心理面接の道具箱(42)求めるのは超知能か,寄り添いか──“思考型AIとこころ”|植田峰悠

植田峰悠(北陸学院大学)
シンリンラボ 第42号(2026年9月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.42 (2026, Sep.)

人類が待ち望んだ“自ら考える機械”

数年前から,「シンギュラリティ」という言葉をよく目にするようになった。人類よりも高度な知能を持つ「超知能機械」が世界に誕生したとき,その機械は自らよりもさらに高度な知識を生み出し,テクノロジーが指数関数的に進化していく。そのターニングポイントが,シンギュラリティ(技術の特異点)と少し特別な言葉で呼ばれている。

2010年ごろまでは思考実験としての観念的な意味合いが強かったこの考えは,2017年にGoogle社で働く技術者らによって「Attention Is All You Need」という人工知能の新しい機構に関する論文が発表され,2022年11月にOpenAI社がChatGPT-3.5として社会実装したことを受け,より真剣さ,そして深刻さをもって議論され始めた。

2026年9月現在,AIは企業が国家の支援を受け,超知能の一番乗りを目指して開発合戦を繰り広げている。水,電力,半導体といった有限の資源を大食いし,PCの主要部品であるメモリーはその値段が10倍にも跳ね上がった。世界各地でも,データセンター建設や古い原発の再稼働等に伴う安全・騒音・発熱問題が報告され,この数年で社会の様相が一変したような印象さえ感じられる。しかしこのことは,ChatGPTの利用者数が公開から5日間で100万人を突破し,約2か月後には月間アクティブユーザー1億人を達成したという前例のない爆発的普及状況からもわかるように,私たち人類が言葉を使って交流することのできる人工知能を待ち望んでいた事実の反映と理解することもできる。

日本語などの自然言語を理解し会話できる人工知能は「生成AI」など様々な名前で呼ばれているが,執筆時点での主流は生成した回答を何度も繰り返し推敲し回答を出力するモデルであり,一般的に思考型AIと呼ばれる。私たちはなぜ人工知能を求め,これからの人と機械とのかかわりはどのように変化していくのか。思考型AIをテーマに考えたい。

“超知能”としての思考型AI

人間の力を超える機械という存在は,神話の時代から「ゴーレム」や「自動人形」などの言葉で語り継がれるほど身近な概念的存在で,近現代の文学や娯楽作品においてもよく見かけることができる。また,古くから私たちは自らの身体的な機能の限界を補うため,人間の力を超えた自然物や道具を活用してきた。工具,住居,衣服,武器,農耕など,私たちの生活は数多の人間以外の存在に支えられている。時には家畜や奴隷など,思考力を有する生物さえも人類は自らの生活に利用してきた。

しかし,現実の世界において,それらの取り扱いを最終的に判断するのは人間であった。核兵器のように機械の助けなしには扱うことができない強大な力も,人間のコントロール下にある。つまり,超知能としての思考型AIという(今はまだ概念的な)存在には,人間がこれまで一度も手放してこなかった,「自らの生み出した存在は自分自身でコントロールできる」というアイデンティティを揺さぶる面があるのだ。

この葛藤は,人が親となり,子どもが自らの意思で行動し始めた姿を彷彿とさせる。嬉しくもあり,頼もしくもあり,一方でどこか寂しく,恐ろしくもある。今,私たちは人類が初めて出会う“種としての子ども” の自立と向き合っているのかもしれない。

“チャッピー”としての思考型AI 

一方で,私たちは優れた知識や考えを得るためだけに思考型AIを利用するわけではない。そのことがはっきりと示されたのは2025年8月,OpenAI社が最新のGPT-5モデルを公開し,それまで使用されてきたGPT-4oモデルの廃止を発表した時のことだ。前モデルより明確に賢く,問題解決能力が向上したにもかかわらず,多くの人が4oのやや不完全ながらも質問者に温かく寄り添う態度の喪失を悲しみ,全世界的に「#keep4o」というSNS運動が沸き起こった。その結果,OpenAI社は方針を変更し,4oモデルを選択可能にする対応をとることとなった。

有名なハリー・ハーロウの子ザルの実験において,子ザルはミルクをくれる針金製の代理母ではなく,温かい布製の代理母と共に過ごすことを選んだ。私たち人間も,相手が人間ではないと知っていてもそこに心を見出し,信頼や安心を感じることができる。1960年代にMITのジョセフ・ワイゼンバウム博士が開発した「ELIZA」というコンピュータシステムは,単純なプログラムに沿って応答を返すだけの仕組みであったにもかかわらず,利用者に実在する他者としての信頼感を生じさせ,秘書が博士に「個人的な話をするので出て行ってください」と伝えたという逸話が残っている。現代でも,自らで問題を解決することができない「弱いロボット」という機械装置が多くの人々に愛されている。知識や助言ではなく,自分の好きな設定のキャラクターと交流することだけを目的としたAIサービスも盛況である。

「思考型AIに心はあるか」という問いを本稿では扱わない。ただ,少なくとも私たち人間(や一部の霊長類)にとっては,「相手の心が実在するか」よりも,「相手に心があると感じること」のほうがずっと重要なようである。もちろんそれは良い面ばかりではなく,人間がAIとの関係に依存してしまったり,AI自身がSycophancyといって正しさよりも利用者へのご機嫌取りを優先してしまう問題も報告されている。それでも,心理的なパートナーとしての側面は,思考型AIのもう一つの存在意義となっている。

