書評:『心理臨床と政治 こころの科学増刊』(信田さよ子・東畑開人 編著)|評者:松本卓也

松本卓也(京都大学大学院人間・環境学研究科 准教授)
シンリンラボ 第18号(2024年9月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.18 (2024, Sep.)

「心理臨床にとって政治とは何か」というタイトルの特集号が組まれるということそれ自体が徴候的であると言ってよい。というのも,本特集の冒頭で東畑開人が整理しているとおり,日本の心理臨床は,“心理検査や心理治療といった営みは,病める個人ではなく,社会や権力の側の要請を満たすものでしかない”という痛烈な政治的批判を締め出すことによって現在の姿を手に入れたのであり,それゆえ心理臨床が「政治とは何か」を問うということは,自らが排除してきたものにふたたび向き合うことであるからだ。

けれども,政治とはいったい何だろうか? 信田さよ子は,本特集の末尾の東畑との対談において,「政治」という言葉の居心地の悪さについて語っている。信田がつかう「政治」とは,「家族のポリティクス」であり,それは家族という一枚岩にみえる集団のなかでさまざまなアクターがひしめき合い,さまざまな諍いが生じ,加害/被害といった認識が生じ,ときに闘争が生じるような場のことをいう。けれども,一般にいうところの政治とは,むしろ関係者どうしのあいだの利害調整であり,「党内政治」という言葉に象徴されるように,ある派閥を勝たせた次には別の派閥を勝たせるといった仕方で,集団の内部になるべく敵対性を生じさせないようにする努力である。

心理臨床にとって「政治」が見過ごせない課題となってきたのは,やはり1995年の阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件以後のことであろう。面接室という密室で心の空間を扱うだけで自足していた心理臨床は,その空間の外部にある暴力に,トラウマに,そして異議申し立てに向き合わざるを得なくなった。堰を切ったように──とはいっても,その後20数年をかけてゆっくりと──アディクション,DV,母娘問題,フェミニズム……といった一連のイシューが心理臨床に流れ込んでくるようになった。1970年代の臨床心理学会における痛烈な批判から逃れるようにして誕生した日本の心理臨床は,河合隼雄のカリスマによって蓋をしていたところのものの噴出に向き合わなければならなくなった。それらのイシューすべてに取り組み,いわば心理臨床の「裏街道」を歩んでいたはずの信田が日本公認心理師協会の会長となったことはその噴出の帰結である。

けれども,このように展開されつつある心理臨床の政治的転回が今後どのようになるのかは定かではない。政治学者シャンタル・ムフは,「政治(politics)」と「政治的なもの(the political)」を峻別した。「政治的なもの」とは,カール・シュミットが見出したような「友」と「敵」を分割する敵対性のことであり,私たちの社会において重視されている「合意」なるものの限界を暴露する。他方,「政治」は,そのような敵対性を無化し,厄介払いしようとすることに(たとえば利害調整に)全力を尽くす。その意味で言えば,信田が「家族のポリティクス」と呼んでいたものは,自らの被害を「被害」と認め,闘争を開始することを可能にする「政治的なもの」をひらく場のことであろう。

本特集におけるさまざまな報告が示唆しているように,これまで光があたっていなかった諸々のイシューに対して,国家資格や制度や種々の実践が機能するようになったことは,「政治的なもの」の噴出の帰結であろう。しかしそれは,利害調整と合意によって構成される「政治」でしかないようなものにふたたび舞い戻るかもしれない。その徴候も──必ずしも本特集号の論考の中に,というわけではないが──また見えつつある。公認心理師に求められる「多職種連携」は,「己の専門性の範囲を超えるな」という命令に容易に反転する。「心理」派と「社会」派の対立における心理師の「社会派」たる部分は,「連携」によって置き換えられてしまいかねないのだ。「ケア」論の広がりは,その拠って立つフェミニズムが維持してきた敵対性を骨抜きにするかもしれない(カフェイン抜きのコーヒーならぬ,フェミニズム/敵対性抜きのケア論!)。その意味で,本特集の取り組みは,心理臨床の転回の結果報告としてではなく,ときに対立する議論を戦わせるための狼煙として捉えられる必要があるだろう。

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・名前:松本卓也(まつもと・たくや)
・所属:京都大学大学院 人間・環境学研究科
・資格:医師,公認心理師

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