高石恭子(甲南大学)
シンリンラボ 第22号(2025年1月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.22 (2025, Jan.)
1.はじめに
私は障害学生支援の専門家ではないが,関西の都市郊外にある中規模私立総合大学で30年以上にわたってカウンセラー(臨床心理士)として学生相談に携わってきた。その間,大学進学率は20%台から50%台へと変化し(アメリカの研究者,マーチン・トロウ Trow, M. の高等教育発達段階理論に従えば「マス型大学」から「ユニバーサル型大学」へと移行し),どこにいても,誰でも,高等教育を享受できる時代になった。留学生数はかつての6倍近くに増え,障害のある学生数は,かつては統計上にも載らなかったが今日では在籍総数の2%に近づく勢いで年々増加している。諸外国に比べてまだまだ均一性は高いとはいえ,わが国の高等教育機関に学ぶ人々の多様化は着実に進んでおり,一世代前が思い浮かべる「大学」と今日の「大学」とでは,社会において果たすべき機能は相当に異なったものになっていると考えられる。
そのような時代の変化を反映して,日本学生支援機構が2005年度から毎年全国の大学に実施している「障害のある学生の修学支援に関する実態調査」においても,今年(2024年)度から調査の枠組みが大きく変更された。たとえば,「知的障害」を独立した障害種別として精神障害から分離する,医学的な診断のない発達障害を調査対象から外す,などである。後者の変更理由は,調査の手引に「大学等の回答の負担を軽減する観点から」と説明されているが,高等教育における障害支援の制度化の観点から,発達障害に対しては一定の整備を終えたと認識されていることの反映だと理解しても間違いではないだろう。次なる課題は,知的障害のある学生に高等教育を享受する権利をどう保障できるかを検討するための現状把握へと移っていると言える。
しかしながら,障害の中でもとりわけ個別性の高い,目に見えにくい生きづらさを抱える発達障害の人々への支援をどのように実現していくのかにあたっては,合理的配慮を提供する制度が整ったからといって,必ずしもうまくいかない側面があることを私たちは意識しておく必要がある。本稿では,長く学生相談・学生支援の現場で多様な事例と向き合ってきた心理臨床家の立場から,発達障害の学生支援において大学教職員が陥りやすい落とし穴や,支援における留意点などについて,少し俯瞰的に述べてみたい。
2.発達障害支援の制度化と心理臨床の専門家の経験
おしなべて,わが国は「人権」への意識が先進諸国の中で確立されていない方に属することは,周知の事実である。発達に偏りがあり修学に困難をきたす学生への対応も,2005年に「発達障害者支援法」が施行され配慮の必要が法的根拠をもつまで,多くの大学において「本人の問題」として処理されていた。集団での学習や学生生活がつらく不登校が続いた場合は休退学せざるを得なかったし,学内でパニックになり周囲に不安や恐怖を与える行動化に至った場合は,補導や処分の対象になることもあった。私を含め,学生相談室のカウンセラーは学生本人の傷つきや怒りを受け止め,関係教職員に理解と対応を求める通訳者のような役割を担うことが多かったが,当時はカウンセラーにも批判的なまなざしが向けられることが稀ではなかった。
2013年に「障害者差別解消法」が成立し,高等教育機関においても3年後の施行に向けて支援の制度化が求められたことにより,国公立大学と一部の大規模私立大学ではあわただしく障害学生の修学支援室を開設し,コーディネーターが配置されるようになったことは,関係者のあいだで記憶に残るところである。そこで起用された人員は,国公立の場合は有期雇用の教員(臨床心理士や精神保健福祉士,あるいは障害児教育の専門家など)が多く,私立の場合は学生支援担当部署の事務系管理職の兼務が多かった。
そもそも,私立大学では障害のある学生への合理的配慮の提供は「努力義務」に留まっていたため,制度化に至らない大学が大半であった。私の属する大学でも,学生相談室のカウンセラーが実質的なコーディネーターの役割を担い,発達障害のある学生が受講する科目の教員にコンタクトし,必要に応じて学生との修学面談を設定し,経過のフォローをするという仕事が急増してカウンセリングのための時間が逼迫するという状態が生じていた。私の属する大学でコーディネーターの配置が実現したのは,法律施行後数年経ってからである。
