長川歩美(A&C中之島心理オフィス)
シンリンラボ 第41号(2026年8月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.41 (2026, Aug.)
本書は,読み終えて「理解した」と言い切れる類の本ではない。
富樫公一という臨床家が,世界の精神分析と日本の臨床を往還しながら積み重ねてきた問いが凝縮されているからだ。ページを行きつ戻りつ読み進めるうちに,臨床で見過ごしてきたものや,こころの奥に沈んでいたテーマがぽつぽつと息づき始め,著者の問いと響き合いながら立ち上がってくる。理論の豊かさも魅力だが,本書の核心は,読者自身を思索へと向かわせる力にある。
私は以前から,著者という人をどこか不思議に感じていた。
10年ほど前,著者が企画したニューヨーク研修に参加したとき,私は英語への苦手意識と世界的な臨床家を前にした緊張で萎縮していた。そんな私に著者は「ワンカットでお腹いっぱいになるからね」と熱々でジューシーなピザの店を教えてくれた。夜は軽やかに場を和ませ,翌朝には通訳に力を尽くす。帰国後も学びの機会をつくり,世界の臨床を日本の臨床家につないでいく。その姿に,私は「この人は何に駆られてここまでの仕事をするのだろう」と思わずにはいられなかった。
ある日,私は「受けたご恩を,どうしたらお返しできるのでしょう」と尋ねた。著者は少し考えて,「海外の学会で発表することだね」とだけ言った。当時の私には到底できないと思えたその言葉は,それから7年後に現実になる。
忘れられない場面がもう一つある。ケースセミナーで助言を求めた私に,著者は技法ではなく,私と患者の社会的条件の差異や,生きる世界の違いを問い続けた。私は「そんな隔たりを考えたって何も変わらないのに」と内心著者に反発し,患者と対等であろうとする考えに逃げ込んでいた。
本書を読んで,私は初めてその問いの意味を理解した。著者のいう「当事者性」とは,相手と同じ立場になることではない。「別の世界では私が彼女だったかもしれない」という偶然性に目を開き,他者からの呼びかけに応答する責任を引き受けることである。そして「倫理的転回」とは,治療者と患者という関係に先立つ次元で,目の前の他者の呼びかけにどう応えるかへと重心を移すことなのだ。
ニューヨークでの著者の関わりは,一人ひとりの存在の呼びかけに応えるものだった。恩返しについての私の問いへの応答は,研鑽を求めてそこにいた私への応答であると同時に,日本の臨床を世界の中でどう開いていくのかという,より大きな問いへの応答でもあったのだと思う。
私はこれまで,患者と対等であろうとする姿勢の裏に,患者との出会いが自分に突きつける責任から身を引く安住があったのかもしれない。分断とは,遠くの社会で起きていることだけではない。目の前の人との埋めることのできない違いを,見ないことにしようとする私の中にもある。本書はそのことを穏やかに,しかし確かな力で問い返してくる。
「分断」「当事者性」「倫理的転回」「根源的罪悪感」──これらの言葉は平易ではない。しかし読み進めるほどに,難解な概念ではなく,自分自身の体験に重なるものとして迫ってくる。理解したと思った瞬間に足元をすくわれ,再び考えをめぐらせる。そのさまよいこそが,本書を読む価値なのだ。
読み終えた今,私に残っているのは,理解したという満足ではない。かつて応えてもらうばかりだった私が,この本の呼びかけに,これからどう応えて生きていくのか──その問いである。
長川歩美(おさがわ・あゆみ)
A&C中之島心理オフィス(個人開業),京都精神分析・心理療法研究所(KIPP)
資格: 臨床心理士,公認心理師
主な著書・訳書: 『対人関係精神分析の心理臨床―わが国における訓練と実践の軌跡』(分担執筆,誠信書房,2019),ガリト・アトラス『欲望の謎ー精神分析は性,愛そして文化多様性にどう向き合うのか』(共訳,金剛出版,2023),ルイス・アロン『こころの出会い―精神分析家としての専門的技能を習得する』(共訳,金剛出版,2020)
趣味: 記憶術,ピアノ











