松浦真澄(東京理科大学)
シンリンラボ 第19号(2024年10月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.19 (2024, Oct.)
1.本章について
産業・労働分野は「よくわからない」「具体的なイメージが湧きにくい」と“思われやすい”ことを「#00はじめに」で述べた。本章では,特に職場のメンタルヘルス対策を中心に,この分野の特徴や心理職について若干の説明や私見をお伝えしていきたい。この分野のわかりにくさが解きほぐされ,次章以降の内容に補助線を引く役割も担えれば幸いである。
2.この分野の特徴とは?
この分野を特徴づけていることは何か? 急に質問をされると,咄嗟に「労働者を支援すること」と答えるかもしれない。しかし落ち着いて考えてみると,ちょっと違う気がする。他の分野でも心理支援の対象が労働者である場面は多いはずだ。本章の執筆にあたって私なりに考え直した答えは大きく2点で,(1)職場組織およびそこに関連する場面で実践されていること,そして(2)対象となる課題・問題が,職場や仕事と関連していること,である。これらから,実践上の特徴として,①産業保健活動との関連,②働く人々の置かれている事情を知ることの重要性,が見えてくる。これら実践上の特徴と,そこに求められる支援のあり方について述べていく。
3.産業保健活動との関連
1) 産業保健活動とは?
公益社団法人日本産業衛生学会(2000)は産業保健活動について以下のとおり説明している。「産業保健活動の主目的は,労働条件と労働環境に関連する健康障害の予防と,労働者の健康の保持増進,ならびに福祉の向上に寄与することにある。産業保健専門職は職域における安全衛生の確保をはかる労使の活動に対して専門的立場から関連する情報の提供,評価,助言などの支援を行う。その活動対象には,個々の労働者だけでなく,労働者が所属する組織,地域をも含む」。
産業保健活動が広範で包括的な取り組みであることがわかる。ここではまず,この活動がいわば企業の安全配慮義務の履行や労働者の健康の保持増進等の支援を重要な目的としていること,安全や健康とはメンタルヘルスに関連する諸問題を含むものであることに注目しておきたい。そして本邦においては,法令により企業にその取り組みが義務付けられている制度も多い。このような背景もあり,職場におけるメンタルヘルス支援は,産業保健活動の一環として,もしくはその枠組みに合わせて実践される。
2)医療との違い
産業保健活動は医療と異なる側面が多い。中でも,狭義の疾病治療が目的ではない面には留意が必要である。疾病に対して直接的な治療を行うのでなく,安全に仕事ができることや,仕事によって疾病が増悪しないことを目指し,個人や環境に働きかけることになる。
例えば何かしらの生活習慣病や精神疾患のある労働者への支援においては,医療機関での治療経過や体調のコントロール状態等に応じて,業務上の調整等を適宜おこないつつ,その労働者が安全に仕事を続けられることが目指される。医療機関と労働者が取り組む疾病治療と,産業保健活動とか連携して労働者を支援するのである。
この辺りの違いは本質的なものであろう。心理職に限らず,この分野に従事する以前に医療機関での経験が長かったがゆえに,産業保健の考え方に馴染むまでに戸惑いを経験したというエピソードを何度か見聞きしたことがある。地域保健での経験がこの分野での活動にプラスに働いている,というエピソードも同様の観点から理解することができそうだ。
3)職場内の関係者との連携
職場組織で実践される活動であるため,社内の関連部門等と接することが生じる。日常的には多くの場合,産業医や事業場内の看護職等の事業場内産業保健スタッフ,人事労務管理スタッフが中心となる。事例に応じて職場環境の調整などを進めるため,当該労働者の上司らと直接・間接的に連携する場合も多い。先述した,産業保健活動が職域における安全衛生の確保をはかる“労使の活動”である点に注目しておきたい。
このように,多職種・多部門にわたり,いわゆる対人援助職ではない関係者との連携・協働がなされることも特徴であろう。一見,難しいことのように思えるかもしれないが,後述するとおり労働者が職場や仕事に関連する不安やストレスを抱えている実情を考えれば,職場の各部門と連携できることは大変に心強いことである。
