本山智敬(福岡大学人文学部)
シンリンラボ 第16号(2024年7月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.16 (2024, Jul.)
1.はじめに
私がはじめてオープンダイアローグ(以下,OD)に出会った時,これまで実践と研究を行ってきたパーソンセンタード・アプローチ(以下,PCA)との共通点を随所に感じ,喜びで興奮したことを覚えている。ロジャーズの理論はクライエントセンタード・セラピーとして個人カウンセリングにおける傾聴の態度(中核三条件)が有名だが,その後エンカウンター・グループの実践を通し,PCAと名称を変えながらその理論を展開していったことは十分に伝わっていないのかもしれない。日本でロジャーズといえば中核三条件の論文を発表した1957年で理解が止まっている可能性がある。しかし,ロジャーズはその後も30年間生きているのだから,理論が発展しないはずはない。
PCA理論のエッセンスは,表のようにまとめられる(本山,2023)。ここでは詳細については省略するが,「個人の尊重」を軸に,対話における個人の体験へのあたたかいまなざしがそこにはある。支援する者も支援される者も個人として尊重される,そうした対話を通して,結果的に両者の間で「共創」を生まれるのである。
ODとPCAの共通点はさまざまに表現できるが,両者の最も重要なポイントであり,かつ他の支援アプローチと異なるのは,「支援する側の価値観で相手を変えようとしない」ことと「支援する側と支援される側の対等性」である。この2点は,私は「中動態」の概念で説明することができると考えている。中動態については以前,オープンダイアローグの分野でも紹介され,シンポジウムが開かれたこともあるが(國分,2019),その後この分野で取り上げられることが少なくなったように感じる。ここで改めて中動態について取り上げ,それをもとにODとPCAのエッセンスを検討したいと思う。
2.中動態の3つの側面
中動態の概念にはさまざまな角度から焦点を当てることができるが,ここでは大きく3つに分けて説明する。その3つとは,「言語学としての中動態」,「哲学としての中動態」,「臨床としての中動態」である。
まず中動態は,言語学の側面から理解する必要がある。現代において用いられている言語の動詞体系は「能動態と受動態」の対で表されるが,古代では「能動態と中動態」の対で表されていた。「能動態と受動態」では,行為を「する」側と「される」側に区別し,その行為が相手に向かうのか自分に向かうのか,行為の方向性が重視される。つまり「能動態と受動態」において,能動態はある動作を働きかける者が主語として表され,行為は主語から外へ向かうのに対し,受動態は働きかけを受ける者が主語として表され,行為は外から主語へ向かう。それに対し「能動態と中動態」では,主語が行為の過程の外にあるか内にあるかが問題となる。能動態は行為が主語から出発し,主語の外で完遂する過程を表すのに対し,主語がその座(=場)となり,行為が主語の内部で行われる過程を表すのである。例えば,曲げる,与える,流れるなどは主語の外で行為が完遂するので能動態であり,欲する,好きになる,畏敬の念を抱くなどはその行為が主語の内部で行われるので中動態である。このように「能動態と中動態」においては,行為が主語の外で完遂するのか,行為が主語を座として(主語の内部で)行われるのかが問われる。
ここで興味深いのは,中動態は自動詞表現(現代では「能動態」で表わされる)と受動態表現とが同居しているという点である。私たちが誰かを好きになる時,相手から何らかの影響を受けている(受動態表現)と同時に「好き」という感情がその人を場として現れる(自動詞表現)。その時の「好き」は,現代の「能動態と受動態」で表されるような,自分の気持ちを能動的に「好き」にさせたり誰かから受動的に「好き」にさせられたりするような,方向性のある「する-される」行為で表されるものではない。「好き」は,その人を場としてその人の内部で行われる過程なので,まさに中動態でしか表すことができない行為である。
こうした「言語学としての中動態」の理解が,次の「哲学としての中動態」の理解につながる。ここでの哲学はスピノザ哲学を指している。一般にスピノザ哲学は難解だと言われているが,その大きな理由の一つに,スピノザ哲学は中動態の世界でしか理解できない点が挙げられる。私たちは行為を「能動(する)-受動(される)」で捉える世界に生きているため,人の内面の動きを外部との影響関係(ある原因がその結果をもたらす)で説明しないスピノザ哲学はイメージしにくいのである。