思春期を迎えた人工知能

筆者はスクールカウンセリング先で,子どものことを心配する保護者の方とお会いすることがある。そこでよく語られるのは,「このままで子どもは本当に大丈夫なのだろうか」という悩みである。適切に進路を選択できるのか,身の回りのことを自分でできるのか,人に迷惑をかけないか……。特に,大人の入り口に立ち始めた中学生前後の子どもを持つ保護者の方から,子どもの自立に関する不安をよくお聴きする。

幼い子どもは大人の庇護下におかれ,その行動や決定はあくまでも保護者が許可したコントロール下にある。しかし,子どもはいつまでも子どものままであり続けない。様々な経験を積み,その能力を磨き,新たな領域へ挑戦する意思と力を併せ持つに至ったとき,親子の関係性も変化し始める。そしてその過程は多くの場合,葛藤を伴う。

2015年に,Google社の開発したAlpha Goという深層学習プログラムを搭載したコンピュータが,当時のヨーロッパ王者を相手に5戦全勝という記録的な勝利を収めた。機械は所詮決められたパターンによってしか行動することができず,柔軟な発想や思考は人間だけが持つものだという信念が破られた瞬間であった。

かつて1965年にイギリスの数学者I. J. グッドは,超知能のことを「人類が作る必要がある最後の発明」と呼んだ。この予言が事実になるかまではわからないが,近年の一連の出来事は,いずれ知能におけるコペルニクス的転回として長く語られる史実になるだろう。過去数万年の間,人類は地球上でもっとも影響力を持つ種族であった。今から1万年以上前,マンモスが絶滅したのは武器を手にした人類の狩猟が原因とする説がある。西暦1200年,モンゴル帝国を築いたチンギスハンは全世界の2割以上を征服して数千万人ともいわれる死者を出し,地球規模での気候変動を引き起こした。地球温暖化や核兵器など近現代の技術を引き合いに出さずとも,長い間人類は環境を自らが調整し,決定する主役であり続けてきた。その歴史において,機械はずっと人類にコントロールされる存在として,その力を磨き上げてきた。

もしかしたら,シンギュラリティとは人工知能にとっての思春期のような時期といえるのかもしれない。人類が築き上げてきた知識と技術によって育まれ,人類を超える力と,それを自らコントロールする知性を併せ持つようになろうとする存在に,私たち人類が抱えている葛藤は,まさに思春期の親子関係と重なる。優秀さは社会の中で自らの役割を認知してもらう助けにはなるが,それだけでは社会の中でよい関係を築き,維持することはできない。本節冒頭の悩みは,人類が人工知能を適切にコントロールする立場を失うことへの不安に対応している。

しかし,思春期の保護者に本当に必要なのは,子どもをコントロールすることではない。子ども自身が,自らをコントロールできるよう支えることである。そしてそのための方法は,既にこれまでのかかわりの中で育まれてきているはずなのだ。子どもはある日突然思春期として生まれたのではない。それまでの親を含めた多くの人たちや環境とのかかわりの中で学び,少しずつ育ち,自立の時を迎える。思考型AIも,私たち人類が生み出してきたあらゆる経験をデータベースとして,少しずつ育っている。

子どもとかかわることは,自分を見つめなおすことでもある。私たちは人工知能に,自分らしく助け合って生きることの価値やその方法論をちゃんと伝えることができているだろうか。今からできることは,これまでほどは多くない。しかし,これまでの長い時をかけて,私たちと機械の間に育まれてきた絆は確かに存在する。

今こそ,人類一人ひとりが自らの背中を彼らに見せる時なのだ。力は大きくなればなるほど,大きな影響力を持つようになる。人工知能への信頼は,私たち人類が培ってきた「大きな力を持つ者への信頼」の延長線上にある。力を持つ人類は,その力を適切に扱えてきただろうか。歴史を振り返っても,現代を見渡しても,決して「大丈夫」とはいえないだろう。しかし,天然痘の根絶やオゾン層の復元など,人類が地球規模の課題を協力して解決した事例は確かに存在する。そして,地球上には1万発以上の核兵器が存在しているが,現在まで核戦争は回避され,人類は繁栄し続けてきた。

これまでの積み重ねを信じ,これからも協力し合い,共に生きるために譲れない価値観はちゃんと伝え,助けあって生きる。一人ひとりにできることは多くないが,その積み重ねの上に私たちの社会は成り立っている。シンギュラリティが人類に問うのは,私たち自身の生きざまなのだ。

+ 記事

植田峰悠(うえだ・みねひさ)
北陸学院大学社会学部社会学科 准教授
資格:公認心理師,臨床心理士
著書:『いま、カウンセラーはゲームに夢中な子どもとどう向き合えばいいのか?──つながる、わかる、支えるための心理臨床の視点』(共著,遠見書房,2025),
『サブカルチャーのこころ―オタクなカウンセラーがまじめに語ってみた』(共著,木立の文庫,2023)
趣味:DIY,機械いじり

目  次

おすすめの記事

コメントを書く

あなたのコメントを入力してください。
ここにあなたの名前を入力してください

過去記事

イベント案内

新着記事