一方,障害学生支援がすぐ制度化された大学の臨床心理士からは,現場の混乱を窺わせる相談を受けることが続いた。支援室にコーディネーターとして採用されたある人は,カウンセリングはせずコーディネートだけをしてほしいと上層部から要請され,大いに困惑していた。障害のある学生の心理的な支援に時間を割く代わりに,もっぱら修学に関する環境調整業務をしてほしいという意味である。また,学生相談室でカウンセリングを本来業務としていたある人は,学生支援部署の管理職から,発達障害の疑いのある学生には診断と手帳取得を勧めて早く障害支援室に送るよう促された。いずれの人々も,有期雇用だったり非常勤契約だったりして,大学からの要請に従わずにおくことは立場上の困難が伴う。「私は専門家としてどうすればよいのか」という切実な問いかけに対して,的確な答えを見出すのは容易ではなかった。
こういった混乱を生じた一つの背景には,2005年の発達障害者支援法施行以後,早期発見・早期診断・適切な療育と環境の調整を是として推進された乳幼児や義務教育段階の子どもに対する行政の施策の影響があったかもしれない。心身とも発達途上にある子どもと,すでに一定の発達のプロセスを経て高等教育に学ぶ学生とでは合理的配慮の提供のあり方も異なるにもかかわらず,当時はその点が丁寧な議論の俎上に乗ることはないまま,大学でも早期発見・早期診断・手帳取得に向けた支援の制度化が模索されたとも言える。
そうして,新たな制度が立ち上がり人やお金が投入されると,当然ながら限られた期間で目に見える成果(端的に言って数値)が求められる。何人の学生に合理的配慮を提供し,また就職先を得る支援をしたかが問われる。それは「大人の事情」であり,一人ひとりの発達的特性をもつ学生の事情とは必ずしも一致しない。高校までは家族や周囲のサポートもあり大きな問題なく生活できていたが,大学に入って自立を求められ初めて挫折を経験する発達特性のある学生はめずらしくない。そういった事例では心理臨床の専門家は,障害の可能性を示唆して制度利用を勧める前に,まず学生本人の心情にじっくり寄り添い,学生の自己理解が進むのを支えようとするのが通常である。自分の得意不得意を客観的に理解し,生まれ持った特性がどのように今の生きづらさをもたらしているのかを考え,診断を受けるかどうか,受けるとしていつか,さらに支援の制度を利用するのかしないのか,社会に出て生きていく道筋をどう描くのか,それぞれのタイミングで自己決定できる主体を,時間をかけて育てようとするのが心理臨床の専門性である。
しかし,制度化まもない発達障害支援においては,そのような数値化の難しい営みは評価されないことが多かった。新進あるいは中堅の臨床心理士にとって,それはアイデンティティが大きく揺らぎ,自分自身の職業倫理との葛藤に晒される経験でもあったと言える。
3.あいまいな日本語の孕む問題
そのような初期の混乱を経て,発達障害のある学生への支援に向き合う中で,心理臨床の専門家の側にも多くの新たな学びや変化がもたらされたことも述べておかねばならない。十数年前の当時,発達障害には内省的なカウンセリングが有効ではなく心理療法の対象ではないと除外的に考えたり,無力感を覚える心理臨床家は少なくなかったが,学生相談の現場では必要に迫られ,他の領域に比べていち早く意識の変革が生じた。その一つは,「『治る』支援から,『個性を生きる』支援へ」という変化である(高石・岩田,2012)。神経症やパーソナリティ障害などの改善に専門性の根拠を見出そうとしがちであった私たちは,「生まれ持った特性(それは基本的に生涯続く)ゆえに生きづらさに苦しむ学生」という理解の枠組を得たことで,学生相談の本来の目的,すなわち「それぞれの事情を抱えつつ,個々の学生が成長して自分らしく社会へ巣立つ過程を支える」ために何ができるかを複眼的に模索できるようになった。
発達障害のある学生個々の内的世界を可能な限り追体験し,彼らが外的世界と関わるときに何が起きるかを想像し,どうすればより安心して他者と共にその場に居られるかを一緒に探していく過程は,まさに心理臨床の営みそのものであると言えよう。彼らの中には,自分の内的世界をなかなか表現できない寡黙な人もいるが,懸命に言葉やイメージで伝えようとしてくれる人もいる。