スピノザ哲学では,中動態として理解される「変状」のプロセスが重要となる。変状とは,外部の刺激が主語に作用する段階を経て主語の内部で変化が生じることであり,スピノザはこの主語の内部で起こる変化のプロセスに注目した(図1参照)。先の「Aさんを好きになる」という例に即して説明するならば,その人はAさんから影響を受けると同時に,その人の中で「好き」につながる変状が生まれる。その変状は「Aさんと一緒にいると何だか落ち着く」だったり,「ドキドキする」だったりするだろう。あるいは「Aさんの前では正直でいられるなぁ」という感覚かもしれない。そうした変状は「再帰」という形で自らに一定の影響を与え,國分(2017)の言葉を借りるならば「自らの感情が『好き』という方向に舵を切る」のである。
では,「なぜAさんが好きなのか」と問われたとしよう。現代の「能動態と受動態」の世界では行為の方向性が重要なので,自分を「好き」という気持ちにさせたAさんの特徴,例えばかっこいい,背が高い,趣味が似ているなどでAさんを好きになった理由を説明するかもしれない。しかし,中動態の世界ではもはやAさんの特徴は不問にされ,自分の中でどのような変状が起こったのかに注目するのである。確かに,同じAさんと出会っても好きにならない人もいるし,同じ好きでもそれにまつわる変状の仕方は人によってさまざまである。つまり,Aさんをめぐってその人の中で起きている変状の仕方にこそ,その人が「Aさんを好きになった」理由が見えてくるのである(図2参照)。
スピノザ曰く,私たち一人ひとりは「変状する能力」(外部の刺激に応じて変状をもたらす能力)を持っている。その「変状する能力」をスピノザは「本質」と捉えている。
3.「臨床としての中動態」に向けて
スピノザは「本質」を力だとした。人の本質は「その人らしさ」と言い換えることもできよう。つまり,その人らしさを形あるものではなく,目に見えない力に見出そうとしたのである。「変状する能力」というと,能力の高低で評価したり他者と比較したりするような誤解が生まれそうだが,そうではない。その人らしさとは,外見や客観的指標,他者比較などで判断されるものではなく,その人自身が本来持っている「変状する能力」に関係しているというのである。つまり,その人らしさは,何らかの刺激に応じてその人の中で変状するときのその変状の仕方に表れると言えるのではないか。
そう考えると確かに私は,カウンセリングにおいてクライエントが何らかの苦しい体験を語ったとき,クライエントを客観的に見立てたりその苦しさの原因を取り除こうとする前に,その人の苦しさがその人を通してどのように語られるのかといった,苦しさにまつわるその人の変状の仕方に関心を持っているように思う。クライエントが症状や苦しみを抱え続けていたとしても,その人の変状の仕方がよりその人らしくなってきた時,私はクライエントが自分自身を生きているように感じる。また,2017年にPCAの仲間と一緒にフィンランドのケロプダス病院に視察見学に行った際,座談会に参加してくださった医師が「診察時に患者さんに『あなたは統合失調症です』と伝えた途端,患者さんは『統合失調症の患者』としてしか自分を語れなくなってしまう。それよりも患者さん自身の困りごととして語ってもらうことが大事だ」と述べていたことを思い出す。その医師はまた,「自分の症状を自分の言葉で語れるようになった患者さんは状態が良くなっていく」とも言っていた。その語りとは,症状についての客観的な説明ではなく,症状にまつわる自分自身の変状についての主体的で主観的な振り返りであり,それに丁寧に耳を傾けてくれる病院スタッフの存在があって初めて生まれてくる語りなのではないだろうか。
変状は,苦しさや症状について語るクライエント(患者)だけでなく,その語りを聴いている支援者側にも起こっている。私は中動態に出会ってからは,傾聴は支援する側がクライエントに対して行う行為ではなく,クライエントの語りに影響された自分自身の反応(変状のプロセス)だと考えるようになった。つまり,傾聴は「能動−受動」の世界での能動態で表されるような,相手に向けて行う行為ではなく,中動態の世界で表されるような,クライエントの語りを聴いているうちに自分自身の中で起こってくる変状のプロセスに丁寧に触れていく行為なのではないか,ということである。PCAの傾聴の態度(中核三条件)の1つでもある「一致(自己一致)」の態度はまさにこの点につながってくるし,ODでのリフレクティングが良い形で行われている際にもこのような態度が生まれているものと思われる。
4.「中動態的存在論」と「中動態的対話」
