坂井 誠(中京大学)
シンリンラボ 第26号(2025年5月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.26 (2025, May.)
今現在,養育者からの長期的な虐待やパートナーからの暴力などのトラウマ体験によって,どれくらいの人が複雑性心的外傷後ストレス症(複雑性PTSD)に苦しんでいるのだろう?
複雑性PTSDとは,2018年にICD-11で新たに採用された診断名であるが,日本では,いや,日本でも信頼できる疫学調査は行われていないらしい。この障害は,PTSD症状に加えて感情調整や対人関係の問題を伴う。うつをはじめとする併存症も非常に多い。うつ病,パニック症,社交不安症,解離症,注意欠如多動症,境界性パーソナリティ症,物質関連症などと診断され,慢性化した複雑性PTSDが見逃される危険性もある。有病率は意外と高いのかもしれない。
PTSD,複雑性PTSDに対するエビデンスのある治療法としては,持続エクスポージャー療法(PE),認知処理療法(CPT),眼球運動による脱感作と再処理法(EMDR)がすぐに思いつく。そのほかにも,マインドフルネスやソマティック・アプローチなどがある。そうしたなかで,ナラティブ・エクスポージャー・セラピー(NET)は複雑性PTSDによりフィットした治療法として位置づけられている。
本書は,わが国にNETを導入した第一人者とエキスパート達による,NETの普及への願いがこめられた専門書である。第Ⅰ章「総論:NETを心理療法に生かすために」に始まり,「成人・医療領域における実践」,「児童精神科領域における実践」,「虐待を受けた子どもへの実践」,「児童福祉施設における実践」,そして「Q&A」という全6章で構成されている。NETの概説と,児童・成人の医療・福祉領域での実践例がぎっしり詰まっている。また,2つのコラム「これからNETに取り組まれるセラピストの先生へ」,「CureとCare―クラフトマンシップの息づくところ」を読むと,ほっと一息つくことができる。
内容をもう少しだけ紹介する。NETは,アフリカの武力紛争による難民支援のために開発された,戦争や紛争地域でのPTSD症状を緩和するトラウマ焦点化技法であるが,虐待,DV,複数回の死別体験,いじめなどの外傷的体験への治療法として,わが国での有用性が力説されている。他の治療法との違いとしては,開発の経緯に由来するが,エクスポージャーによるトラウマ記憶の統合を目指すだけでなく,クライエントの人生史を再構築し,人権を回復するという視点が何度も強調されている。まず,クライエント自身の誕生から始まる人生全体の重要な出来事を,時系列でたどる作業を行う。人生ライン「花と石のワーク」として,床に伸ばした紐の上に,花(良い出来事)と石(悪い出来事)を置き,自伝的記憶を時系列に沿って俯瞰する。次に,トラウマ的出来事の詳細な語り(ナラティブ)によるエクスポージャーによって,恐怖の馴化,認知の修正,文脈化された記憶の構築を行う。そして,失われた人生史を統合し,人としての尊厳を取り戻していく。
最後に暴露話をすると,評者はNETの専門家ではない。認知行動療法を専門とし,PTSDや複雑性PTSDに対しては,エクスポージャーをベースにマインドフルネス瞑想を織り込んだ支援を行っている。でも伝えたい。「複雑性PTSDと関わる臨床家だけでなく,『あまり興味はないな』という思考が浮かんだあなたにも,本書から新鮮な気づきが得られるに違いない」
この本,手にしてみたい! 触れてみたい! 感じてみたい!
そう思ってくださる方が一人でもおられたら,うれしいな。
坂井 誠(さかい・まこと)
中京大学心理学部
資格:公認心理師,臨床心理士,医学博士