物理的には同じ教室に,早朝に登校して誰も居なければ入室することができるが,先に他学生が着席しているのが見えたらドアの前で足がすくんでどうしても一歩が出せない(それが誰であるかは問題ではなく,「人」がいることで別空間になる)。大教室で私語する学生があちこちにいると,飛行機が墜落したような爆音が頭の中で鳴り響き,5分と持ちこたえられない。駅のホームに立っていると流れるお知らせのメロディが音階で聞こえ,音それぞれに色が見えて落ち着かない。一つの課題に没頭すると食事をすることも忘れ,不眠不休で長時間取り組んでしまい熱発する。「なぜ〇〇した?」と指導教授に言われ,苦言を呈されているのに気づかず理由を詳細に説明してますます叱責されパニックになる。スケジュール管理が苦手で,忘れないように手帳に予定をすべて書き込むけれど,その手帳自体を忘れたり失くしたりして試験や課題提出が間に合わず単位を落とす,など。
発達障害のある人々は生まれてからずっとその世界で生きてきているので,集団圧力の強いわが国の学校教育の場で,自分がどれほど多数派の人々とは比べものにならない適応努力を強いられているのかを客観的に知ることが難しいのが普通である。心理臨床の専門性をもつ支援者は,これらの人々の独自の世界にときに魅了され,ときにその孤独に圧倒され,その一端を追体験できたときは自分の世界が拡がるのを感じ,面接を重ねて築く信頼関係を土台にしてそれらの学生の成長を支えようとする。その先に,学生の置かれた客観的な状況を学生本人や家族に伝え,いつ,どのように環境調整をはたらきかけるか(配慮を求めるか)という作業が意義をもつ。職種がコーディネーターでもカウンセラーでも,心理臨床家の根本的な姿勢は同じはずである。
しかしながら,支援者間での一定の共通理解が進んだ今日においても,学内で教職員との協働体制を取ろうとするときに立ちはだかる障壁の一つに,日本語のもつあいまいさの問題があることを述べておきたい。
まず,「障害」という言葉。私が言いたいのは「障害」「障碍」「障がい」という表記の問題ではなく,医学的な概念と福祉的な概念が一つの言葉で表されていることの弊害についてである。英語で身体障害はphysical disability または physical handicap,精神障害は mental disorder,発達障害は developmental disorder である。ほかにも,器質性精神障害の一つ「高次脳機能障害」では hyper brain dysfunction となる。このうち disability は社会環境と個人の相互関係によって生じる行動や機能の不全を表し,福祉の観点から議論される際に用いられる概念であるが,disorder は個人内に生じる変調,秩序やバランスの乱れによる機能不全を意味し,精神医学の診断概念として議論される際に用いられる概念である。
ところが,日本語ではすべて「障害」と訳されるため,障害学生支援の現場では,配慮を提供する側も受ける側も,今自分たちが何を問題にしているのかが明確にならないまま対話しようとして困難に出会う。たとえば,発達障害の医学的診断を受けることは,それから一生,障害者として福祉の支援を受けて生きることと同一だと混同している人がいまだ珍しくない。
案外意識されていないことだが,disorder,dysfunction としての障害は,時間と共に状態(症状の内容や程度)が変化する。精神障害は学生期の間に治癒することもある。発達障害の学生も特異的なプロセスをたどるにせよ発達・成長する。それらの学生に,「今,何を,どこまで配慮することが高等教育として適切か」「配慮を受けることによって,場合によっては成長が阻害される」という視点を抜きにして,一律に合理的配慮を提供しようとする姿勢には注意が必要である。たとえば,高校まで手厚い個別対応の配慮を受けてきた発達障害の新入生が,「教室に入ることが困難なので,すべての授業を個別に受けさせてほしい」と要望したとき,たとえ物理的に別室やビデオ配信での学習が過重な負担なく提供可能な学部であったとしても,そのまま応えることは教育として適切だろうか。そうではなく,学生がいずれ社会に出ていく道筋を描き,少しずつ他者と共にいられる教育環境の整備を検討し,学生や家族と対話を重ねることが重要ではないか,ということである。