事例によっては,関係者や部門によって認識や方針が異なる場面もみられる。背景にもつ専門性や知識,職場内の立場や責任などが多様であるため,異なりが生じるのはむしろ自然なことである。連携を進めるうえでは,これらの異なりを前提に,その時々での各関係者の認識や意向に配慮していく丁寧さと慎重さが求められよう。そのためには,関係者のネットワークを常に念頭に置いておく必要がある(松浦,2020)。
4.働く人々の置かれている事情を知ることの重要性
1)評価制度による動機づけ(そして,プレッシャー)
企業組織で働く人たちは,労務を提供する義務を負い,求められた役割や責任に応じて仕事をして(そして給与を得て)いる。気まぐれや自分の好みで業務の内容や量を選び,希望するままの給与を手にするわけではない。多くの企業では,労働者は一年ごとに業務に関する目標を上司との面談で決定する。その達成状況は上司との定期的な面談によって振り返りがなされ,一年後には最終的な評価がなされる。この評価は,当該労働者の給与・賞与や今後の昇格・昇進(もしくは降格)などに影響する。この「上司」も基本的には同様で,自らの目標やその達成について,さらに上の上司と面談し評価がなされる。これが毎年繰り返される注1)。
このように,労働者らを目標の達成や成功の追求に動機づける評価制度があり,同時に彼らがそのプレッシャーに晒されている側面を十分に理解しておく必要がある。業務の内容や責任などが関連する心身の負荷も同様である。所属する組織における固有の文化や慣習,人間関係なども,彼らを取り巻く諸要因であり,支援の場においても常に念頭に置いておく必要がある。
この状況は調査結果にも表れている。2023(令和5)年におこなわれた厚生労働省の調査によると,仕事や職業生活に関する強い不安,悩み,ストレスがある労働者の割合は82.7%であり,その内容は「仕事の失敗,責任の発生等」(39.7%),「仕事の量」(39.4%),「対人関係(セクハラ・パワハラを含む。)」(29.6%),「仕事の質」(27.3%)等となっている(厚生労働省,2024)。
注1)実際には企業ごとの人事制度や,雇用契約などにより異なる。
2)生活全体を見据えた関わり
各労働者の状況に応じた支援をおこなうためには,狭義のメンタルヘルスに限定されない視点と関わりが必要となる。たとえば,仕事へのモチベーションを維持すること,異動・昇進・転職後などの新しい職場環境や職務に適応すること,今後の働き方・仕事との向き合い方など,キャリアに関する悩みを含むさまざまな困難に対応する。
職場や仕事以外の事柄も重要である。育児や介護,身体的なものも含む疾病の治療,家族関係に関する悩みが生じている場合もある。抑うつや不安などの症状への支援も,状況に応じて同時に進められる。これらは職業生活と相互に影響している。産業・労働分野での実践であっても,個々人の生活全体を見据えた支援が必要と言える。働く生活を支えるのである。
5.この分野で活動する心理職
常識的な事項も含め,職場のメンタルヘルス対策やそこでの心理支援の特徴について,そのいくつかを確認してきた。次に,この分野で活動する心理職に関する,2つの論点について私見を述べたい。
1)「企業か労働者か?」問題
この分野の心理職は誰の支援をおこなうのか? 企業や組織のためか,それとも労働者個々人のためか,という議論の場に何度か居合わせたことがある。抽象的で曖昧な論点ではあるが,その場では多数の「労働者派」とでも呼ぶべき見解が示されるところから始まり,少数ながら「企業派」とする意見も挙がることで,さまざまに意見交換がなされた。そして最終的には第三の「どちらでもない中立派」との見解が「労働者派」と同数程度に示されるに至ったあたりで締めくくられていたように記憶している。
その時の私は,いずれの見解にも完全には馴染むことができず,その違和感の正体を言語化することもできないまま,静かにしていたように記憶している。また,その場の議論において社会通念から逸脱していたり,心理職の職業倫理に反するような意見は皆無であったことを,念のため付け加えておく。もう一点,このような二項対立的な論点でも,第三の見解が示される辺りは,“さすがは心理職”というところだろうか。
