岩宮恵子(島根大学)
シンリンラボ 第39号(2026年6月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.39 (2026, Jun.)
まず心を打たれるのは,この本が「いま」世に出たということである。著者が亡くなってからすでに二十数年が過ぎている。にもかかわらず,井上亮という臨床家を知る人々が,氏の声を現在に届けようとし,実際に一冊の本として差し出した。本書は他界から届いた「現代の臨床」への手紙のようだ。
井上は,こころの病について,症状が表面的には軽症化しているように見えながら,実は病の根と絶望は深くなり,治りにくくなっているのではないかと論じる。その背景にあるものとして,自己治癒力の低下があり,さらにその奥に「他界喪失」の問題を見出している。
たしかに,今日のクライエントたちは,かつての精神病理学が想定していたような重篤な症状を前景に出すとは限らない。日常生活を送り,スマホで動画を見ては笑い,予定をこなし,表面上は「なんとかやれている」ように見えている人も多い。しかしその内側では,言葉にならない空洞が深く広がっていることがある。倒れてはいないが,立っている足場がぐらついている。
井上の言う「他界喪失」とは,単に死者の世界や宗教的世界観が失われたという意味にとどまらない。それは,目に見える現実だけではこころが生き延びられないという,人間存在の根本に関わる問題である。かつて人は,祭り,儀礼,物語,夢,祖先,土地,神仏,死者との関係を通して,この世だけではない次元とつながっていた。そこには,苦しみをただ個人の内面問題に閉じ込めず,より大きなもののなかで受けとめる仕組みがあったのだ。
現代は,サブカルなどでも「異界」のイメージが活発に表現されている。このような「異界」は,井上の「他界」と重なりながらも,少し違う響きをもっている。「他界」が,死者や祖先,彼岸,見えない世界との垂直的な通路を思わせるとすれば,サブカルの「異界」は,現実のすぐ隣に開く横穴のような印象がある。
サブカルのなかに表れる異界や推し活,聖地巡礼といった現代的な関わりは,商業化され,SNS化され,しばしば比較や承認の苦しみも伴う。それでもなお,人はそこに,自分一人では抱えきれない何かを置きに行く。現実の世界だけでは収まりきらない悲しみや憧れを,物語の場所に運んでいく。
こころが病むのは,単に現実適応がうまくいかないからではない。現実以外の場所と往復する力を失うからである。夢を見る力,イメージに遊ぶ力,死者や不在のものと静かに関係を結び直す力が弱まると,こころは現実に貼りついたまま動けなくなる。スマホの画面は無限に開いているのに,内的な通路は閉じている。情報は洪水のように流れているのに,たましいが息をつける入り江がない。そこに,現代の絶望の深さがある。
井上が「自己治癒力の低下」と呼んだものも,この文脈で読むと非常に示唆的だ。自己治癒力とは,単に本人の強さや回復力のことではない。むしろ,自分を超えたものに触れ,自分だけではない時間や場所に支えられる力のことではないだろうか。
『他界心理学』の価値は,井上が四十年近く前に,すでにこの問題を見抜いていた点にある。病は軽くなったのではない。見えにくくなったのである。絶望は消えたのではない。日常のなかに薄く広がったのである。そして治癒力は,個人の内側だけでなく,他界や異界との関係のなかで考え直されなければならない。これは,現在の心理臨床にとって,きわめて重要な示唆である。
本書は,過去から届いた本ではない。むしろ,まだ十分には聞き取られていない未来からの声のように思える。講義録というカセットテープのざらつきの向こうから,井上の声は言っているのかもしれない。こころの病を,本当にこの世だけで考えてよいのか,と。
(いわみや・けいこ)
島根大学こころとそだちの相談センター,臨床心理相談室 にしきまちオフィス
資格:臨床心理士,公認心理師










