で,大切なのが現場実習の後の「ふり返り」である。この「ふり返り」を通して初めて自己理解を深めることができる。自己理解には二つの段階がある。まず自分の状態をとらえること。次にそのことを受け入れることである。後者が特に難しい。卒業するまでに「自分の状態を受け入れる。言い換えると障害受容する」ことは容易ではない。社会に出てから,上司の異動やパートナーとの出会い,一人暮らしなどで想定外の場面に直面し,その中で徐々に受け入れていくものと考える。
「ふり返り」とあえてひらがなを使うのは,「過去を振り返るだけではなく,前にプロジェクトするもの,未来志向で夢を実現するためのもの」というイメージを生徒に伝えたいからだ。ここには,いわゆる「反省」とは一線を画したいという思いが込められている。横浜わかば学園の「ふり返り」の特徴は仲間や教師との対話の中で行われることにある。
4.他者との対話の中での「ふり返り」は自己理解を深め,相談力を高める
現場実習では企業から多くの課題をいただいてくる。実習後に自分の経験をふり返り,そこから気付かされた自分の課題を校内の学びにつなげ,次の実習に臨む。現場実習→ふり返り→校内の学び→現場実習というサイクルを繰り返す中で働く力を身に付けていくことをねらっている。
「ふり返り」はまず自分と対話し,課題を意識化・言語化することから始まる。次に他者との対話の中での気付きや助言を受け,次の目標やそれを達成するための手段を設定していく。この対話を「キャリアデザイン相談会」と呼んでいる。その一例を紹介する。
『高2の2月のキャリアデザイン相談会』 生徒B:1月の現場実習は私服での通勤だったため,どうしたらよいのか戸惑いました。今もどんな服装をすればよいのか,自信がありません。 生徒C:自分も初めての私服通勤の時は戸惑いました。柄物はあまりいいと思えないから,無地のものにしています。 生徒D:私は会社の人から仕事をしているときも,会社から一歩外に出て通勤しているときも,わが社の一員として見られていることを意識するように言われました。 |
相談メンバーは同級生3人と教師2人ほどで,事前に次の3点を確認している。第1に相談者の気持ちを共感的に受け止めることから始めること。第2に相談は答えを伝えることが目的ではないこと。第3に対話による本人の気付きを大切にすること。
このような対話の中で,生徒は自分の適性や気付かなかった一面などを発見すると共に,他者に共感してもらう幸福感も味わえる。すると,なんとか自分の考えをわかってもらおう,伝えようという思いが芽生えてくる。そして,相談すると何かが変わるという期待感が育まれる。
5.卒業期には卒業後の生活の不安を相談する
卒業期には福祉関係者をお呼びして卒業後の生活面の不安などを相談する「キャリアデザイン相談会」を実施する。スーパーに就職するEさんは「火曜と木曜の休みに何をしたらいいのかわからない。」という相談をした。休日が土日ではないことに違和感があったのだ。相談した福祉関係者から「最初の一カ月は体調を見て,その後からやりたいことを考えましょう」というアドバイスをいただいた。自分の不安を語れたことと,それをゆっくり考えていけばよいというアドバイスをされたことでEさんの不安は解消し,「相談して安心することができました。社会人になって困ったことがあったら,相談します」と話してくれた。「キャリアデザイン相談会」で最も大切にしていることは「相談して良かった」という経験をすること。これ,なくして「相談力」を身に付けることはできないと考える。
横浜わかば学園の高校生は現場実習という共通のテーマで「キャリアデザイン相談会」を繰り返し行い,卒業期には将来の相談をするなどを通して不安の向き合い方を学んでいるが,実社会に出ると,相談の内容も状況も個々に異なり,また,「気軽に相談できる相手」を見つけることにも困難さが伴う。そのような状況下においても自分が困っていることがわかり,困ったときに困ったと言える(SOSを出せる)ことが相談力の付いた状態と考える。
川口 信雄(かわぐち・のぶお)
株式会社 はまリハ 顧問
中学校(社会科)特別支援学校教員資格
主な著書:『中学校通級指導教室を担当する先生のための指導・支援レシピ』(2016年,明治図書)
趣味:登山,農業