さて,現時点での私はどのように応えるか。「企業」でも「労働者」でもなく,また「どちらでもない中立」でもない,「どちらをも含む,より全体」のためだ,との見解を提案するかもしれない。労働者個人を支援することは職場組織への支援を考慮することや企業の安全配慮義務の遂行を支援することと一体または相互に関連する活動であるし,その逆もまた然り,と思うからである。少なくとも産業保健の観点に立てば,この発想は自然なものであるのが私なりの理解である。
ただし先述のとおり,労使間や関係者間で意向が常に一致するわけではない。その不一致は,関連する法令や企業ごとの規則等に基づいて,そして話し合いなどを通して公正に調整されるはずのものである。その場にある権力構造に留意することは,常に重要であろう。そしてやはり,産業保健活動が適切に実践されることの重要性を考えさせられる。
2)「精神科医療の経験が必須」論
心理職を目指す大学院生や他の分野で活動する若手の心理職から「産業・労働分野で働くためには精神科医療での実務経験が必須だと(先輩等から)聞いた。実際はどうか」という相談をたびたび受ける。私がこの分野に従事し始めた頃から,二十数年に渡ってのことである。
私個人は「精神科医療の経験が必須」とは考えていない。これは単に,私が不見識であるが故に,その必要性を適切に理解できていないだけかもしれない。しかしながら,少なくとも私の周りには医療機関での勤務経験のない転職や,新卒で就職をし,この分野で活躍している心理職は多い。
この分野の心理支援は多岐に渡るし,産業保健の体制や活動も企業ごとに多様である。求められる能力や職務経歴は求人案件によって異なるのが実情であろう。場合によっては,入職後の実務を通して習得することを期待する部分が大きいのではないか。
上記のような相談を受けた際には,業界内の求人情報をチェックする習慣がなく実情を把握していないことを正直に伝え,そして個人の見解であることを前置きした上で,率直に返答している。ただ,矛盾する情報によって混乱させては申し訳ないため,「きっとその先輩は,かつての精神科医療での経験が必須だったと実感する経験をされたのだろう」「医療機関での実務経験者の割合が高いであろう実情を考えると,その先輩と同様の考えを持つ方は,相対的に多いかもしれない」「どんな知識や経験であるかよりも,それを現場の状況に応じて活かす謙虚さと柔軟さが大切」などと付け加えるよう心がけている。
6.おわりに
ここにきて,また一つエピソードが思い出される。教育分野で活動する心理職との会話の中で,「(産業・労働分野は)教育分野と似ている気がする」とのコメントをいただいたことがある。学校教育に関する法令や各学校の校則そして文化,教師と児童生徒の関係,(学業成績などの)評価など,そこには共通する要素がありそうだと教わり,納得するとともに大きな学びを得るものであった。
本稿では次章からの構成を想定し,産業・労働分野について述べてきたつもりである。しかしながら私の見識が及んでいないだけで,どの分野においても類似または相似の構造や状況があるのかもしれない。分野や現場の範疇を越え,幅広く関心を持ち,交流や学びを続けていきたいものである。
文 献
- 厚生労働省(2024)労働安全衛生調査(実態調査)(https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/r04-46-50.html 2024年9月7日閲覧)
- 公益社団法人日本産業衛生学会(2000)産業保健職の倫理指針(https://www.sanei.or.jp/oh/guideline/index.html 2024年9月7日閲覧)
- 松浦真澄(2020)産業メンタルヘルスにおけるブリーフセラピーの使い方.In:日本ブリーフサイコセラピー学会編:ブリーフセラピー入門.遠見書房,pp.178-184.
松浦真澄(まつうら・ますみ)
東京理科大学教養教育研究院,医療法人社団こころとからだの元氣プラザ産業保健部
資格:公認心理師・臨床心理士
主な著書:『みんなのシステム論』(分担執筆,日本評論社,2019),『公認心理師の基礎と実践20 産業・組織心理学』(分担執筆,遠見書房,2019),『ブリーフセラピー入門―柔軟で効果的なアプローチに向けて』(分担執筆,遠見書房,2020),『心理カウンセラーが教える「がんばり過ぎて疲れてしまう」がラクになる本』(共編著,ディスカヴァー・トゥエンティワン,2021),『産業心理職のコンピテンシー』(分担執筆,川島書店,2023)
趣味:映画,音楽,猫