中動態の世界では,現代の「能動-受動」の世界に生きる私たちが当然のこととして捉えている「原因が結果を生み出す」という発想は存在しない。中動態の世界においては,「原因と結果の関係は,『働きかける』と『働きを受ける』の関係であることをやめ, 原因が結果において自らの力を表現するという関係になる」(國分,2017)。これによって,これまでの例で示したように,「Aさんの特徴をこのように見ているからその人はAさんを好きになったのだ」とか,「この患者さんは統合失調症だからこのような症状で苦しんでいるのだ」といった捉え方ではなく,「Aさんと一緒にいるとなんだか落ち着く」といった実感を伴う語りからAさんを好きになったその人自身のことを想像したり,患者さんの主観的な語りを通して患者さん自身を理解しようとするような捉え方である。つまり,その人の存在をその人の内部で起こっている「変状」のプロセスを通して理解しようとする。これはAgamben,G. アガンベン(2014)のいう「中動態的存在論」に通じるものであり,そうした中動態的な理解がなされる対話を私は「中動態的対話」と呼ぶことにしたい。
中動態的対話は,図3のように示すことができる。支援者と当事者とが,かかわりを通してお互いに自分の内側で起こっている「変状」に丁寧に目を向け,そこから生まれる言葉を交わし合うような対話である。そのような対話では「支援する側」と「支援される側」が区別されることはない。そういう意味で,支援に関する対話が支援者と当事者の対等な関係の中で行われる。また,中動態的対話は支援者が当事者に対して何らかの働きかけを行うような関係を前提としないため,支援する側の価値観で相手を変えようとするような発想も存在しない。このように,中動態的対話においては,最初にODとPCAに共通するエッセンスとして挙げた「対等性」や「脱操作」が自ずと成立するのである。
5.おわりに
中動態といえば,臨床哲学の木村敏氏が晩年に注目していたことでも有名である。木村は中動態にまつわる対談の中で以下のように述べている。
私の場合は,臨床哲学的かつ治療的な「人と人との出会い」の場で,治療者である「私」とその相手方である患者さんとが,一般に「中動態的」と呼ばれるような仕方でその「主体」あるいは「主観」を交換している場面があって,その場面ではその二人の「あいだ」でそもそも何が起こっているのかが問題になったわけです。そこには何かをつくろうとしてつくる人などはいません。近年,精神医学を席巻しつつある科学主義的な擬似精神医学は別として,精神科医は当事者の精神的健康を「つくったり」などしません。誰が何のためにどのようにつくったかよりも,結果として二人が互いにそれなりに受け入れられる状態に達したときに,さっきおっしゃった丸山眞男の言葉を借りますと,そういう結果を導いた「つぎつぎとなりゆくいきほい」を,それとして見定めることのほうが,私としては大事なんだろうという気がしています。
(木村・森田,2016)
まさに中動態的対話における「対等性」や「脱操作」の臨床的意義について,端的な言葉で見事に述べられている。日本においてこれからもODの実践が発展していくために,PCAに取り組んできた私としては,ODで大事にされている対話のエッセンスを,両者の共通点の模索とともに,中動態概念からさらに理解を深めていきたいと考えている。
文 献
- Agamben, Giorgio(2014)L’uso dei corpi, Neri Pozza Editore. (上村忠男訳(2016)身体の使用:脱構成的可能態の理論のために.みすず書房.)
- 木村敏・森田亜紀(2016)臨床哲学/芸術の中動態. 現代思想,Vol. 44-20, 8-25.
- 國分功一郎(2017)中動態の世界 意志と責任の考古学.医学書院.
- 國分功一郎(2019)中動態/意志/責任をめぐって.精神看護,22(1), 5-19.
- 本山智敬(2023)パーソンセンタード・アプローチとは何か:7つのエッセンス.In:本山智敬・永野浩二・村山正治編著(2023)パーソンセンタード・アプローチとオープンダイアローグ─対話・つながり・共に生きる.遠見書房.
本山智敬(もとやま・とものり)
福岡大学人文学部教育・臨床心理学科 教授
臨床心理士,公認心理師
主な著書:『ロジャーズの中核三条件 一致/受容:無条件の積極的関心/共感的理解 カウンセリングの本質を考える(三分冊)』(共編著,創元社,2015),『私とパーソンセンタード・アプローチ』(共著,新曜社,2019)『エンカウンター・グループの新展開:自己理解を深め他者とつながるパーソンセンタード・アプローチ』(共編著,木立の文庫,2020)
『パーソンセンタード・アプローチとオープンダイアローグ −対話・つながり・共に生きる』(共編著, 遠見書房, 2023)
趣味:犬と遊ぶこと、ドライブ