次に,「配慮」という言葉。reasonable accommodation を「合理的配慮」と訳したことの弊害についてはあまり表立って議論されないが,多くの支援者が感じているところであろう。「合理的」と聞くだけで,何か理路整然とした配慮の基準やルールが用意されていると思い込む人も少なくない上に,「配慮」という日本語は多くの人に「事情を抱えた気の毒な人に何かをしてあげる」ことだとふわっと理解される事態を生んでしまった。
高等教育における修学上の「配慮」にはいくつかの次元がある。たとえば,上述した例のように不注意の特性がありスケジュール管理が不得手な学生に,学生課の職員が個別にスマホのカレンダー機能の使い方を教えるのも配慮,授業担当教員が自分の裁量で課題の提出期限の延長を認めるのも教育的な配慮だが,それらは英語では consideration や care であり,accommodation とは言わない。accommodation とは,上述の例で言うなら,ADHDの診断書や高校までの支援計画書などを根拠資料として学生本人が合理的配慮の提供を申請し,授業の提供元,支援部署とが協議して,たとえば授業内での指示を当該学生だけ必ず書面で渡す,研究室で毎朝指導教員がその日の計画を本人と確認する時間を持つ,その指導の録音を許可する,などの具体的な調整を決定し,大学(組織)として提供することを指す。合理的配慮とは,「何かをしてあげる」ことではなく,当該学生の「学ぶ権利を保障するために必要な何かを行う」ことなのだという基本的な原則が,大学教職員にはまだまだ浸透していないと感じさせられることは多い。
4.制度化のその先に待ち受ける課題
2021年に「障害者差別解消法」が改正され,3年後には私立大学でも合理的配慮が法的義務化される見込みになって以後,法令遵守に向けて各大学ではいよいよ障害学生支援のガイドライン,フロー,規程,組織の整備や見直しが喫緊の課題となった。ここまで見てきたように,合理的配慮の提供は個人の判断ではなく大学(組織)の責任において提供するものである。教育機関である大学にとってより重要なのは,「支援の保障」ではなく「権利保障」であり,その実現のためには,教職員と専門家の協働による全学的な制度化が必要となる。ここで言う専門家とは,医学,心理学,福祉,教育,情報処理技術など,多様な内容を含むが,とりわけ発達障害のある学生への合理的配慮の提供においては,「個」の成長に寄り添う心理臨床の専門性が果たす役割は大きいと私は考えている。
改正障害者差別解消法が施行されて1年弱が過ぎ,試行錯誤の期間を経て制度が定着してくると,次は支援の効率化,スリム化への方向へ進んでいくことが予想される。例えば私の属する大学でも,合理的配慮を提供している学生との面談回数を減らし,合理的配慮の提供内容の見直しも半期ごとではなく1年ごとでよいのでは,あるいは卒業まで申し出がなければ自動継続でよいのでは,といった提案が学内から出てくる。合理的配慮も教育の一環であると考えると,人を育てる高等教育の営みに「効率化」は相容れない価値観だろう。さらに言えば,合理的配慮かそうでない配慮かという仕分けによって成り立つ障害支援の制度を超えて,多様な学生一人ひとりが入学した大学での高等教育を享受する権利を守るために,私たちはまだまだ不断の努力を求められているのではなかろうか。
文 献
- 日本学生支援機構(2024)令和6年度(2024年度)障害のある学生の修学支援に関する実態調査. https://www.jasso.go.jp/statistics/gakusei_shogai_syugaku/2024.html
- 高石恭子・岩田淳子編著(2012)学生相談と発達障害.学苑社.
- Trow, M. (2000) From Mass to Universal Higher Education.(喜多村和之編訳(2000)高度情報社会の大学―マスからユニバーサルへ.玉川大学出版部.)
高石 恭子(たかいし・きょうこ)
甲南大学文学部教授/学生相談室専任カウンセラー
臨床心理士,大学カウンセラー,公認心理師,京都大学博士(教育学)
精神科病院の心理士,母子療育教室のセラピスト等を経て1989年より学生相談に従事。乳幼児期から学生期に至る子どもと親の関係や子育て支援についての研究も行ってきた。2019年5月~2023年5月 日本学生相談学会理事長。
著書に『自我体験とは何か─私が〈私〉に出会うということ』(創元社,2020年),『子育ての常識から自由になるレッスン─おかあさんのミカタ』(世界思想社,2021年)など。